第42話 リーリエ
分厚い、茶色の布。
革紐で、しっかりと、結ばれている。
包みの上には、小さな添え書きの紙が、ひとつ。
角張った、少しよれた、けれど、はっきりとした文字。
——ロッテ。
——これが、お前の助けに、なるよう。
——マイヤー
たった三行。
師らしい、簡潔さだった。
私は、その三行を、ペンナイフを取り上げる前に、指の腹で、軽く、なぞった。
それから、革紐を、丁寧に、ほどいた。
包みの中から、現れたのは、一冊の、革表紙の手記だった。
革は、長い年月を経て、わずかに、表面が乾燥していた。けれど、しっかりとした、厚みのある、丈夫な作りだった。表紙には、なにも、印は、押されていなかった。
ただ、革の角の方に、薄い、染みがあった。たぶん、五十年前の、樹脂の精油の、ひと滴の跡だった。
私は、その手記を、両手で、机のうえに、ゆっくりと、置いた。
そして、表紙を、開いた。
表紙の裏側に、ふたつの、署名が、並んでいた。
ひとつは、若い頃のマイヤー師の、角ばった署名。
そして、もうひとつ。
——リーリエ・フォン・エヴァースハイム。
私は、自分の呼吸が、ぴたりと、止まったのを、感じた。
リーリエ。
それは、母の、名前だった。
私が、生まれてから十二歳までのあいだ、ヴェルディアの屋敷の中で、何度も、何度も、呼ばれていた音。
父が、来客の前で「リーリエ」と、苗字なしで呼ぶこと。
使用人たちが「奥様」と呼ばれない場でだけ、「リーリエ様」と、わずかに、敬意を込めて、呼ぶこと。
そして、私自身が、その名前を、唇のかたちだけで、何度も、なぞった、母が亡くなったあとの、十二歳のあの春の夜。
——リーリエ・フォン・エヴァースハイム。
母の、旧姓署名だった。
ヴァインフェルト家ではない。
そして、母が、嫁いだあとの、エヴァースハイム伯爵夫人としての署名でも、ない。
若き日の、まだ、嫁ぐ前の、ひとりの、調香学の徒としての、母の名前。
私の指は、その署名の上で、しばらく、止まった。
止まったあと、軽く、その文字の上を、なぞった。
五十年前の、母の文字の筆圧が、わずかに、紙の表面に、まだ、残っていた。
「——母さま」
私は、低く、声に、出した。
声に出してから、自分の口から、その音が、こんなにも、自然に、出たことに、わずかに、驚いた。
五年間、私は、母の名前を、家門の中の、誰にも、語らなかった。
あの邸の中で、母の話は、いつも、避けられていた。義母も、夫も、義妹も、母の名前を、口にしたことが、なかった。
今夜、私はその名前を、自分の宿舎の、自分の机の前で、初めて、声に、出した。
母は、何も、答えなかった。
けれど、答えてもらえないことが、不思議と、いまの私には、寂しくなかった。
母は、五十年前、十七歳の春、マイヤー師と共に、蒼森に、入った。
その時の母の文字が、いま、私の指の下に、ある。
それは、声で答えてくれることよりも、ずっと、確かな、母の声、だった。
私は、表紙裏の、署名の下の、扉のページを、めくった。
そして、最初のページに、こう、書かれていた。
「**1776年、春。ヴェルディア・アルメリア国境地帯、蒼森南西斜面の植物調査記録**」
「**マイヤー・ヴァルク 並びに リーリエ・フォン・エヴァースハイム、共同**」
「ヴェルディア宰相府 薬草学局 推薦による、出張記録」
私はそのページを、ゆっくりと、読んだ。
ふたりの、若い、調香学の徒。
ヴェルディア王宮の、薬草学局の推薦で、二週間、蒼森に入った。
目的は、蒼森南西斜面の、稀少植物の、標本採取と、生育環境の記録。
——五十年前。
——母は、十七歳。
——師は、二十一歳。
私が、いま、二十四歳。
母が、二十四歳のとき、私はもう、生まれていた。
父は、まだ、再婚を、考えていなかった。
そして、いま、私は、母が、十七のときに、入った森の方角に、自分の調査の意志を、向け始めている。
私はランプを、机の上に、引き寄せた。
窓の外は、もう、深い藍。
今夜は、長くなりそうだった。
第二章の見出しの、「群生地一覧」、というところまでで、私はいったん、目を、上げた。
そして、机の脇から、空の便箋を、引き出した。
読みながら、自分の手で、要点を、書き写しておく必要が、あった。
書き写しは、私の手の癖だった。
十二歳の頃、師の薬草書を、何度も、書き写した、あの癖。
私の手は、それを、いまも、覚えていた。
ペンの先を、青いんくに、つけた。
そして、紙の上に、走らせ始めた。
——1776年、4月、蒼森南西斜面に、入域。
——ヴェルディア領、ナルダ川支流上流域、より入山。
——アルメリア領との国境を、一度、越境。
——稀少植物の群生地、計七か所を、確認。
私の指は、書き写しながら、その先のページに、すでに、目を、走らせていた。
七か所のうちのひとつに、見覚えのある、植物名が、書かれていた。
私は、ペンを、ふっと、止めた。




