第34話 蒼森の珍しいお茶
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。
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主催は、帝都の植物学者と学府を支える、後援者の貴族たち。
出席は、四十名ほど。学術四公のうち、調香学府からは、テオドールと私とアンナが、列席することに、なっていた。
私は、深い灰色の、地味な夜会服を、選んでいた。装飾は、髪の細い銀紐だけ。アンナが、「奥様には、これが、お似合いでございます」と、用意してくれた一着だった。
会場の広間は、半円形に、座席が、配置されていた。
中央の小さな舞台では、楽人が、低い弦楽の曲を、奏でていた。
人々は、それを背景に、緩やかに、会話を、交わしていた。
私とテオドールは、入場の挨拶を済ませた後、広間の北側、人の動きが、比較的、少ない一画に、立っていた。
テオドールは、私の隣に立ち、何人かの研究者に短く、私を、紹介していた。研究者たちは、皆、私の業績については、すでに、知っており、私の旧姓と称号を、正確に、発音した。
会の半ばを、過ぎたあたり。
私の少し背中側、衝立の向こうから、低い、ヴェルディア風の母音の、男性の声が、聞こえてきた。
「——ええ、聞きましたよ。ヴァインフェルト家のご令嬢が、ね」
私の耳が、わずかに、その音域を、拾った。
「『**蒼森の、珍しいお茶**』と、称して、配ったらしいですな。お茶会で」
別の声が、答えた。
「ヴァインフェルト家、と言えば、最近、ご当主の、夫人が、離縁されて、隣国へ、お出ましになったとか。あの夫人は、お遊びの調香で、有名でしたな」
「ええ。それが、ね。ご令嬢が、ご夫人の代わりに、社交を、お引き受けに、なられたんですよ。それで、自分の手柄を立てたいご様子で、北の山から、珍しい茶葉を、お買い求めになって、お茶会で、振る舞われた」
「で?」
「その後、参加された貴婦人のうち、何名かが、熱で、寝込まれましてな。ご令嬢は『**私のお茶のせいではない**』と、必死にご弁明されたそうですが、社交界の風向きは、もう、ね、冷えるばかりで」
私の右手の指が、シャンパンの脚を持つ指の中で、わずかに、固くなった。
固くなったのを、私自身、意識して、ゆっくりと、ほどいた。
ほどいた後の指は、いつもより、わずかに、震えていなかった。
——私のお茶の、せいではない。
義妹の、その一言を、私は、聞こえないところで、はっきりと、聞いた気がした。
予想されたとおりの、彼女らしい弁明だった。
香りに対して、敬意を持たない人は、香りで起きたことに対して、責任を、持たない。
彼女は、たぶん、自分の中で、本気で、「私は何も悪くない」と、信じている。
「——奥様」
テオドールが、低く、私の隣で、口を、開いた。
私は、目を、上げた。
「お聞きに、なりましたか」
「——はい」
短く、私は、返した。
テオドールは、シャンパンの脚を、ふっと、軽く回した。
それから、私に、目を、向けた。
「**貴女の、せいでは、ございません**」
低く、けれど、はっきりと、彼は、そう、置いた。
私は、しばらく、答えなかった。
答えに、迷ったわけではなかった。
ただ、彼の声の置き方が、思ったよりも、私の中に、深く、まっすぐに、入ってきた。
——貴女のせいでは、ない。
その短い一文は、彼の中で、どれくらいの間、温められていた言葉だろうか、と、私はぼんやりと、考えた。
たぶん、夜会場に入った時から、彼は、いつかこの一言を、私に、置こうと、決めていたのかもしれない。
「——テオドール卿」
私は、姿勢を、整え直し、低く、返した。
「**私のせいでは、ない、と、言われるまでも、なく、私のせいでは、ございません**」
それは、ふだんの私の、平らな返事よりも、わずかに、強かった。
強くしたつもりは、私自身、なかった。
けれど、声が、自分の意思の少し上で、わずかに、形を、整えてしまっていた。
テオドールは、わずかに、目を細めた。
それから、ゆっくりと、頷いた。
咎める頷きではなかった。
むしろ、その強さを、彼は、嫌がっていない、というような、頷きだった。
「——左様で、ございますね」
低く、彼は、返した。
「失言を、お許しください」
「——いいえ」
私は、すぐに、首を、振った。
「——ありがとう存じます」
そう、短く、付け加えた。
私の返事のあとで、衝立の向こうから、まだ、ヴェルディア風の話し声が、続いていた。
「いや、しかし、ご夫人が、ヴァインフェルト家に、いらした頃は、こういうことは、起きなかったわけでしょうな」
「そうでしょうな。ご夫人は、王宮御用達調香師の称号を、お持ちだった、と聞きますが」
「お持ちだった、と言うか、いまも、お持ちなんでしょう。称号は、個人付与だそうで」
「ほう、左様で」
「ええ。ヴァインフェルト家には、ね、もう、毒の出所を、見抜ける目が、ないのです」
——もう、毒の出所を、見抜ける目が、ない。
その一行を、私は、心のなかで、ゆっくりと、繰り返した。
ヴェルディアの商人たちが、こうした評価を、公の場で、口にし始めていることを、私は、初めて、知った。
五年間、「夫人の手遊び」と呼ばれていた私の見ていた目が、いま、ようやく、彼らの口の上で、別の評価系として、立ち上がりつつあった。
それは、私の手柄ではなかった。
それは、たぶん、ハインリヒと、テオドールと、——そして、義妹の、無知の、合わさった結果だった。
私はシャンパンを、わずかに、口に運んだ。
泡は、いつもより、軽かった。
会場のあちこちで、似たような話の輪郭が、低く、立ちのぼっていた。
私は、それを、もう聞かないことに、した。
聞き続ければ、私の手のなかの、指の薄い緑色が、いつもより、深く、見えてきてしまう。
——彼は、私を、心配して、くれている。
私はもう一度、テオドールの、隣に立つ姿を、視界の隅で、確かめた。
彼は、もう、私の方を、見ていなかった。
ファルメ侯爵への、夜会の感想を、ふつうの社交辞令で、短く返している、その横顔だった。
その横顔が、不思議と、五年ぶりに、私の隣に立ってくれた人の、ようでもあった。




