表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「夫人の手遊びだろう」と離縁された王宮御用達調香師は、翌朝隣国に招かれました  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

31/44

第31話 私の名前はもう

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。

続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。

私は、その光の上に、自分の指先を、軽く、置いた。

五年間、私が、何度も、書きものの机の上で、指で、自分の集中を整えた、同じ所作。

触れている板の温度は、ヴァインフェルト邸の机とは、違った。けれど、自分の指の動かし方は、変わらなかった。


「——テオドール卿」


私は、低く、けれど、はっきりと、声を、整えた。


「**伝えるべきは、私では、ございません**」


テオドールは、机の向こうから、わずかに、目を上げた。


「**王宮の、薬務官でございます。手紙を、書きます**」


部屋の中に、しばらく、沈黙が降りた。

テオドールは、机の上の書面を、ふっと、片手で、整え直した。

それから、ゆっくりと、頷いた。


「——理解、いたしました」


短く、彼は、返した。

その四文字に、評価も、批判も、含まれていなかった。

ただ、私の判断を、受け止めた、ということだけが、置かれていた。


「——お伺いいたしますが」


彼は、続けた。


「**貴女が、直接、ヴェルディアに、戻ることは、ございますか**」


私は、首を、わずかに、振った。


「ございません」


そう答えるのに、迷いは、なかった。

答える前に、私は、すでに、答えを、自分の中で、持っていた。


「**私の名前は、もう、あの家門には、ございません**」


私は、続けた。


「私が直接戻れば、ヴェルディア社交界は、私を『戻ってきた夫人』として扱い、ヴァインフェルト家は、私の名前で、家門の体面を取り繕おうとするでしょう。それは、私の名前の、扱い方として、間違っております。**私の手は、ここから、動かします**」


テオドールは、もう一度、頷いた。


「——分かりました」


それから、彼は、わずかに、声を、整え直した。


「私が、貴女の代わりに、ヴェルディア王宮薬務局との、連絡を、支援いたします。学府長の、私人の名で、書状を添えさせていただきます。**貴女のお書きになる解毒法の文書は、貴女自身のもの、として、扱われるように、私が、保証いたします**」


私は、深く、頭を下げた。


「ご配慮、ありがとう存じます」


テオドールは、わずかに、目を伏せ、それから、ふたたび、私を、見た。


「——奥様」


低く、彼は、もう一度、口を、開いた。


「**お辛い、判断を、なさいました**」


私は、しばらく、答えなかった。

答えに、迷ったわけではなかった。

彼の「お辛い」の四文字の置き方が、私の中の、何かを、わずかに、揺らした。


——お辛い。


そう、誰かに、認識される類の場面に、私は、いま、いる。

五年間、誰にも、辛い、と認識してもらえないところで、辛さを、抱えるのに、慣れていた。

今夜、海の向こうの学府長が、その四文字を、ふつうの声色で、私の机の上に、置いた。


「——いいえ」


私は、できるだけ、平らな声で、返した。


「私が、辛いわけでは、ございません。**患者の方々が、いま、辛うございます**」


テオドールは、わずかに、口元を、引いた。

それは、彼の中の、薄い、納得のかたちだった。


「左様で、ございますね」


そして、彼は、机の引き出しから、新しい、白い便箋の束を、取り出した。

アンナが、その瞬間に、私の側へ、ペン皿と、青いんくの瓶と、羽根ペンを、運んできた。

羽根ペンは、彼女が、私の使うのに合わせて、軸の柔らかいものを、選んでくれていた。


私は、長椅子から立ち上がり、机の前に、移った。

椅子に腰を下ろし、便箋の上に、左手を、置いた。

紙の繊維の、わずかな冷たさを、指の腹で、確かめる。

ペンを、右手に、取った。インクをつけて、軽く、紙の上で、流して試す。インクの色は、薄い藍に近い、深い青だった。


「——」


私は、姿勢を、整えた。


書く相手は、ハインリヒ。

ヴェルディア王宮、薬務局。

五年間、私の名前を、海の向こうに、送り続けた、あの人。


書くべき内容は、ヴィレナの識別法、解毒の処方、投与の手順、注意事項、それから、現地の薬務官への引き継ぎ要領。

私情を、一切、含めない、職務文書。

復讐心も、同情も、感謝も、嘆きも、紙の上には、置かない。

ただ、必要な情報だけを、最も、無駄なく、誰にとっても、誤読の余地がないように、書く。


私は、ペンを、紙の上に、おろした。


「——ハインリヒ殿」


私は、最初の四文字を、書いた。


書きながら、机の脇に立つテオドールが、わずかに、目を伏せたのが、視界の隅で、見えた。

彼は、私が書く文字の、一文字一文字を、見ているわけではなかった。

ただ、五年間、夫人として、誰にも見せずに鍛えてきた私の手の動き方を、いま、彼は、初めて、すぐ横で、見ていた。


私は、その視線を、気にしない、と決めた。

気にしない、というよりは、彼の視線の存在が、私の手の動かし方を、いつもよりも、わずかに、しずかにしてくれる、ような気が、した。


「ヴァインフェルト侯爵領の、熱病について、対処法を、お伝えいたします」


二行目を、私は、書いた。


そして、その二行目を、書き終えたあたりで、テオドールは、ようやく、低く、自分自身に、ひとつ、つぶやいた。

ふだん、彼が、独り言を言うことは、ほとんど、ないようだった。

だから、その独り言は、たぶん、抑えようとして、抑えきれなかった、種類のものだった。


「——これが、専門家としての、職業倫理か」


低い、ほとんど聞き取れない、けれど、確かに、声に出された、九文字だった。


私は、ペンを止めなかった。

聞こえていない、ふりをした。

聞こえていない、ふりをすることが、いま、彼への、私のささやかな返礼だった。


私は、三行目を、書き始めた。


「——本書面では、まず、毒物の植物起源、次に、香気成分による識別法、次に、拮抗成分による解毒の処方、最後に、投与の手順について、項目立てて、ご報告いたします」


書きながら、私の手は、五年ぶりに、本気で、職務文書のかたちを、取り戻していた。

書きながら、私は、自分の手が、ようやく、自分のもとに、戻ってきていることを、はっきりと、感じていた。


外は、もう、夕暮れの紫を、深めていた。

今夜は、たぶん、長い夜になる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ