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「夫人の手遊びだろう」と離縁された王宮御用達調香師は、翌朝隣国に招かれました  作者: ヲワ・おわり


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第37話 五年。長かった

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。

続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。

机のランプを、私はもう、消していた。

代わりに、暖炉の火を、ふだんよりも、わずかに、強めにしていた。冬の終わりとは言え、夜更けの宿舎の部屋は、まだ、冷たかった。

焚かれた木は、低く、はぜていた。

炎は、橙と、黄と、わずかな青を、含んで、揺れていた。


私は、机の前に座っていた。


机の中央には、昨夜と、同じ位置に、その手紙が、ある。

封蝋の赤は、暖炉の灯りに照らされて、わずかに、生々しく、見えた。

獅子と剣の浮き彫りの、銀の細い線が、火影のなかで、規則正しく、走っていた。


——明日の夜、決める、と、昨夜の私は、決めた。


——今夜が、その、明日の夜だった。


私はゆっくりと、立ち上がり、机の中央から、その手紙を、両手で、取り上げた。


封は、まだ、切られていなかった。

中の便箋に、何が書かれているか、私は、知らなかった。

たぶん——彼の中で、五年間、私の手の動きを、見過ごし続けてきた、その、長い無関心への、遅すぎる詫びだろう。

あるいは、義妹のお茶会の事件で、家門の体面が、社交界で、急速に落ち始めたことへの、焦り。

あるいは、領地の熱病で、家門の経済が、揺らぐ予感への、戸惑い。

あるいは、それらの、すべてを、混ぜた、何か。


私は、それを、読まなかった。


読まないと、決めた理由を、自分のなかで、もう一度、確かめた。


——あなたが、何を、書いたか、私は、知りたくない。

——あなたを、理解することを、私は、五年前に、もう、諦めた。

——あなたに、釈明する権利を、私は、もう、認めない。

——あなたの「気が変わったら、戻ってこい」を、繰り返さないために、私は、これを、読まない。


それは、彼を、罰するためでは、なかった。

私自身の、これからの手の温度を、整えるために、必要な、儀式だった。


私は、暖炉の前まで、歩いた。


ひざの近くで、火が、低く、揺れていた。

その、橙のなかへ、私は、手紙を、ゆっくりと、差し入れた。


——封蝋に、火が、触れた。


その瞬間、赤い蝋は、ぱちりと、小さく、音を、立てて、輪郭から、ゆっくりと、溶け始めた。

獅子と剣の浮き彫りが、溶けて、二筋の銀の線が、紙の縁で、別の流れに、なった。

そして、便箋を包む紙が、外側から、橙の小さな炎に、すうっと、撫でられていった。


紙が、燃え上がる。


中身の便箋が、私の目には、最後まで、見えなかった。

一行も、読まなかった。

読まないままで、その便箋の文字も、橙のなかで、ひとつの、白い灰に、変わっていった。


私は、その火を、しばらく、見ていた。


便箋が、灰に、なるのに、思ったよりも、時間が、かからなかった。

封蝋が、暖炉の床の鉄の上に、わずかに、赤い染みを、残した。

それも、すぐに、橙のなかで、見えなくなった。


——……


私は、その場で、ゆっくりと、座り込んだ。


しっかりと、座ろうとは、思っていなかった。

膝を、ゆっくりと、畳んで、暖炉の前の絨毯の上に、ぺたりと、腰を下ろしただけだった。

椅子から、床へ、自分の体が、自然に降りていった。

床の絨毯は、暖炉の火に温められて、わずかに、暖かかった。


——……五年。


私は、低く、心のなかで、ひとつの、数を、口にした。


——五年。長かった。


声には、出さなかった。

出さなかったけれど、唇の形だけは、その音を、なぞった。


その瞬間、頬の上を、ひとつだけ、温かいものが、走った。


私は、そっと、指の先で、頬の上を、確かめた。

ひとつだけ。

頬の左側、目の下を、ひと筋、それは、流れていた。


——涙。


私は、自分でも、わずかに、驚いた。


ヴァインフェルト邸の、五年間で、私は、たぶん、ひと度も、泣かなかった。

母の蒸留器の前で、何度か、泣きそうになっても、そこで、私は、息を、整えた。涙を、流す権利を、自分には、与えていなかった。

今夜、その、許していなかったひと筋が、暖炉の前で、ようやく、自分の指の上に、降りていた。


涙は、止まった。

ひと筋だけ。

それ以上は、流れなかった。


私は、わずかに、息を、吐いた。

泣くべき、ふだんの場面では、なかった。

それでも、五年間、降りなかったものが、ひと筋だけ、降りたことは、たぶん、私の中で、必要な儀式の、最後の、ひとつの所作だった。


——……


そのとき、宿舎の扉が、控えめに、ノックされた。


二度。

私は、ぴたりと、肩を、起こした。


「——リーゼロッテ殿。よろしい、ですか」


低く、扉の向こうから、声が、入った。


——テオドール。


私は、両手で、頬の涙の跡を、軽く、押さえた。

押さえた手のひらが、暖かかった。

私はそれから、声を、整えた。


「——どうぞ」


私の声は、わずかに、低かった。

けれど、震えては、いなかった。


扉が、開いた。


テオドールは、夜会服ではなく、ふだんの学者服のまま、入ってきた。

彼は、扉のすぐ内側で、足を、止めた。

そして、暖炉の前に座り込んでいる私と、暖炉のなかの、灰になった便箋と、床の鉄の上の、わずかに残った赤い染みを、目で、追った。


一秒も、かからなかった。

彼は、すべてを、一瞬で、理解した、と、私は、感じた。


テオドールは、扉を、静かに、閉めた。

それから、私の方へ、ゆっくりと、歩いてきて、暖炉の前、私の半歩、横で、立ち止まった。

ひざはつかなかった。

私の手を、握らなかった。

肩に、手を置かなかった。

私の、座り込んだ姿勢を、立ち上がらせようと、もしなかった。


ただ、彼は、暖炉の方へ、目を、向けたまま、低く、口を、開いた。


「——お疲れさまで、ございました」


短く、彼は、置いた。


「**今夜は、お休みください**」


それは、慰めではなかった。

共感の言葉でも、なかった。

ただ、五年間の、長さに対して、彼の中で、見つけた、もっとも、簡潔な、礼の言葉だった。


私は、顔を、上げた。

頬の涙の跡を、彼は、見た。

けれど、何も、言わなかった。

ただ、彼の灰青の瞳が、ほんのわずか、揺れた、ように、見えた。


私は、彼の目を、見た。

五年間、誰にも、見せなかったその時間の重さを、いま、彼に、見られている、ということを、私は、初めて、許した。


「——……はい」


私は、低く、答えた。


テオドールは、それから、深く、頭を下げ、扉の方へと、戻った。

扉のところで、彼は、ふだんよりも、ゆっくりと、振り返った。


「**明日のことは、明日の朝に**」


そう、短く、彼は、付け加えた。


扉が、閉まった。


私は、暖炉の前で、しばらく、動かなかった。


灰のなかで、火は、まだ、低く、揺れていた。

私の頬の上のひと筋は、もう、乾いていた。


明日の朝。

そこに、何が、来るのか、私は、まだ、知らなかった。

ただ、明日が来ることを、私はもう、五年前のように、漠然と、恐れる気持ちには、ならなかった。

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