第44話 香気は記録である
地下の書庫は、ふだんは、関係者のみが入る、古文書の保管庫だった。
私自身、ここに足を踏み入れるのは、初めてだった。
司書は、五十代の、髪の白い男性だった。
アンナの書面の依頼を、確認し、わずかに頷いて、奥の扉を、開けてくれた。
地下の空気は、書庫らしい、紙と、革と、わずかな樟脳の匂いに、包まれていた。
気温は、上の階よりも、明らかに、低く保たれていた。古い紙を、痛めないために、定められた温度だった。
「——リーリエ・フォン・エヴァースハイム、1778年、寄稿論文。一冊、ございました」
司書は、奥の書架の二段目から、革表紙の薄い冊子を、ひとつ、両手で、取り出してきた。
表紙には、深い緑のいんくで、題が、印刷されていた。
「**蒼森植物の、香気と、地理の、対応について**」
「——リーリエ・フォン・エヴァースハイム、1778年」
司書は、私の手元に、その冊子を、丁寧に、置いた。
「お手袋を、ご着用くださいませ」
「——はい」
私は、白い綿の手袋を、両手に、嵌めた。
五年間、調香室で、何度も着けたことのある、紙を傷めない種類の、薄い手袋。指先の感覚は、わずかに、鈍る。けれど、紙の上に、自分の指の薄い緑色を、移さないためには、こちらが、必要だった。
冊子を、私は、ゆっくりと、開いた。
表紙の裏。
署名。
——リーリエ・フォン・エヴァースハイム。
母の、文字。
二十年ぶりに、見る、母の、文字だった。
母が亡くなった、十二歳の春のあとで、ヴェルディアの邸では、母の書きものは、すべて、奥の書斎の引き出しに、まとめて、納められた。義母が来てから、その引き出しは、たぶん、整理された。私自身、母の文字を見る機会は、それ以降、ほとんど、なかった。
たまに、師の手元に残された、若い母からの短い手紙の縁を、ちらりと、見た記憶が、あるくらいだった。
母の文字は、丸みを帯びていた。
けれど、丸みのなかに、まっすぐな芯が、通っていた。
書記官のような、整いすぎた字ではなかった。けれど、調香学の論文の、専門用語を、迷いなく、書ける字だった。
私は、その署名の上に、しばらく、目を、止めていた。
直接、触れることは、しなかった。
紙を、傷めないため。
そして——直接、触れずにいる方が、母の文字に対する、私の敬意のかたちにも、合っていた。
——母さま。
私は、声に出さずに、心の中で、低く、呼びかけた。
表紙裏の、署名の下に、献辞が、書かれていた。
——この研究を、
——**私の娘、リーゼロッテに**。
私は、息を、止めた。
論文は、一七七八年。
私が、生まれたのは、その前年の冬。
母は、生まれて間もない私の名前を、すでに、自分の論文の献辞に、書いていた。
「私の娘、リーゼロッテ、に」。
母が私のことを、論文の献辞のかたちで、誰かに、宣言したのは、たぶん、この一行だけだった。
私は、その一行を、二十四年間、知らずにいた。
知らずに、母を、十二歳で、亡くした。
私は、白い手袋の上から、わずかに、震えていた指を、太腿の上に、軽く、押し当てた。
気づかれない程度に、震えを、抑える。
書庫のなかで、声を出すのは、控えるべきだった。
「——母さま」
それでも、私の唇は、その三音を、ほんのわずかに、形だけ、つくった。
——私は、あなたの、娘です。
そう、心のなかで、続けた。
五年間、ヴァインフェルト夫人として、私はその確認を、自分自身に、十分には、与えていなかった。
今朝、母の論文の表紙裏で、ようやく、それを、はっきりとした文字のかたちで、自分のなかに、置いた。
献辞のページを、めくる。
本文の、最初の一段が、目に、入った。
「**香気は、記録である。地理は、記憶である**」
その短い、十六文字の一文が、論文の、冒頭に、置かれていた。
私は、しばらく、その一行を、見ていた。
香気は、記録である。
香りに、感情のラベルを、貼ること。私が十二歳から、母に教わってきた、最初の癖。
そして、地理は、記憶である。
香気を持つ植物は、土地に、結びついている。土地の温度、土地の湿度、土地の根の組成。そのすべてを、植物は、自分のなかに、記憶として、残す。
だから、香気を読むことは、地理を読むことだった。
母の論文は、その短い一文を、起点に、蒼森南西斜面の植物の、香気と地理の、対応を、丁寧に、論じていた。
そして、論文の三分の二を、過ぎたあたりに、——ヴィレナの記述が、出てきた。
母は、ヴィレナの香気の輪郭を、十数行にわたって、私の研究と、同じ精度で、書いていた。
青苔、湿気の樹脂、針葉樹の根、苦みの青さ。
五十年前の母の鼻と、二十四歳の私の鼻は、同じ植物の、同じ輪郭を、捉えていた。
私はその論文の頁の上で、ふっと、深い息を、吐いた。
——母の、論文。
——師の、手記。
——私の、研究。
三つの紙が、別々の時代に、別々の手で、書かれていた。
けれど、それらは、ひとつの問いの、連続だった。
私は、その連続のなかに、立っている。
私は、突然、何かを、ひとりで、始めたわけではなかった。
論文を、私は、両手で、軽く、閉じた。
「——お預かりして、よろしいでしょうか」
私は、司書に、低く、尋ねた。
「学府の蔵書から、外には、出せない決まりでございますが、本書庫の、別の閲覧室に、お持ちいただけます」
「ありがとう存じます」
私は、論文を、手袋の手のひらに、軽く、抱えた。
書庫の地下から、上に、上がる階段の、一段ごとに、私の中で、母の文字が、深く、降りていった。




