第46話 不自然な群生
馬車は、宿の脇に、預けていった。
ここから先は、徒歩でなければ、入れない場所だった。
森の入り口は、街道から、北西へと、外れた、狭い踏み分け道の先にあった。
入り口の岩には、苔と地衣類が、びっしりと、貼り付いていた。
針葉樹の樹皮の匂いが、私たちの鼻のなかに、即座に、立ち上がってきた。
私は、革表紙の手記を、布で包み、胸の前の鞄に、納めていた。
別の鞄に、ピペット、香気識別の小瓶、白い布、それから、簡素な採取用の鋏と、ガラスの密閉瓶を、持っていた。
護衛二名は、剣を、地味に、隠した革鞘に納めて、私たちの前後に、ひとりずつ、配置についた。
「奥様、進路を、お示しくださいませ」
テオドールが、低く、私に、目線をくれた。
私は、手記の地図のページを、開いた。
五十年前の母と師が、地形図のうえに、赤いんくで、書き入れた、群生地の一覧。そのうち、いちばん大きな印は、——南西の、湿気の濃い、谷間。
「南西へ。湿気の濃い谷の方角でございます」
そう、私は、低く、答えた。
森に入って、最初の一時間は、なだらかな下りの、針葉樹の混合林だった。
踏み分け道は、ところどころで、消えた。私たちは、地形を、慎重に、読みながら、進んだ。
二時間目に入る頃、地面は、徐々に、湿り始めた。
苔の厚みが、増した。
樹の幹に貼り付く地衣類の色が、淡い緑から、青みがかった灰へと、変わっていった。
私は、ふと、足を止め、ピペットで、苔の表面の水を、わずかに、吸い、鼻のうえで、確かめた。
——青苔と、樹脂と、根の腐りかけ。
ヴィレナの自生条件の、香気そのものだった。
私はテオドールに、目線で、確認の合図を送った。
彼も、同じことを、彼自身の鼻で、確かめていた。
「奥様。ここから、いっそう、湿度が、高まります」
「はい」
三時間目。
私たちは、谷の底に、近づいた。
両側の斜面が、急になり、空は、上の方の、針葉樹の梢で、ふさがれた。
昼の光が、わずかに、青く、沈んだ。
歩くたびに、足元の苔が、わずかに、水を、吐いた。
そして、谷の奥の、開けた小さな台地。
私は、その台地の縁で、足を、止めた。
——……目の前に。
ヴィレナが、あった。
葉の縁の細かな鋸歯。
わずかに、白い粉を残した葉裏。
四角の断面の茎。
すべて、薬務塔で、私が確認した、ヴィレナの輪郭、そのまま。
——けれど、その株数が、私の予想を、はるかに、超えていた。
数百株。
ひとつの台地のなかに、ぎっしりと、ヴィレナが、生育していた。
——「数十株」、ではなかった。
私はマイヤー師の手記の、五十年前の記述を、心のなかで、繰り返した。
——「群生地は、過去の記録においても、確認された例が、ない」。
その記述から、五十年。
いま、私の目の前に、群生が、ある。
「——奥様」
テオドールが、私の半歩、後ろから、低く、口を、開いた。
「これは」
私は、台地の縁を、ゆっくりと、目で、追った。
——自然な群生では、ない。
その判断が、私のなかで、はっきりと、形を取った。
「**自然な、群生では、ございません**」
短く、私は、声に、出した。
「植物は、いっせいに、同じ大きさで、咲きません。世代の混じった、自然な群生では、葉の大きさも、茎の長さも、ばらつくはずです。ここは——」
私は、台地のなかへと、わずかに、足を、進めた。
「葉の大きさが、揃いすぎております。茎の長さも、ほとんど、同じ。**同じ年に、いっせいに、植え付けられた、ものでございます**」
テオドールが、地面に、片膝を、ついた。
彼は、ヴィレナの株の根もとの、土を、指の腹で、ほぐした。
「——土が、混ぜられております」
彼の声は、低かった。
「自然な地層の上に、別の、湿気を含んだ、腐葉土が、薄く、重ねられている。地表の根の張り方も、自然な、ばらつきではなく、整地後の、再定着の、跡でございます」
——人為的に、整地された、跡。
私は、台地の中央へと、歩を、進めた。
歩きながら、ヴィレナの葉を、ひとつ、ふたつと、目で、確かめた。
そのうちの何枚かに、私の目は、ふっと、止まった。
葉の裏側。
中央葉脈の根もと。
そこに、小さな、けれど、明確な、切り傷が、あった。
ふつうの、自然のなかの、虫や鳥の食害の跡では、なかった。
鋭い刃物で、わざと、葉の付け根を、切り取った跡だった。
収穫の痕跡。
「——収穫が、されております」
私は、低く、テオドールに、告げた。
「葉の付け根の、切り傷の角度が、ほぼ、揃っております。同じ刃物で、同じ方向から、切られております。**定期的に、収穫されている、ということでございます**」
テオドールは、立ち上がり、私の隣で、もう一度、台地の全体を、見渡した。
「——アンナ」
低く、彼は、後ろに控える補佐官に、声をかけた。
「現地座標を、ご記録ください。地図の上に、群生範囲を、点描してください」
「はい」
アンナは、地図を取り出し、丁寧に、台地の輪郭を、描き写し始めた。
彼女の地図記録は、すでに、いくつかの調査現場で、確認した、整った筆致だった。
私は、ガラスの密閉瓶に、ヴィレナの株を、ひとつ、根ごと、丁寧に、採取した。
それから、葉の裏の、切り傷の角度を、写し書きで、別の紙に、記録した。
「——テオドール卿」
私は、立ち上がりながら、低く、口を、開いた。
「**何者かが、五十年前の自生地のうえに、意図的に、群生地を、作っております**」
テオドールは、頷いた。
「ヴィレナを、収穫し、流通させ、——熱病の元として、撒いているという、推論でも、おかしくは、ございません」
「左様で、ございますか」
「ええ。蒼帯、という名前が、これに、結びつきます」
護衛のひとりが、後方で、わずかに、警戒の合図を、送ってきた。
枝のひと折れる、小さな音が、台地の外側の、少し離れた斜面で、聞こえた。
それは、たぶん、鹿か、狐かもしれなかった。
それでも、彼は、念のために、剣の鞘を、確認した。
私はテオドールの目を、見た。
「ここを、今、長く、留まるのは、危険でございましょうか」
「危険、と、断定するには、まだ、根拠が、足りません。ですが、確認できるものは、すべて、確認しました。記録は、十分にございます。お引き上げ、いたしましょう」
私は、頷いた。
そして、もう一度、台地のヴィレナの群生を、見渡し、心のなかで、ひとつの一行を、置いた。
——五十年前の母さまの足元の自生地のうえに、いま、誰かの手が、入っている。
それは、私の中で、ささやかな、けれど、確実な、怒りの輪郭だった。
それは、五年間の屋敷の中で、私のなかから、ほとんど、抜け落ちていた感情だった。
ヴィレナの群生地は、五十年の時間を、ひと飛びにして、私のなかに、その感情を、もう一度、運んできていた。




