第55話 怒りを示さない
「学府長より、奥様に、御前会議の進行について、ご説明があります、と」
私は外套を、軽く、羽織り、学府長執務室まで、廊下を、歩いた。
護衛のふたりは、廊下の角ごとに、姿勢を変えず、立っていた。
私が通り過ぎるたびに、彼らは、ほんの一瞬、目線で、安否を、確認した。
執務室では、テオドールが、すでに、机の上に、御前会議の、進行表を、整えていた。
「奥様、お忙しい中、申し訳ございません」
「いいえ」
私は、机の向かいに、腰を下ろした。
「——三日後、皇帝陛下は、御前会議の議長として、ご列席なさいます」
テオドールは、進行表を、指で、追いながら、説明を、始めた。
「ですが、陛下は、議題に対しては、中立の立場でいらっしゃいます。発議は、ガストン卿。学府四公のうち、調香学府は、私が、ご欠席なく、ご列席いたします。薬学府は、ガストン卿。植物学府と、天文学府の二公は、中立寄りでございます」
「左様で、ございますね」
「進行は、こうなります。まず、ガストン卿が、賓客資格剥奪の上申理由を、述べる。次に、私が、それに対する反対意見を、述べる。中間で、貴女ご本人が、業績の説明と、職務報告を、求められる」
私は、進行表の、二列目の、中央の項目を、指で、示した。
「——『**当事者陳述**』、でございますね」
「ええ」
「**短い、職務報告で、十分でございます**」
私は、低く、それだけを、答えた。
テオドールは、わずかに、頷いた。
「それで、結構でございます。法的根拠と、物的証拠は、私の方で、提出いたします」
「物的証拠と、申しますと」
「蒼森南西斜面から、お持ち帰りになった、革の留め金。アンナが描いた、現地調査の地図。マイヤー師の手記、母君の論文、各家門の人事報告書、それから——」
彼は、机の引き出しを、ひとつ、開け、革張りの、薄い箱を、取り出した。
箱の中には、薄い革表紙の冊子が、十二冊、整然と、並んでいた。
「——**貴女の、論文、十二編**」
私は、しばらく、その箱を、見ていた。
「——テオドール卿は、これらを、どちらに?」
「執務室の、机の引き出しに、保管しておりました。**学府長就任、二年目から、毎年、一冊ずつ、王宮御用達調香師の名で、寄稿された論文を、追加して、参りました**」
「——五年間、ですか」
「正確には、六年半でございます」
私は、目を、伏せた。
——六年半。
テオドールは、私が招聘される、ずっと前から、私の論文を、自分の机の引き出しに、納めていた。
論文だけが、彼の机のうえに、長年、置かれていた。
論文を書いた人物の、ふだんの生活が、ヴァインフェルト邸の調香室で、どんな空気で、進んでいたかを、彼は知らなかった。
それでも、彼は、その論文を、丁寧に、束ねて、納めて、いた。
「——ありがとう存じます」
私は、深く、頭を下げた。
テオドールは、わずかに、目を、伏せた。
それから、論文の箱を、机の上の、別の場所に、移した。
「最後に、ひとつだけ、お伝えしておきたいことが、ございます」
低く、彼は、口を、開いた。
「皇帝陛下の御前では、——**貴女は、怒りを、示しては、なりません**」
私は、ゆっくりと、目を、上げた。
「ガストン卿の上申には、貴女を、怒らせる種類の文言が、含まれて、おります。『**外国人**』、『**ヴェルディアから追放された一夫人**』、——そういう言葉を、彼は、御前会議の場でも、使う可能性が、ございます」
私は、頷いた。
「貴女が、それに対して、怒鳴ったり、激昂したり、反論を声高に上げたりすれば、——」
「**御前会議は、感情的な争いの場になり、陛下の判断は、政治的に、ぶれる**」
私は、彼の言葉の続きを、自分の口で、引き取った。
テオドールは、わずかに、頷いた。
「左様でございます」
「ご心配は、ご無用でございます」
私は、机の上で、両手を、軽く、揃え、彼の目を、まっすぐに、見た。
「——**私は、五年間、怒りを、示しません**」
低く、けれど、はっきりと、私は、置いた。
その短い一文には、五年間の、ヴァインフェルト邸の屋敷の中での、すべての朝食、すべての社交、すべての義妹の侮蔑、すべての夫の冷笑、すべての義母の沈黙が、すべて、収まっていた。
私は、その五年間、ひと度も、怒鳴らなかった。
怒鳴る訓練は、私の中に、ない。
怒りを、見せる動作も、私の中で、ほとんど、退化していた。
テオドールは、しばらく、私の目を、見ていた。
そして、深く、頷いた。
「——左様、でございました」
短く、彼は、それだけを、置いた。
それで、十分だった。
「——では、明日と明後日は、ご自身の調香室で、ふだんどおりに、お過ごしください。御前会議の前夜は、お早めに、お休みくださいますように」
「——承りました」
私は、立ち上がり、深く、頭を下げ、執務室を、出た。
廊下に出ると、護衛のふたりが、すうっと、私の半歩、後ろに、ついた。
彼らの足音は、規則正しく、私の背中の半歩後ろで、響いていた。
不思議と、ふだんよりも、それが、心強かった。
宿舎に戻り、机の前に、座った。
机の上に、テオドールから渡された、新しい、別の便箋の束が、用意されていた。
明日、明後日のうちに、私は、——マイヤー師に、手紙を、書こう、と、決めた。
御前会議の前に、海の向こうの師に、私が、自分の名前で、立つ、ということを、報告しておきたかった。
私は、ペンを、青いんくに、つけた。
そして、最初の二文字を、書いた。
——マイヤー師。




