第37話 五年。長かった
本作は全70話で完結予定です。
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机のランプを、私はもう、消していた。
代わりに、暖炉の火を、ふだんよりも、わずかに、強めにしていた。冬の終わりとは言え、夜更けの宿舎の部屋は、まだ、冷たかった。
焚かれた木は、低く、はぜていた。
炎は、橙と、黄と、わずかな青を、含んで、揺れていた。
私は、机の前に座っていた。
机の中央には、昨夜と、同じ位置に、その手紙が、ある。
封蝋の赤は、暖炉の灯りに照らされて、わずかに、生々しく、見えた。
獅子と剣の浮き彫りの、銀の細い線が、火影のなかで、規則正しく、走っていた。
——明日の夜、決める、と、昨夜の私は、決めた。
——今夜が、その、明日の夜だった。
私はゆっくりと、立ち上がり、机の中央から、その手紙を、両手で、取り上げた。
封は、まだ、切られていなかった。
中の便箋に、何が書かれているか、私は、知らなかった。
たぶん——彼の中で、五年間、私の手の動きを、見過ごし続けてきた、その、長い無関心への、遅すぎる詫びだろう。
あるいは、義妹のお茶会の事件で、家門の体面が、社交界で、急速に落ち始めたことへの、焦り。
あるいは、領地の熱病で、家門の経済が、揺らぐ予感への、戸惑い。
あるいは、それらの、すべてを、混ぜた、何か。
私は、それを、読まなかった。
読まないと、決めた理由を、自分のなかで、もう一度、確かめた。
——あなたが、何を、書いたか、私は、知りたくない。
——あなたを、理解することを、私は、五年前に、もう、諦めた。
——あなたに、釈明する権利を、私は、もう、認めない。
——あなたの「気が変わったら、戻ってこい」を、繰り返さないために、私は、これを、読まない。
それは、彼を、罰するためでは、なかった。
私自身の、これからの手の温度を、整えるために、必要な、儀式だった。
私は、暖炉の前まで、歩いた。
ひざの近くで、火が、低く、揺れていた。
その、橙のなかへ、私は、手紙を、ゆっくりと、差し入れた。
——封蝋に、火が、触れた。
その瞬間、赤い蝋は、ぱちりと、小さく、音を、立てて、輪郭から、ゆっくりと、溶け始めた。
獅子と剣の浮き彫りが、溶けて、二筋の銀の線が、紙の縁で、別の流れに、なった。
そして、便箋を包む紙が、外側から、橙の小さな炎に、すうっと、撫でられていった。
紙が、燃え上がる。
中身の便箋が、私の目には、最後まで、見えなかった。
一行も、読まなかった。
読まないままで、その便箋の文字も、橙のなかで、ひとつの、白い灰に、変わっていった。
私は、その火を、しばらく、見ていた。
便箋が、灰に、なるのに、思ったよりも、時間が、かからなかった。
封蝋が、暖炉の床の鉄の上に、わずかに、赤い染みを、残した。
それも、すぐに、橙のなかで、見えなくなった。
——……
私は、その場で、ゆっくりと、座り込んだ。
しっかりと、座ろうとは、思っていなかった。
膝を、ゆっくりと、畳んで、暖炉の前の絨毯の上に、ぺたりと、腰を下ろしただけだった。
椅子から、床へ、自分の体が、自然に降りていった。
床の絨毯は、暖炉の火に温められて、わずかに、暖かかった。
——……五年。
私は、低く、心のなかで、ひとつの、数を、口にした。
——五年。長かった。
声には、出さなかった。
出さなかったけれど、唇の形だけは、その音を、なぞった。
その瞬間、頬の上を、ひとつだけ、温かいものが、走った。
私は、そっと、指の先で、頬の上を、確かめた。
ひとつだけ。
頬の左側、目の下を、ひと筋、それは、流れていた。
——涙。
私は、自分でも、わずかに、驚いた。
ヴァインフェルト邸の、五年間で、私は、たぶん、ひと度も、泣かなかった。
母の蒸留器の前で、何度か、泣きそうになっても、そこで、私は、息を、整えた。涙を、流す権利を、自分には、与えていなかった。
今夜、その、許していなかったひと筋が、暖炉の前で、ようやく、自分の指の上に、降りていた。
涙は、止まった。
ひと筋だけ。
それ以上は、流れなかった。
私は、わずかに、息を、吐いた。
泣くべき、ふだんの場面では、なかった。
それでも、五年間、降りなかったものが、ひと筋だけ、降りたことは、たぶん、私の中で、必要な儀式の、最後の、ひとつの所作だった。
——……
そのとき、宿舎の扉が、控えめに、ノックされた。
二度。
私は、ぴたりと、肩を、起こした。
「——リーゼロッテ殿。よろしい、ですか」
低く、扉の向こうから、声が、入った。
——テオドール。
私は、両手で、頬の涙の跡を、軽く、押さえた。
押さえた手のひらが、暖かかった。
私はそれから、声を、整えた。
「——どうぞ」
私の声は、わずかに、低かった。
けれど、震えては、いなかった。
扉が、開いた。
テオドールは、夜会服ではなく、ふだんの学者服のまま、入ってきた。
彼は、扉のすぐ内側で、足を、止めた。
そして、暖炉の前に座り込んでいる私と、暖炉のなかの、灰になった便箋と、床の鉄の上の、わずかに残った赤い染みを、目で、追った。
一秒も、かからなかった。
彼は、すべてを、一瞬で、理解した、と、私は、感じた。
テオドールは、扉を、静かに、閉めた。
それから、私の方へ、ゆっくりと、歩いてきて、暖炉の前、私の半歩、横で、立ち止まった。
ひざはつかなかった。
私の手を、握らなかった。
肩に、手を置かなかった。
私の、座り込んだ姿勢を、立ち上がらせようと、もしなかった。
ただ、彼は、暖炉の方へ、目を、向けたまま、低く、口を、開いた。
「——お疲れさまで、ございました」
短く、彼は、置いた。
「**今夜は、お休みください**」
それは、慰めではなかった。
共感の言葉でも、なかった。
ただ、五年間の、長さに対して、彼の中で、見つけた、もっとも、簡潔な、礼の言葉だった。
私は、顔を、上げた。
頬の涙の跡を、彼は、見た。
けれど、何も、言わなかった。
ただ、彼の灰青の瞳が、ほんのわずか、揺れた、ように、見えた。
私は、彼の目を、見た。
五年間、誰にも、見せなかったその時間の重さを、いま、彼に、見られている、ということを、私は、初めて、許した。
「——……はい」
私は、低く、答えた。
テオドールは、それから、深く、頭を下げ、扉の方へと、戻った。
扉のところで、彼は、ふだんよりも、ゆっくりと、振り返った。
「**明日のことは、明日の朝に**」
そう、短く、彼は、付け加えた。
扉が、閉まった。
私は、暖炉の前で、しばらく、動かなかった。
灰のなかで、火は、まだ、低く、揺れていた。
私の頬の上のひと筋は、もう、乾いていた。
明日の朝。
そこに、何が、来るのか、私は、まだ、知らなかった。
ただ、明日が来ることを、私はもう、五年前のように、漠然と、恐れる気持ちには、ならなかった。




