第50話 孤独は、もう終わった
「奥様」
アンナの声。
時刻は、夜の九時を、過ぎていた。
ふだんの彼女は、私的な時間に、私の部屋を、訪れる人ではなかった。
「お入りください」
アンナは、扉を、後ろ手に、閉めてから、しばらく、机の前で、立っていた。
姿勢は、いつもどおり、けれど、いつもより、ほんの少し、肩が、緊張していた。
「——奥様」
彼女は、低く、口を、開いた。
「私の、過去を、お話し、いたします」
私は、椅子から、半身を、振り向け、彼女の方に、姿勢を、整えた。
「——お聞きします」
短く、私は、返した。
アンナは、机のそばの、革張りの椅子に、腰を、下ろした。
それから、両手を、膝の上に、重ねた。
深く、息を、吸い、吐いてから、彼女は、ゆっくりと、語り始めた。
「——私は、ヴェルディア王国、北部の、アルマ村の、薬草農家の、三女として、生まれました」
私は、頷いた。
「父は、長年、蒼森に近い、北部の薬草の、買い付けと、栽培を、生業に、しておりました。母は、二人の姉と私を、養いながら、薬草の選別と、乾燥の仕事を、しておりました」
アンナの声は、いつもの実務的な調子だった。
けれど、その下に、別の音が、わずかに、混ざっていた。
息継ぎの間隔が、ふだんよりも、ほんの少し、長かった。
「——十二年前」
彼女は、続けた。
「**蒼帯の、若い男たちが、私たちの、村に、やってまいりました**」
私の指は、机の縁の上で、わずかに、止まった。
「彼らは、私たちの、その年の薬草を、相場の、半額以下で、買い取ろうとしました。父は、抵抗いたしました。学府の薬草商に、直接、売る権利が、私たちには、ある、と。蒼帯の男たちは、その場では、引きました。引きましたが、——その三月後、父は、原因不明の発熱で、寝込み、半年後、亡くなりました」
「——それは」
私は、低く、言葉を、切った。
「——**蒼森の毒だった、可能性が、高うございます**」
アンナは、頷いた。
「当時、私は、十五歳。母も、長女も、心労で、寝込みました。次女は、家を、出ました。三女の私は、十六の春に、家を、たたんで、——ひとりで、ヴェルディアを、出ました。アルメリアの方が、薬草の技を、学べる、と、聞いておりましたから」
私は、目を伏せた。
「——国境で、私は、行き倒れに、なりました」
アンナは、低く、続けた。
「飢えと、寒さで、街道の脇で、雪のうえに、倒れました。雪のなかで、私は、もう、起き上がれない、と、思いました。そのとき、——当時、二十歳の、テオドール卿が、レフナール公爵家の、学究の旅で、偶然、その街道を、通りかかってくださいました」
「——テオドール卿が」
「はい。卿は、私を、即座に、ご自身の馬車に、お乗せくださり、最寄りの、宿に、運んでくださいました。そして、学府への帰途、——『**学府の事務員として、君を、雇いたい。書ける字と、薬草の知識を、見せた**』と。私が、雪のなかで、薬草の名前を、ヴェルディア語で、寝言のように、繰り返していた、と、後に、お聞きしました」
私は、しばらく、答えなかった。
——二十歳の、テオドール。
——雪の街道の、十六歳のアンナ。
その絵が、私のなかで、ゆっくりと、形を、取った。
そして、その絵の中に、いま、私の中で、テオドールという人物の、別の輪郭が、ひとつ、加わった。
彼は、雪の街道で、行き倒れの少女を、見て、その場で、彼女の知識を、評価して、雇い入れた。
身分でも、家門でもなく、——書ける字と、薬草の知識を、見て。
それは、彼が、調香学府長として、五年間、私の論文を、読んできた、その姿勢と、何も、変わらなかった。
「——以来、私は、学府の事務員として、働き、その後、補佐官の試験を、受け、合格いたしました。アルメリアの帝都ヴェスペルの、片隅で、私は、生きてまいりました」
「——アンナ殿」
私は、低く、口を、開いた。
アンナは、目を、上げた。
「**だから、私は、蒼帯の、名を、知って、おりました**」
彼女は、低く、続けた。
「奥様が、市場の老商人の話を、お聞きになり、『蒼い、帯』と、おっしゃった、その時、私の中で、何かが、はっきりと、立ち上がりました。十二年、私の中で、その名は、消えませんでした。学府の補佐官として、その名を、出すことは、できませんでした。出せば、私の私情で、職務を、汚すことになる、と、自分を、戒めて、まいりました」
「——左様で、ございましたか」
「——奥様」
アンナは、両手を、膝の上で、整え直した。
「**奥様、私は、貴女を、支えたい、と、存じます**」
低く、けれど、はっきりと、彼女は、置いた。
「**専門家としても、人としても**」
私は、しばらく、答えなかった。
答えるまでに、自分のなかで、確かめておきたい、ことが、あった。
私の隣に、いま、もう、五年間の孤独を、ひとりで、抱えこんでいた女性は、いなかった。
ヴァインフェルト邸の調香室で、誰にも見られないように、香炉に一滴を垂らしていた、あの私自身は、——もう、ここには、いなかった。
私は、姿勢を、整え直し、アンナの目を、まっすぐに、見た。
「——**ありがとう、アンナ殿**」
短く、私は、返した。
その短い一文に、私は、自分自身の声の輪郭が、ふっと、整うのを、感じた。
クラウスの名前を、五年で、初めて、声に出した、あの朝。
あの朝、私の中で、世界が、ひとつ、ほどけた。
今夜、アンナの名前を、私はもう一度、明確に、声に、置いた。
クラウス、と、アンナ。
私が、いま、名前で、呼ぶことが、できる人々が、ふたり、いる。
アンナは、わずかに、口元を、ゆるめた。
「——奥様、こちらこそ」
そして、彼女は、低く、付け加えた。
「**共に、戦いましょう**」
私は、頷いた。
「——はい」
私のひとこと、で、十分だった。
それ以上の、約束の言葉は、私たちの間には、必要なかった。
雪の街道の十六歳のアンナと、屋敷の調香室の二十四歳の私が、いま、机を挟んで、互いの名前で、互いを、呼んでいた。
それが、いまの私たちにとって、十分な、誓いの形だった。
アンナは、深く、頭を下げて、扉のところで、もう一度、振り返った。
「——お休みなさいませ」
「お休みなさい、アンナ殿」
扉が、閉まった。
私は、机の前に、ひとり、残った。
ランプの灯りが、机の上で、わずかに、揺れた。
——**孤独は、もう、終わった**。
私はその一行を、心のなかで、ひっそりと、置いた。
ヴァインフェルト邸の、五年間。
誰にも、名前で、呼ばれない時間。
誰にも、論文を、読まれていないと、思っていた時間。
誰にも、自分の手の、温度を、見てもらえなかった時間。
あの時間は、いま、終わった。
私の隣には、テオドールがいる。アンナがいる。海の向こうに、マイヤー師がいる。クラウスがいる。ハインリヒがいる。
そして、机の上に置かれた、母の論文の表紙裏の、献辞の一行。
「私の娘、リーゼロッテ、に」。
私は、ランプの灯を、半分まで、絞った。
明日からの戦いは、たぶん、これまでとは、別の質の、難しさを持つだろう。
それでも、——孤独では、ない。
それで、十分だった。




