第36話 机の上の手紙
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。
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「奥様、お手紙が、何通か」
彼女は、机の脇の、書面入れの上に、四、五通の手紙を、置いた。
書面入れの一番上に、彼女は、わざと、別の一通を、置いた。
封蝋は、深い赤。
獅子と剣。
ヴァインフェルト家の、紋章だった。
「——奥様、こちらは」
アンナは、わずかに、目を伏せながら、その一通の、宛名を、私に、見せた。
宛名は、私の旧姓では、なかった。
「ヴァインフェルト夫人、リーゼロッテ、御中」。
ふた月前まで、私が、五年間、呼ばれていた呼称。
書いた人物は、たぶん、自分の中で、まだ、私を、その呼称で、呼んでいた。
「——分かっております」
私は、低く、応えた。
「——机に、お置きください」
「は」
アンナは、わずかに、目を、上げた。
それから、書面入れの上の、その一通だけを、取り上げ、私の机の中央に、ゆっくりと、置いた。
机の中央は、ふだん、私が、書きものをするときに、便箋を、広げる位置だった。
そこにあえて、置いてくれたのは、たぶん、アンナの判断だった。
アンナは、深く一礼し、退室した。
私は、机の中央に置かれた、その一通を、しばらく、眺めた。
封蝋の赤。
獅子と剣。
ヴァインフェルト夫人、と書かれた宛名。
五年間、私の机の上に、何度も、似たような封書が、届いていた。手紙とは限らなかった。請求書、招待状、社交界の動向表、ヴァインフェルト邸の運営の報告。けれど、いずれも、似たような書体で、似たような赤の蝋で、私の手元に届いていた。
——その全てが、いま、私の中で、もう、私のものでは、ない。
私はゆっくりと、椅子から立ち上がり、書きものの机から、離れた。
今日は、まず、研究室の続きの仕事から、始めるつもりだった。
手紙は、机の上に、置いたまま。
今朝のうちには、触れない、と、決めた。
朝、昼、夕。
学府の薬務塔で、私は、いつものとおりに、配合の試験を、こなした。
ヴィレナと白蒼苔の、別比率での反応を、十数通り。アンナが記録、テオドールが午後の終わりに様子を見に来た。
私の手は、いつものとおりに、動いた。
それは、たぶん、誰の目にも、いつもの私の手だった。
机の上に、封の切られていない手紙が、一通、待っている、ということを、知っている目には、その手の動かし方には、わずかに、いつもより、丁寧な、輪郭が、加わっていた、かもしれない。
夕方、薬務塔から、宿舎に戻った。
外套を、椅子の背に掛け、湯桶の水で、指の薄い緑色を、ゆっくりと、ゆすいだ。
それから、机の前に、戻った。
机の中央の、その一通。
朝、置かれた位置から、ひとつも、動いていなかった。
封蝋の赤も、朝と、同じ色のまま、机のランプの灯りの下で、わずかに、暗く、沈んでいた。
私は、椅子に座った。
椅子の硬さが、いつもとは、わずかに、違って、感じた。
——読まない。
私は、まず、その一行を、自分の中で、確かめた。
——だが、ここに、置く。
その次の一行も、置いた。
——一晩、私に、何かを、問う、かたちで。
机の上に、私はランプを、寄せた。
ランプの光が、封蝋の赤の上で、わずかに、橙の輪郭を、加えた。獅子と剣の浮き彫りの、銀の細い線が、その上を、規則正しく、走っていた。
私は、五年間、その紋章を、書類で、何百回と、見てきた。
今夜、その紋章を、初めて、距離を置いて、見ている、ような気が、した。
机の引き出しから、私は、別の便箋と、ペンを、取り出した。
ふだんの夜の、研究記録を、書き始める。
——本日の試験、配合比率、白蒼苔三、ヴィレナ一の比率では、反応は良好だが、煎じ温度を、わずかに上げると、白蒼苔の拮抗成分が、半減する。
——比率、白蒼苔二、ヴィレナ一は、温度許容範囲が、わずかに広い。
——比率、白蒼苔一、ヴィレナ一は、効果が、ヴィレナ量に追いつかない。
書きながら、私の右側、机の中央には、エルンストからの手紙が、まだ、そのまま、ある。
私は、それを、視界の隅で、ずっと、意識していた。
意識しながら、書くことは、研究記録の上では、特に、不利には、ならなかった。
私の手は、それくらいの、二重の作業には、五年間で、十分に、慣れていた。
研究記録を、書き終えた頃には、夜は、もう、深かった。
私は、ペンを、置いた。
便箋を、束ねて、机の左の引き出しに、納めた。
それから、もう一度、机の中央の、一通を、見た。
——明日の夜、決める。
そう、私は、自分のなかで、口にした。
決める、というのは、開けるか、開けないか、を、決めるという、意味だった。
そして、もし、開けるなら、そのあと、燃やすか、保管するか、を、決める。
燃やさないなら、いつ、どう、それを、自分の中で、処理するか、を、決める。
——明日の、夜。
そう、もう一度、確かめた。
今夜のうちに、決めることは、しなかった。
今夜のうちに、決めれば、私の判断は、たぶん、衝動の側に、寄ってしまう。
五年間、私は、衝動で動かない、と、自分に、課してきた。
ここで、その課しを、崩したく、なかった。
私はランプの火を、半分まで、絞った。
机の上の手紙は、薄い橙の灯りの中で、輪郭が、わずかに、淡くなった。
寝台に、私は、上がった。
肩まで、毛布を、引いた。
天井の梁の影が、いつもより、低く、長く、見えた。
眠りは、思ったよりも、ゆっくりと、私のところに、来た。
——明日の、夜。
私は、目を、閉じる、その直前、もう一度、心のなかで、確かめた。
そして、私は、眠りに、入った。
机の上の、その一通だけが、夜の宿舎の中で、まだ、灯りの灰色のうちに、置かれていた。




