第39話 解毒法は誰にでも
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。
続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。
テオドールから「本日は、お休みなさいませ」と書かれてはいたが、私は、自分の手を、止めることに、慣れていなかった。
昨夜の暖炉の前のひと筋を、流したあとの、今朝の私の手は、不思議と、いつもよりも、軽かった。
何かを、抱えこんだまま、五年間、いつでも、手を、動かしていた、あの重みが、今朝は、わずかに、減っていた。
研究室の机に、私は、エプロンを締めて、座った。
白蒼苔の、配合比率の、最終調整。
妊婦への減量法と、幼児への希釈法の、補強試験。
それから、ヴィレナの拮抗反応の、温度耐性の、追加確認。
ピペットの動き、蒸留器の火加減、香炉の上の煙の色。
それらは、五年間、ヴァインフェルト邸の調香室で、私が、ひとりで、何度も、繰り返してきた手順だった。
ヴァインフェルト邸のときと、今朝の違いは、ただ、ひとつ。
机の脇のアンナが、私の指示を、即座に書きとめてくれる、ということ。
それだけだった。
それは、ひとつ、だけだった。
けれど、その「ひとつ」は、五年間の、私の手の温度を、今朝、ようやく、まっすぐな方向に、整えていた。
——*
午前の業務が、ひと段落した、お昼前。
研究室の扉が、ノックされた。
「奥様」
アンナの声だった。
ふだんよりも、わずかに、低い声。
「——ヴェルディア王宮薬務局より、最新の報告が、届いております」
「お入りください」
アンナは、机の前まで、進み、書面の束を、整えて、机の上に、置いた。
——ヴェルディア王宮薬務局、薬務官ハインリヒ発、報告書、第四号。
——一、ヴァインフェルト侯爵領、熱病患者数、現時点、九十七名。
——一、リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム発の、解毒法手紙に基づく、白蒼苔煎じ薬の、現地配布、完了。
——一、第一期患者、五十六名のうち、四十二名、回復傾向。第二期患者、三十名のうち、十二名、回復傾向。
——一、死者は、未だ、確認されず。
——一、患者数は、本日以降、減少傾向に転じる見込み。
私は、その箇条書きを、ゆっくりと、目で、追った。
——患者の、半数が、回復に向かっている。
私の指の中の、ペンが、わずかに、軽くなった。
それは、私自身の業績への、満足では、なかった。
ヴァインフェルト領の村の、井戸端で、私に小さく頭を下げてくれていた、女たちの呼吸が、すこしずつ、戻ってきている、という事実への、静かな、深い、安堵だった。
書面は、続いていた。
——二、本件熱病の、毒源について。
——本朝、ヴァインフェルト侯爵領の医師団および王宮薬務官の合同調査により、原因が、特定された。
——患者の発症経路を、遡ったところ、ヴァインフェルト家のご令嬢、イザベラ様が、過去ふた月の間に、ヴェルディア王都および、領地内の数回の茶会で、振る舞われた「**蒼森の珍しいお茶**」と称する茶葉が、共通して、検出された。
——当該茶葉の中身を、王宮薬務局にて、分析したところ、——**ヴィレナの、乾燥葉そのもの**であった。
——ご令嬢、イザベラ様は、当該茶葉を、ヴェルディア王都の、ある若い商人から、購入し、「珍しい蒼森の薬草茶」と、信じて、配っておられた、由。
——ご令嬢ご自身も、軽度の発熱で、現在、お屋敷で、寝込んで、おられる。
私は、書面を、机の上に、ゆっくりと、置いた。
——ヴィレナの、乾燥葉そのもの。
——義妹は、それを、お茶、と信じて、配っていた。
私はしばらく、机の縁の上で、自分の指を、軽く、揃えた。
驚き、では、なかった。
予感したとおりの、結末だった。
そして、義妹らしい、結末でもあった。
彼女は、香りを、扱う訓練を、受けていなかった。
彼女にとって、青く、深く、独特な香りは、「珍しい」と分類されるべきものだった。
分類した、その瞬間に、彼女の中で、その茶葉は、すでに、「価値あるもの」に、なってしまっていた。
——彼女の、無知。
——五年間、私が、「お遊び」と呼ばれていた、その同じ家門の、無知。
私は、わずかに、目を伏せた。
「——奥様」
アンナが、机の脇から、低く、口を、開いた。
「義妹様にも、この解毒法を、お届け、いたしますか」
私はしばらく、答えなかった。
答えに、迷ったわけではなかった。
ただ、答える前に、自分のなかで、その問いを、ちゃんと、一度、置きたかった。
——義妹を、許すのか。
——義妹を、罰するのか。
私は、その、ふたつの問いの、いずれも、答えなかった。
代わりに、別の答えを、私のなかで、確かめた。
「——アンナ殿」
私は、目を、上げて、低く、答えた。
「**解毒法は、すべての、患者のものでございます**」
アンナは、わずかに、姿勢を、整え、私の言葉を、待った。
「——義妹も、含まれます」
短く、私は、続けた。
「ヴァインフェルト領の、村の女たちにも。子どもたちにも。茶会の貴婦人にも。そして、義妹にも。投与の優先順は、症状の重さで、決めるべきです。家門の名でも、社交界の位でもなく」
私は、書面の最後の一行に、ペンの先で、軽く印を、つけた。
「ハインリヒ殿に、お伝えください。**患者の優先順は、症状の重さで、決めること。家門の名や、社交界の位で、優先順を、変えないこと**。それが、私の、本件における、唯一の、追加の注文でございます」
アンナは、深く、頭を下げた。
「——承りました」
そして、彼女は、低く、付け加えた。
「奥様。**義妹様を、お救いになるのですね**」
私はそれに、首を、振った。
「——救う、わけでは、ございません」
私は、ペンを、ゆっくりと、置いた。
「私は、義妹を、許す、わけでは、ございません。許す、必要は、ありません。けれど、私の解毒法は、誰にでも、届きます。家門の名で、選り好みを、する種類の、ものでは、ございません」
「——左様で、ございます」
アンナは、それ以上は、言わなかった。
書面を、整えて、机の脇に、控えに、回した。
——許さないが、復讐は、しない。
——私の手は、私の手のままで、私の解毒法は、誰にでも、届く。
私は、心のなかで、もう一度、その二行を、確かめた。
復讐ではなかった。
赦しでもなかった。
ただ、自分の専門家としての、職務倫理を、まっすぐに、保つ、ということ、だけだった。
午後の研究も、私はいつものとおりに、続けた。
机の脇に置かれた、ハインリヒからの書面は、夕刻、別の引き出しに、納められた。
それは、エルンストの手紙のように底に沈めるものでもなく、クラウスの手紙のように奥に大切に納めるものでもなく——書類として、職務として、必要な場所に、整然と、しまわれた。
夜、宿舎に戻る頃、私はもう一度、机の上の、テオドールからの、白い手紙を、目で、確かめた。
明日、調香塔。
彼が、何を、見せたいのか、私は、まだ、知らなかった。
ただ、それを知るための一日が、明日、ある、ということが、いまの私には、十分に、明日を、整える理由だった。




