第38話 灰を片付ける人
本作は全70話で完結予定です。
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その夜のうち、私の執務室で、私は、一通の覚え書きを、書いた。書いた、というよりは、自分のなかに、何かを、置き直すために、ペンを、紙の上に走らせた。
「リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム調香師の、論文を、私は、五年、読んできた」
ペンが、最初の一行を、書いた。
「だが、彼女の人生は、論文には、書かれていなかった」
私は、そう、書いてから、しばらく、目を、伏せた。
論文の中には、香気成分の構造、橙皮の三日陳化の挙動、複合香気からの単一成分の抽出技法——それらの、技術の輪郭が、整然と、書かれていた。
書いた人物が、五年間、夫から「お遊び」と呼ばれ、義妹から「お遊び部屋」と呼ばれ、社交界から「地味な侯爵夫人」と扱われてきたことは、論文の、どこにも、書かれていなかった。
書かれていたのは、彼女の手の動きだけだった。
彼女の心の、五年間の重さは、論文の、外側に、ずっと、置かれたまま、誰にも、見られずにいた。
「五年間、彼女は、一人で、立っていた」
私はその一行を、書いた。
そして、ペンを、置いた。
これは、誰にも、見せない覚え書きだった。
明日の朝、私は、これを、引き出しの奥に、納める。
納める前に、もう一度、自分の中で、確かめる必要があった。
彼女の業績を、学府の責務として、守ることと——彼女の人生に、過剰に、踏み込まないこと。そのふたつを、私自身のなかで、明確に、線引きする必要が、あった。
今夜の彼女の、暖炉の前の、ひと筋の涙を、踏み躙らないために。
私は、灰青のインク壺の、蓋を、閉めた。
そして、立ち上がり、——夜明け前の宿舎の方角を、しばらく、見ていた。
——*
翌朝、私は、自分の宿舎の寝台の中で、目を、覚ました。
窓のカーテンの、わずかな隙間から、白く澄んだ朝の光が、床に、長く、差し込んでいた。
寝過ごしたわけでは、ない。
ただ、昨夜は、いつもより、深く、眠っていた、らしい。
寝台の中で、しばらく、私は、天井の梁を、見ていた。
梁の影は、昨夜の蝋燭の灯りの中とは、まるで違う形で、すっきりと、白い影に、なっていた。
寝台から、降り、足元の絨毯に、ゆっくりと、足を、おろした。
そして、暖炉の方を、見た。
——暖炉の灰が、なかった。
正確には、ある程度の灰は、敷いてあった。
けれど、昨夜、私が、便箋を、燃やした、あの灰の山と、床の鉄の上の、赤い染みの跡は、——なかった。
誰かが、片付けていた。
私は、しばらく、その暖炉の前に、立ち尽くしていた。
その時、扉が、控えめにノックされた。
「奥様」
アンナの声だった。
「おはよう、ございます。お朝食を、お持ちしました」
「——お入りください」
アンナは、銀の盆に、朝食の品を、整え、机の上に、ゆっくりと、置いた。
温かいパン、白くまるい乳酪、薄く切られた茹で卵、それから、青みのある冬りんご。
それらの脇に、彼女は、一通の手紙を、添えた。
封蝋は、深い藍。
押された紋章は、レフナール調香学府の、銀の月桂樹だった。
「——奥様」
アンナは、目線を、伏せたまま、静かに、口を、開いた。
「学府長より、ご朝食前に、ご一覧いただきたい、と」
「——分かりました」
私は、椅子に、座った。
座る前に、私はもう一度、暖炉の方を、見た。
そして、低く、アンナに、尋ねた。
「——アンナ殿。暖炉の灰は、どなたが」
アンナは、わずかに、目を、上げた。
それから、ふだんよりも、ほんのわずかだけ、低い声で、答えた。
「——本日、夜明け前に、学府長が、こちらに、お見えに、なりました」
「——テオドール卿が?」
「はい。ご自身で、お片付けに、なられました」
私はしばらく、何も、答えなかった。
——テオドール卿が、ご自身で。
その九文字を、私の中で、ゆっくりと、咀嚼するのに、わずかな時間が、必要だった。
彼は、学府長だった。
通常、彼の業務には、宿舎の暖炉の灰を、片付けることなど、含まれない。
誰かに、片付けさせることも、たぶん、彼は、選ばなかった。
誰かにさせれば、その誰かが、昨夜、私の暖炉のなかに、何があったかを、知ることになるからだった。
彼は、たぶん、それを、避けた。
そして、夜明け前に、自分自身の手で、灰を、片付けに、来た。
私は、目を、伏せた。
「——アンナ殿」
私は、低く、続けた。
「学府長は、いま」
「執務室で、いつものお仕事を、なさっておられます。本日、私には、奥様に、お朝食と、お手紙を、お届けする以上のことは、お言いつけに、なられて、おりません」
「——左様で、ございますか」
私は、机の上の、藍の封蝋の手紙を、両手で、取った。
封蝋を、丁寧に、ペンナイフで、割った。
便箋は、一枚。
彼の、整った、けれど、わずかに、左に傾いた文字が、短く、書かれていた。
——リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム殿。
——本日のお仕事は、お休みなさるよう、お願い申し上げます。
——明日、ご都合がよろしければ、**学府の調香塔を、ご案内いたしたく存じます。お見せしたい場所が、ございます**。
——ご無理は、なさいませんように。
——テオドール
短い手紙だった。
労りも、慰めも、書かれてはいなかった。
ただ、本日の業務を、休んでよい、という許可。
明日、調香塔を、案内したい、という告知。
そして、無理をしないように、という、最後の一行。
——お見せしたい、場所。
私は、その八文字の上で、ゆっくりと、目を、止めた。
調香塔は、学府の中央棟の、東に立つ、三階建ての塔のことだった。私の研究室の薬務塔とは、別の塔。
そこに、彼が、私に、見せたい場所が、あった。
具体的な内容は、書かれていなかった。
書かれていなかったことが、たぶん、彼の配慮だった。
何かを、約束として、押しつけたくない、という、彼らしい、慎みの形。
「——アンナ殿」
私は、手紙を、たたんだ。
「学府長に、お伝えください。**明日、参ります、と**」
アンナは、深く、頭を下げた。
「承りました」
そう答えて、彼女は、退室する前に、もう一度、私に、深い一礼を、した。
その一礼は、いつもの、業務上の一礼ではなかった。
たぶん、彼女自身、暖炉の灰のことや、昨夜の手紙のことを、ある程度、察していた。
そして、それを、何ひとつ、口に出さないことが、彼女の、私への、敬意のかたちだった。
扉が、閉まった。
私は、朝食の前に、しばらく、手紙を、両手のなかに、持っていた。
——彼は、過剰な、慰めを、しない。
——それが、心地よい。
そう、自分のなかで、ひっそりと、置いた。
五年間、誰にも、慰めても、もらえなかった私にとって、過剰な慰めは、たぶん、いま、いちばん、扱いに困るものだった。
過剰ではない、簡潔で、自然な配慮——それを、彼は、夜明け前の暖炉の灰の片付けで、すでに、行為で、示していた。
言葉に、しなかった。
言葉にしないことが、彼の慎みだった。
私は、朝食の前に、ようやく、その手紙を、たたんで、机の上の、書類入れの、一番上に、置いた。
クラウスからの手紙の引き出しとも、別の場所だった。
ここに置いてある、ということを、私自身が、これからの、何日かのあいだ、目で、確かめられる位置に。




