第33話 心痛はない
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。
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紙は、二枚。一枚目には、ヴァインフェルト領、北東三村の、患者数の最新。二枚目には、ヴェルディア王宮薬務局の動きと、社交界の噂。
私は机の前で、紙を広げ、ゆっくりと、目で、追った。
——ヴァインフェルト領、患者数、八十六名。第一期、五十六名。第二期、二十八名。第三期、二名。死者は、未だ、出ず。
——王宮薬務局、リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム発の手紙、本朝、特急馬車にて、到着。薬務官ハインリヒ、即時、解毒法を、領地の医師団に、通達。白蒼苔の手配、開始。
——ヴァインフェルト領の医師三名、対応に苦慮。ハインリヒから派遣の薬務官二名、本日中に到着予定。
私は、目線を、二枚目に、移した。
——ヴェルディア王都の社交界、ヴァインフェルト家の名は、噂の中心。
——義妹イザベラ、依然として、社交活動を、継続。だが、彼女のお茶会の出席者数は、急減。
——「珍しいお茶」を振る舞われた茶会の、一部の貴婦人が、軽い発熱で、寝込み、その家から、ヴァインフェルト家への抗議の書状が、複数。
——王都の社交界では、すでに、「**お茶の出所**」を、ヴァインフェルト家に問う声が、上がっている。
私はその二枚目を、しばらく、見ていた。
——出所を、問う、声。
その四文字を、私の頭は、不思議と、ゆっくりと、咀嚼した。
義妹が振る舞ったお茶の中身が、ヴィレナを含んでいた、ということを、社交界自身が、輪郭として、掴み始めている。
それは、ヴェルディアの社交界の常識からすれば、いささか、早い反応だった。たぶん、薬務局の側で、すでに、何らかの説明が、社交界の上層に流れている。
ハインリヒの仕事だろう、と、私は、推測した。
彼は、いつもそうだった。表に出ずに、必要な経路だけを、正確に、整えていく。
「——奥様」
アンナが、机の脇から、低く、声をかけた。
「ご心痛のことと、お察し、いたします」
私は、わずかに、目を、上げた。
「——心痛、は、ございません」
短く、私は、返した。
「**職務を、果たすだけで、ございます**」
アンナの目元に、ほんのわずか、影が、差した。
それは、納得の影ではなかった。
むしろ、彼女自身、その答えが、最低限のものに過ぎないことを、ちゃんと、見抜いている影だった。
彼女は、私と同じ国の出身で、ヴェルディアの貴族婦人の言葉の使い方を、よく、わかっていた。
けれど、アンナは、それ以上は、踏み込まなかった。
「——左様で、ございますか」
そう、短く、返して、彼女はもう一度、紙の角を、整えた。
「研究室の準備は、整えてございます。本日は、白蒼苔の、別配合の試験を、ご予定の通りで」
「——お願いいたします」
私は、立ち上がり、紙をたたんで、机の引き出しに、納めた。
納めたあと、引き出しを、閉める音が、いつもよりも、わずかに、低く、響いた気がした。
事務室を出て、研究室まで、私は、回廊を、ゆっくりと、歩いた。
冬の朝の陽が、回廊の柱越しに、規則正しく、私の足元に、影を、落としていた。
柱の影と、私の影が、規則的に、交互に、重なっていく。
そのリズムを、私は、しばらく、目で、追っていた。
——本当に、私には、心痛は、ないのだろうか。
そう、ふと、自分のなかで、問い直した。
ヴァインフェルト領の村は、五年間、私が、年に二度、領地視察に同行したときに、わずかに、知っている。
村の女たちが、井戸端で、軽く頭を下げてくれた、その慎ましい目礼。子どもたちが、私の馬車を、遠くから、ぽかんと、見ていた、その目。
村は、貧しかった。けれど、礼儀を、保っていた。
——彼らが、義妹のお茶の、お裾分けを受けて、寝込んだとは、思いたくない。
そう、思ったとき、私の指は、回廊の柱に、わずかに、触れた。
止まりたかった、わけではない。
けれど、足の運びが、ほんのわずか、遅くなった。
——ああ。
私は、自分の中で、薄く、笑った。
——心痛、なくはない、らしい。
それでも、足は、止まらなかった。
止めない、と決めていた。
心の奥に、たぶん、いくつかの小さな波が、立ちはじめていることに、気づきながら、私はその波を、まだ、言葉に、しなかった。
言葉にすれば、波は、たぶん、もっと、大きくなる。
いまは、まだ、波を、波のままで、流しておく時期だった。
研究室の扉を開けると、机の上に、すでに、アンナが、新しい試験用の小瓶を、並べてくれていた。
白蒼苔の、純抽出液、半分濃縮、二倍希釈、三倍希釈。
ヴィレナの微量も、四つの異なる濃度で、用意してあった。
私は、エプロンを身につけ、手を清め、机の前に、座った。
ピペットを取り、最初の試験管を、引き寄せた。
私の手は、いつものとおり、ふっと、自分の重心の上に、すうっと、落ち着いた。
——職務を、果たすだけ。
私はもう一度、自分のなかで、その八文字を、確かめた。
その八文字は、今朝の私の中で、心痛がない、ということを、意味してはいなかった。
それは、心痛があっても、手は、動かす、という、誓いに、近かった。
蒸留器の銅が、机の脇で、午前の陽を、わずかに、受けていた。
私の指の薄い緑色は、銅の上に、淡く、映っていた。
五年間、誰にも、見られなかった、その指の色を、今朝も、私自身は、ちゃんと、見ていた。




