第41話 調香塔
冬の空気は、まだ冷たかったけれど、空は、淡く澄み、雲は薄かった。
テオドールは、ふだんの学者服に、深い藍の外套を、肩にかけていた。アンナは、書類入れと、小さな手帳を、片手に抱えていた。
「——では、ご案内、いたします」
テオドールは、低く、私に、目線をくれた。
私は、頷き、彼の半歩、横を、歩き始めた。
中庭を、北へと、抜けた。
学府の中央棟の裏手に、白い石造りの、背の高い塔が、立っていた。
私は、これまでに、何度か、廊下の窓越しに、その塔の影を、見たことはあった。けれど、近くから、見上げたのは、これが、初めてだった。
塔は、四層に、分かれていた。
一階の入り口は、白い大理石の重い扉。扉の上には、銀の月桂樹の浮き彫りと、その下に、彫り込まれた、四文字。
——**レフナール調香塔**。
「——百年前」
テオドールは、扉に手をかけながら、低く、説明を始めた。
「**初代調香学府長**が、この塔を、設計いたしました。当時から、調香学を、国家戦略科学として、扱う意志が、この塔の構造に、込められております」
扉を押し開けると、塔の中は、思ったよりも、広かった。
階段は、塔の外壁に沿って、らせん状に、上へと、伸びていた。
一階は、書庫だった。
壁面の三方が、書架。
書架の中には、調香学、薬学、植物学、そして、香気成分の構造解析の、過去の学府記録が、すきまなく、並んでいた。
私は、書架の前で、わずかに、足を、止めた。背の高い書架の、いちばん上の段に、薄い革表紙の冊子が、数十冊、並んでいた。背表紙の金箔の文字が、わずかに、読めた。
——母の、論文。
正確には、母の若き日の学術院寄稿の、製本されたものらしかった。
私は、それを、すぐには指差さなかった。指差すのは、明日でもよかった。
二階は、配合の作業場。
三階は、蒸留と分析の作業場。
階段を、登りながら、私は、塔のなかの空気が、微妙に、層ごとに、違うことに、気づいた。
一階は、紙と革の匂い。
二階は、配合した精油の、淡く、しかし、混じり合った匂い。
三階は、蒸気と、わずかな樹脂の匂い。
それぞれの層は、塔のなかで、独立した呼吸を、していた。
そして、最上階。
四階の扉を、テオドールは、両手で、ゆっくりと、押し開けた。
部屋は、広かった。
正方形の、白い石の床。三方の壁の、上半分が、大きな縦長の窓。窓の外には、帝都の街並みが、四方に広がり、遠くには、東の蒼森の縁の、青みがかった森が、見えた。
壁の二面に、まだ、本の入っていない、空の書架。
中央の床には、白布で覆われた、台が、ひとつ。
台の白布は、ふっと、私の目に、馴染んだ。
それは、蒸留器の置き場の、台だった。
「——奥様」
テオドールが、わずかに、私の半歩、後ろから、低く、口を、開いた。
「**この部屋は、本学府の、調香長の、研究室として、設計された、部屋でございます**」
私は、しばらく、窓の外の、蒼森の縁の青みを、見ていた。
「現在の調香長は、私が、兼務しております。学府長と、調香長の、二つの役を、兼ねる、というのは、長くは、続けられない、と、私自身、感じております」
私は、窓の方を、見たまま、答えなかった。
「——奥様」
低く、彼は、続けた。
「**いずれ、貴女が、この塔の、中心に、立つ日が、来る、と、私は、思っております**」
私の指が、外套の合わせ目の上で、わずかに、固くなった。
固くなったのを、私は、自分でも、感じた。
けれど、振り返らなかった。
振り返って、即座に、何かを、返す段階では、なかった。
「——今は、決めなくて、結構でございます」
テオドールは、続けた。
「私の希望を、お伝えしたかった、というだけのことでございます。お返事は、いつでも。ご無理に、なさいませんように」
私は、ようやく、窓のほうから、視線を、外し、彼の方を、向いた。
灰青の瞳は、強い光を、含んでいなかった。
強要は、なかった。
ただ、彼が、この提案を、本気で、長いあいだ、考えてきた、ということだけが、その目に、置かれていた。
「——テオドール卿」
私は、低く、姿勢を、整えた。
「ご厚意を、**心に、留めます**」
短く、それだけを、私は、返した。
それ以上を、約束する、用意は、まだ、私のなかには、なかった。
けれど、跳ね返す気持ちも、もう、なかった。
四章末、テオドールの手紙を、胸の前に置いた、あの夜の温度が、いま、この部屋の窓辺の温度と、不思議と、同じくらいに、馴染んでいた。
テオドールは、わずかに、目元を、ゆるめた。
「——ありがとう、ございます」
そう、短く、彼は、礼を、述べた。
アンナが、扉の脇で、わずかに、微笑んでいた。
彼女の微笑みは、いつもの実務的なそれではなかった。
もう少し、私的な、何かを、含んでいた。
私たちは、その部屋の中を、もう一度、ゆっくりと、巡った。
書架の前で、私の指は、空の棚板の埃を、わずかに、確かめた。
台の白布の縁を、私は、軽く、指で、なぞった。
窓の前で、私はもう一度、東の蒼森の縁の、青みを、見た。
——いずれ、ここに、立つ日が、来るかもしれない。
そう、自分のなかで、ひっそりと、置いた。
それ以上の、未来図は、まだ、私のなかには、なかった。
それで、十分だった。
「——本日のご見学は、これにて」
テオドールは、扉のところで、わずかに、頭を下げた。
「アンナ、奥様の宿舎まで」
「はい」
階段を、下りる足取りは、行きよりも、少しだけ、私のなかで、軽くなっていた。
中庭に戻る頃には、冬の昼の光が、回廊の柱の影を、わずかに、温めていた。
宿舎の机の上には、その日の昼、もう一通、別の包みが、待っていた。
分厚い、革紐で、しっかりと結ばれた、茶色の布の包みだった。
差出人は、ヴェルディア王都近郊、ハールベルン薬草園、マイヤー。




