第51話 蒼森から手を引け
冷たい朝の空気が、廊下から、流れ込んできた、その瞬間、足元に、ふっと、白いものが、目に、入った。
封筒だった。
机の脇の書類入れから滑り落ちたわけではなかった。
そもそも、私の書類入れに、入る種類の封筒ではなかった。
扉の下の、わずかな隙間から、滑り込ませてあった。
私は、屈み込み、それを、両手で、ゆっくりと、拾い上げた。
封蝋は、なかった。
差出人名も、なかった。
宛名は、「ヴェスペル、レフナール調香学府、宿舎、リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム殿」とだけ、書かれていた。
筆跡は、整いすぎていた。整いすぎていて、特徴を、わざと、消そうとしている、ことが、すぐに、わかった。
——書記官の、訓練を、受けた者が、わざと、平凡な字で、書いたもの。
私は、扉を、内側から、閉めた。
そして、机の前に、戻り、机のうえで、封を、開いた。
中には、白い、薄い紙が、一枚。
書かれていたのは、ただ、一行だった。
——**蒼森から、手を、引け**。
それ、だけだった。
私は、しばらく、その一行を、ランプの光のもとで、見つめていた。
驚き、は、なかった。
予期していなかった、わけでもなかった。
むしろ、——昨夜、馬車のなかで、ヴァインフェルト家門と、蒼帯の縁戚の話を、テオドールとアンナと、共有した瞬間に、心のどこかで、私はこの種の手紙を、心の準備として、受け取る用意は、していた。
いま、それが、現実の紙のかたちで、目の前にある、というだけのことだった。
ただし、——準備していた、ということと、平気である、ということは、別だった。
私の指先が、机の縁の上で、わずかに、冷えていた。
私は、その紙を、もう一度、四つに、たたみ、封筒に、戻した。
そして、廊下に、出て、隣の宿舎の扉を、ふたつ、叩いた。
「——アンナ殿」
声は、思ったよりも、平静だった。
扉の向こうから、すぐに、アンナの足音が、応えた。
「——奥様」
「お時間を、頂戴いたしたく。ご支度の最中で、申し訳ございません」
アンナは、すぐに、廊下に出てきた。
私は、封筒を、彼女に、見せた。
「——これは」
彼女の眉が、わずかに、上がった。
それから、彼女は、紙を、開き、一行を、読んだ。
読み終えると、即座に、紙を、たたみ直し、私に、戻した。
「——テオドール卿にも、即刻、お知らせいたしましょう」
「ええ。お願いいたします」
——*
学府長執務室の朝は、ふだんよりも、半時間、早かった。
テオドールは、机の上に、その一行を、広げ、しばらく、ペンを置いて、見つめていた。
それから、ゆっくりと、目を、上げた。
「——奥様。学府の警備を、本日付で、強化いたします。貴女の宿舎にも、護衛を、二名、常駐させます。学府の出入りには、必ず、護衛が同行いたします」
「——ご配慮、ありがとう存じます」
私は、頷いてから、低く、続けた。
「ですが、テオドール卿。**私は、手を、引きません**」
テオドールは、わずかに、目元を、ゆるめた。
「——そう、仰ると、思っておりました」
短く、彼は、返した。
そして、彼は、立ち上がり、長卓の前を、ゆっくりと、歩いた。
「貴女が、手を引かない、という前提で、本学府としての対応を、考えます。第一に、警備。第二に、——」
彼は、机の脇に、立ち止まり、両手を、軽く、重ねた。
「——**情報の、公的な、保管**でございます」
「——と、申しますと」
「マイヤー師の手記、母君の論文、蒼森南西斜面の調査記録、留め金の物的証拠。これらを、本学府の、機密書庫の、正式な記録として、登録いたします。私個人、あるいは、学府長単独で、保管している状態では、何かあったときに、これらが、失われる、可能性が、ございます」
私は、頷いた。
「ありがとう存じます」
「同時に、写しを、一部、皇帝陛下直属の宮廷書記官にも、お預けいたします。これは、学府長として、皇帝陛下に上申するための、根拠の準備でも、ございます」
——皇帝、陛下に。
私の中で、わずかに、息が、止まりかけた。
ヴィレナと、蒼帯の話を、学府の内部にとどめずに、宮廷に、上申する。
それは、もう、学術の内部の話では、なく、外交と、政治の話に、なり始めていた。
私は、自分の名前で、その段階に、自分の手で、踏み込もうとしている、ということを、はっきりと、理解した。
「——テオドール卿」
私は、低く、姿勢を、整えた。
「**ご一緒に、上申、いたします**」
短く、それだけを、私は、置いた。
テオドールは、深く、頷いた。
——*
アンナは、その日のうちに、宿舎周辺の警備配置を、整え始めた。
護衛は、学府の警備局の、若い男たちが、二名、私の宿舎の階段の前に、ふだんと違う配置で、立った。
彼らは、姿勢を崩さず、過剰には、私の動きに、付きまとわなかった。それでも、彼らの目線は、絶えず、私の半径数歩を、見ていた。
その日の夕方、私は、学府の薬務塔の調香室で、白蒼苔の、温度耐性の、最終確認の試験を、進めた。
試験は、いつもどおりに、進んだ。
私の手は、いつもどおりに、動いた。
封筒の一行は、まだ、私の机の上の、書類入れの中に、納められていた。
書類入れの隣には、テオドールから、いただいた、白い封筒の招きの手紙も、置いてあった。
威嚇の一行と、調香塔への招き、そのふたつが、いま、私の机の上に、並んで、ある。
私はどちらも、まだ、机の上に、置いたままにしていた。
——手を、引かない。
私はそのひと言を、もう一度、心のなかで、確かめた。
ペンを、ゆっくりと、握り直して、配合の記録の続きに、戻った。




