第56話 私の名前を試される朝
私は、いつもより、半時間ほど、早く、起きた。
湯桶で、丁寧に、両手を、清め、指の薄い緑色を、いつものとおりに、確かめた。
机のうえに、アンナが、前夜のうちに、私の正装を、整えていた。
学府の正装。黒い、長い学者服。襟元は、深い銀の刺繍。
襟章は、ふだんよりも、ひとまわり大きな、銀の月桂樹の細工。
これは、アルメリア帝国の、賓客調香師に、正式な場でのみ、認められる、襟章だった。
ふだん、私は、灰色の襟章を、つけていた。今朝、私はもう、ふだんとは、別の身分で、宮廷の場に、立つ。
私はその正装を、ゆっくりと、身につけた。
背筋を、ふだんよりも、わずかに、深く、整えた。
それから、机の前に、座った。
机のうえに、私は、新しい便箋を、一枚、広げた。
インク壺の、青いんく。
羽根ペンを、取り上げる。
私は、ふだんよりも、丁寧に、ペンの先を、磨いて、青いんくに、つけた。
そして、最初の二文字を、書いた。
——マイヤー師。
私は、しばらく、その二文字を、見ていた。
師は、ヴェルディアの王都近郊の、薬草園で、いま、たぶん、朝の散歩を、終えたところ。
冬の終わりの、白い空のもとで、ご自身の小さな温室の前で、湯気の立つ茶を、両手で、温めている、——その光景を、私は、勝手に、想像していた。
正しいかどうかは、わからなかった。
わからなくても、構わなかった。
私の中の、師の朝の絵は、五年前から、ほとんど、変わっていなかった。
私は、続きを、書いた。
——マイヤー師。
——今朝、私は、アルメリア帝国の、御前会議に、立ちます。
——本日、私は、——**自分の、名前を、試されます**。
——母と、あなたの、名前にも、恥じない、働きを、して、まいります。
——リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム。
短い、四行と、署名だけ、だった。
それ以上は、書かなかった。
書きながら、私の中で、母の名前を、便箋の上で、ちゃんと、置いたのは、これが、初めてだった。
リーリエ・フォン・エヴァースハイム。
彼女の論文の、献辞の中の、私の名前。
その娘である、ということを、私はようやく、自分の手で、紙の上に、書ける場所まで、来ていた。
封蝋を、温めた。
赤い蝋を、封筒の合わせ目に、滴らせ、印章を、押した。
エヴァースハイム家の、月の下に立つ葦。
私はその紋章を、いつもより、わずかに、深く、押した。
「——アンナ殿」
私は、扉の向こうに、声を、かけた。
「奥様、お入りいたします」
アンナは、すでに、控室への、馬車の手配を、整えていた。
彼女もまた、ふだんの灰色の学者服ではなく、補佐官の深紅の襟章に、薄い銀の留め金を、つけていた。
「——マイヤー師に、お手紙、を」
私は、封筒を、差し出した。
「明日には、ご報告を、お送りいたします」
アンナは、その封筒を、両手で、受け取った。
受け取って、目線を、ほんのわずか、伏せた。
「——奥様」
低く、彼女は、口を、開いた。
「ご検討を」
「——ありがとう存じます」
アンナの「ご検討を」は、いつもの儀礼的な「ご検討」とは、響きが、違った。
それは、戦場の前夜の、私的な、しかし最低限の、激励の代わりだった。
彼女は、それを、それ以上の言葉に、しなかった。
それで、十分だった。
——*
馬車は、宮廷の南門で、止まった。
衛兵が、馬車の脇に、立った。
身分照合のあと、私は、テオドールが、用意してくれた、宮廷専用の、軽い四輪車に、乗り換えた。
四輪車は、宮廷内部の、長い大理石の回廊を、ゆっくりと、進み、御前会議の控室の、前で、止まった。
控室は、白い大理石の床に、深い藍の絨毯。
中央に、革張りの長椅子と、書きものの机。窓は、北向きで、午前の光が、ゆるやかに、入っていた。
テオドールは、すでに、控室の脇の、別の控えの間で、自分の支度を、整えていた。
私とアンナだけが、長椅子の前に、立っていた。
——御前会議の議場は、控室の扉のすぐ向こう、らしかった。
扉越しに、低く、人の動く気配が、聞こえた。
時刻の合図の、銀の鐘の音が、ふたつ、響いた。
ふたつ目の鐘で、議場の扉が、いったん、閉じられたらしい音。
それから、議場の中央に、書記官が立ち、議題を、読み上げる、低い声が、わずかに、漏れてきた。
私は、長椅子に、座らなかった。
立ったまま、控室の中央で、深く、息を、整えた。
「——奥様」
アンナが、低く、つぶやいた。
「ご無理を、なさいませんよう」
「——ええ」
私は、頷いた。
それから、私は、心のなかで、もう一度、母の名前を、置いた。
——リーリエ・フォン・エヴァースハイム。
それから、師の名前。
——マイヤー。
そして、私の、名前。
——リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム、調香師。
その三つの名前を、心の中で、並べてから、私は、ゆっくりと、息を、吐いた。
扉の向こうの、書記官の声が、止まった。
そして、別の、ふだんよりも、わずかに、高い、深い声が、控室の扉の前で、私の名前を、呼んだ。
「**——リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム、調香師。御前会議の場へ、お入りください**」
私は、わずかに、頷き、扉の方へと、足を、進めた。




