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「夫人の手遊びだろう」と離縁された王宮御用達調香師は、翌朝隣国に招かれました  作者: ヲワ・おわり


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第35話 誰も触れておりません

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。

続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。

学府の業務に関するもの、薬務塔の助手たちからの記録、それから、二、三通の私信。

そのうちの一通の、差出人欄が、白紙だった。

封蝋は、簡素な、無紋の蝋。けれど、その押し方の癖と、封筒の宛名の筆跡を、私は、すぐに、見分けた。


——クラウス。


家令の、彼の手だった。


差出人の名を、書かないことが、彼の判断だった。

ヴェルディアから、アルメリアへ、ヴァインフェルト家の家令の名で、私的な手紙を出すことは、おそらく、彼の立場では、表向きには、はばかられる。

だから彼は、無紋の蝋を、選び、差出人を書かず、宛名を「賓客リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム殿」とだけ、書いていた。

その「賓客」の二音の置き方が、彼が、五年間、私の身分を、家令として、ちゃんと、敬意を持って、追っていてくれた証拠だった。


私は、手を清めた。

それから、ペンナイフを取り、封蝋を、丁寧に、割った。

便箋は、一枚。

クラウスの、しっかりとした、けれど、わずかに、年齢を経た文字が、整然と、並んでいた。


——奥様。


最初の二文字は、五年間、彼が、私を呼んできた、その呼称のままだった。

私は、唇を、ほんの少しだけ、ゆるめた。


——失礼を、承知の上、お伝え申し上げます。


——本日付にて、ご令嬢、イザベラ様は、社交界から、姿を、お消しに、なられました。お茶会の件以降、ご出席を、お控えに、なられている、と、お聞きしておりましたが、本日、ヴァインフェルト家から、王宮宰相府へ、ご令嬢の社交界からの、正式なご引退の旨、ご報告が、提出された次第でございます。


——お屋敷は、静かに、なりました。


——お当主様は、ご執務室から、滅多に、お出ましに、ならず、ご静養のかたちでございます。


——**奥様の、調香室は、今も、誰も、触れて、おりません**。


——お元気で、いらしてくださいませ。ご無事を、お祈り申し上げております。


——クラウス


短い手紙だった。

けれど、一行ごとに、彼の中で、五年間、抑えてきたものが、わずかずつ、にじみ出る、ていねいな手紙だった。


——奥様の、調香室は、今も、誰も、触れて、おりません。


私の指は、その一行の上で、ふっと、止まった。

止まったのは、ほんの一秒ほどだった。

けれど、そのあいだに、私の中で、ヴァインフェルト邸の二階の、東向きの部屋が、はっきりと、立ち上がった。


母の蒸留器を、納めた台。

私の作りかけの、香炉。

五十本以上の、香料瓶。

そして、「忘却」と書かれた瓶を、私が最後に、棚の奥に戻した、その位置。


それらは、私が出ていった日のままで、たぶん、まだ、誰の指にも、触れられていない。

私の指の薄い緑色が、最後に残った、その部屋の中の、静けさ。


——クラウス。


私は、心のなかで、低く、呼びかけた。


——あなたの、おかげで、まだ、あの部屋は、私の部屋として、いてくれている。


そして、その「私の部屋」を、私はもう、取り戻すことを、考えてはいなかった。

取り戻すことを、考えていないからこそ、その部屋が、まだ、誰の指にも触れられずに、静かに、置かれている、という事実が、私のなかに、奇妙な静かさを、置いた。


——クラウス。あなたの、手紙だけは、私の名前を、書かなかった。


そのことに、私は、もう一度、唇のかたちだけで、礼を、述べた。


差出人を書かないということは、私の名前を、ヴェルディア社交界に、もう、しがらみとして、繋げない、という、彼の最後の配慮だった。

「奥様、お元気で」と書きながら、自分の名は、書かない。

それは、彼が、家令としての、最後の一線を、守った所作でも、あった。


私は、手紙を、丁寧に、四つに、たたんだ。


たたんだ手紙を、机の引き出しの、いちばん奥に、納めた。

エルンストの手紙が、入っている引き出しとは、別の引き出しだった。

エルンストの手紙の方は、鞄の底に、納めたままだった。あちらは、私の中で、まだ、保留の場所に、置かれている。

クラウスの手紙は、保留ではなかった。

それは、明確に、「大切に取っておく場所」に、置かれた。


引き出しを閉めた後、私は、机の上の蝋燭を、じっと、見ていた。


——クラウス、ありがとう。


心のなかで、もう一度、呼びかけた。


声には、出さなかった。

彼に、その音は、届かない。

けれど、五年間、私の名前を、間違えなかった人の方角に、私はその一言を、ちゃんと、向けた。


その夜、私は、研究室の続きの仕事を、明日の朝に、回した。

ふだんなら、夜のうちに、もうひとつ、配合の試験を、こなしておくところだった。けれど、今夜は、無理に、それをするのは、たぶん、私の手元の温度に、合わなかった。

私の手元の温度は、いま、ヴァインフェルト邸の、誰も触れていない調香室の、机のうえの空気の温度と、不思議と、同じくらいに、静まっていた。


私は、寝台に上がり、肩まで、毛布を、引き上げた。

天井の梁の影が、夜の蝋燭の灯りに、長く、伸びていた。


——母さま、と、私は、ぼんやり、心のなかで、呼びかけた。

——あの部屋は、まだ、私の部屋のままで、ある、らしいです。

——いつか、家令の彼に、また、何か、ささやかな贈り物を、できるとよいのですが。


母は、答えなかった。

私は、目を、閉じた。


その数日後、別の手紙が、私のもとに、届くことに、なる。

封蝋は、ヴァインフェルト家の、獅子と剣の紋章だった。

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