第32話 解毒法
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。
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机の上の蝋燭は、二本、三本と、新しいものに、取り替えられていた。アンナは、私の手の動きを邪魔しないように、足音を消して、机のまわりを、整え続けていた。
テオドールは、執務室の机の向こうに座り、私とは別の書類を、無言で、整えていた。
彼は、ふだんの夜の倍以上、この部屋に留まっていた。
私は、ハインリヒへの手紙の、本文を、書き続けていた。
まず、第一節。
——ヴィレナの、植物学的、識別法。
葉の形は、長楕円。葉先がわずかにとがり、葉縁に、細かい鋸歯がある。葉裏に、薄い白い粉。茎は四角の断面。生木の段階で青臭く、乾燥させた葉は、わずかに苦みを帯びた青さに変わる。
香気は、青苔と、湿気を含んだ針葉樹の樹脂と、根の腐りかけの匂いが、混ざる。
燃焼させたとき、煙は青みを帯び、長く、低く、たなびく。
——第二節。患者の、症状と、病期分類。
第一期、発熱と、軽い発疹。三日以内。第二期、発疹の拡大、意識混濁の予兆。四日から七日。第三期、高熱と意識混濁。八日以降。死に至るのは、第三期の中盤以降。
第一期での投与が、最も、奏功する。
——第三節。拮抗成分「白蒼苔」の、同定法と、入手先。
地衣類。白色、わずかに灰色を帯びる、平たい苔状の生育。蒼森南西斜面の、北向きの岩肌。湿気の多い場所。十六世紀末のヴェルディア薬草書には「白衣苔」の名で記載がある。
帝国学術院では、本書の差出と同時に、ヴェルディア王宮薬務局あてに、五十グラムの白蒼苔粉末を、送る。それで、約三百名分の煎じ薬を、調合できる。追加が必要な場合は、本学府まで、ご一報を。
——第四節。解毒煎じ薬の、配合。
白蒼苔粉末、三グラム。湯、四百ミリリットル。沸騰直前で火を弱め、十二分、静かに煎じる。煮詰めすぎると、白蒼苔の拮抗成分は破壊される。煮詰め不足は、拮抗作用が、ヴィレナの量に追いつかない。色は、わずかに白く濁る程度が、正しい。投与は、温く冷ました状態で、一回百ミリリットル、一日三回、第一期の患者には五日間。
——第五節。注意事項。
妊婦への投与は、白蒼苔の量を、半量に減らす。幼児(五歳以下)への投与は、白蒼苔の量を、三分の一に減らし、湯の量を、半量に減らす。
拮抗成分の効果は、患者の体質により、十パーセント程度の前後差がある。三日経過しても発熱が下がらない場合は、量の調整を、医師の判断で行う。
私は、書き終えた便箋を、机の上に、ゆっくりと、揃えた。
七枚の便箋に、私の手は、専門用語と、配合の数字を、迷いなく、並べていた。
私情の言葉は、一行も、含まれていなかった。
夫の名も、義妹の名も、ヴァインフェルト領という地名も、本文中には、一度も、書いていなかった。
ヴァインフェルト領、と書く代わりに、私は、「貴局がご担当の地域」と、書いていた。
それは、私自身のために、というよりは、書面が、政治的に解釈される余地を、最小限に、するためだった。
文末に、私はもう一行、付け加えた。
「ハインリヒ殿。
**この情報は、王宮薬務局、および、ご希望される医師団に、ご開示ください。出所の表記は、ご無用に願います**」
そして、署名のところで、私は、一度、ペンを、止めた。
——リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム。
そう、私は、最後の行に、書いた。
ヴァインフェルト姓は、つけなかった。
王宮御用達調香師、という称号も、つけなかった。
ただの、リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム。
名前だけ。
それ以外の、肩書も、所属も、つけなかった。
「——奥様」
低く、テオドールが、机の向こうから、声をかけた。
「貴女の、お名前で、で、よろしいのですね」
それは、確認の問いだった。
責める問いではなかった。
学府長として、書面の体裁の最終的な責任を、私が、自分で取るかどうかを、確かめる、問いだった。
私は、目を、上げた。
「——はい」
短く、私は、答えた。
「**私個人の、判断でございます**」
そして、続けた。
「称号で、送ると、ヴェルディア王宮の方では、政治的に、解釈される、可能性が、ございます。『**王宮御用達調香師として、ヴェルディアに、貸しを作っている**』、と。私は、いま、誰にも、貸しを、作りたくは、ございません。**貸しのない情報として、送ります**」
テオドールは、しばらく、私を、見ていた。
それから、ゆっくりと、目を伏せ、わずかに、頷いた。
「——理解、いたしました」
短く、彼は、答えた。
それから、彼は、机の引き出しから、深い赤の封蝋の棒を、取り出し、私に、差し出した。
それは、ヴェルディアの正式書状に使われる、深い赤の蝋だった。
学府には、各国向けの封蝋の色が、すべて、揃えてあった。
私は、便箋を四つに折り、用意された厚手の封筒に納め、机の上の蝋燭で、赤い蝋を、慎重に、滴らせた。
封のあわせ目に、しっかりと、蝋がのった。
そして、私は、印章を、押した。
——エヴァースハイム家、月の下に立つ葦の紋章。
ヴァインフェルト家の獅子と剣の紋では、なかった。
レフナール調香学府の銀の月桂樹でも、なかった。
ただの、私の家門の、紋章。
押し終えた封筒を、私は、机の上に、そっと、置いた。
「——お休みください、奥様」
テオドールは、立ち上がり、低く、言った。
「翌朝の、特急馬車で、ご出立、と、いたします。アンナ。手配を」
「はい」
アンナは、即座に、書面を控えた。
私もまた、立ち上がった。
肩のうしろが、五年ぶりに、本気で、重かった。
けれど、不思議と、肩のすぐ前は、ずっと、軽かった。
体の中の、重さと軽さの分布が、五年前とは、まるで、違ってきていた。
「——お疲れさまでございました」
テオドールは、もう一度、低く、私に、深く、頭を下げた。
私もまた、深く、頭を下げ返した。
廊下に出ると、夜の空気は、すっかり、深い藍だった。
アンナが、宿舎まで、私と並んで、歩いた。
彼女は、何も話さなかった。
私もまた、何も、話さなかった。
ただ、彼女の足音が、私のすぐ横で、規則正しく、響いていた。
それで、十分だった。




