第31話 私の名前はもう
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。
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私は、その光の上に、自分の指先を、軽く、置いた。
五年間、私が、何度も、書きものの机の上で、指で、自分の集中を整えた、同じ所作。
触れている板の温度は、ヴァインフェルト邸の机とは、違った。けれど、自分の指の動かし方は、変わらなかった。
「——テオドール卿」
私は、低く、けれど、はっきりと、声を、整えた。
「**伝えるべきは、私では、ございません**」
テオドールは、机の向こうから、わずかに、目を上げた。
「**王宮の、薬務官でございます。手紙を、書きます**」
部屋の中に、しばらく、沈黙が降りた。
テオドールは、机の上の書面を、ふっと、片手で、整え直した。
それから、ゆっくりと、頷いた。
「——理解、いたしました」
短く、彼は、返した。
その四文字に、評価も、批判も、含まれていなかった。
ただ、私の判断を、受け止めた、ということだけが、置かれていた。
「——お伺いいたしますが」
彼は、続けた。
「**貴女が、直接、ヴェルディアに、戻ることは、ございますか**」
私は、首を、わずかに、振った。
「ございません」
そう答えるのに、迷いは、なかった。
答える前に、私は、すでに、答えを、自分の中で、持っていた。
「**私の名前は、もう、あの家門には、ございません**」
私は、続けた。
「私が直接戻れば、ヴェルディア社交界は、私を『戻ってきた夫人』として扱い、ヴァインフェルト家は、私の名前で、家門の体面を取り繕おうとするでしょう。それは、私の名前の、扱い方として、間違っております。**私の手は、ここから、動かします**」
テオドールは、もう一度、頷いた。
「——分かりました」
それから、彼は、わずかに、声を、整え直した。
「私が、貴女の代わりに、ヴェルディア王宮薬務局との、連絡を、支援いたします。学府長の、私人の名で、書状を添えさせていただきます。**貴女のお書きになる解毒法の文書は、貴女自身のもの、として、扱われるように、私が、保証いたします**」
私は、深く、頭を下げた。
「ご配慮、ありがとう存じます」
テオドールは、わずかに、目を伏せ、それから、ふたたび、私を、見た。
「——奥様」
低く、彼は、もう一度、口を、開いた。
「**お辛い、判断を、なさいました**」
私は、しばらく、答えなかった。
答えに、迷ったわけではなかった。
彼の「お辛い」の四文字の置き方が、私の中の、何かを、わずかに、揺らした。
——お辛い。
そう、誰かに、認識される類の場面に、私は、いま、いる。
五年間、誰にも、辛い、と認識してもらえないところで、辛さを、抱えるのに、慣れていた。
今夜、海の向こうの学府長が、その四文字を、ふつうの声色で、私の机の上に、置いた。
「——いいえ」
私は、できるだけ、平らな声で、返した。
「私が、辛いわけでは、ございません。**患者の方々が、いま、辛うございます**」
テオドールは、わずかに、口元を、引いた。
それは、彼の中の、薄い、納得のかたちだった。
「左様で、ございますね」
そして、彼は、机の引き出しから、新しい、白い便箋の束を、取り出した。
アンナが、その瞬間に、私の側へ、ペン皿と、青いんくの瓶と、羽根ペンを、運んできた。
羽根ペンは、彼女が、私の使うのに合わせて、軸の柔らかいものを、選んでくれていた。
私は、長椅子から立ち上がり、机の前に、移った。
椅子に腰を下ろし、便箋の上に、左手を、置いた。
紙の繊維の、わずかな冷たさを、指の腹で、確かめる。
ペンを、右手に、取った。インクをつけて、軽く、紙の上で、流して試す。インクの色は、薄い藍に近い、深い青だった。
「——」
私は、姿勢を、整えた。
書く相手は、ハインリヒ。
ヴェルディア王宮、薬務局。
五年間、私の名前を、海の向こうに、送り続けた、あの人。
書くべき内容は、ヴィレナの識別法、解毒の処方、投与の手順、注意事項、それから、現地の薬務官への引き継ぎ要領。
私情を、一切、含めない、職務文書。
復讐心も、同情も、感謝も、嘆きも、紙の上には、置かない。
ただ、必要な情報だけを、最も、無駄なく、誰にとっても、誤読の余地がないように、書く。
私は、ペンを、紙の上に、おろした。
「——ハインリヒ殿」
私は、最初の四文字を、書いた。
書きながら、机の脇に立つテオドールが、わずかに、目を伏せたのが、視界の隅で、見えた。
彼は、私が書く文字の、一文字一文字を、見ているわけではなかった。
ただ、五年間、夫人として、誰にも見せずに鍛えてきた私の手の動き方を、いま、彼は、初めて、すぐ横で、見ていた。
私は、その視線を、気にしない、と決めた。
気にしない、というよりは、彼の視線の存在が、私の手の動かし方を、いつもよりも、わずかに、しずかにしてくれる、ような気が、した。
「ヴァインフェルト侯爵領の、熱病について、対処法を、お伝えいたします」
二行目を、私は、書いた。
そして、その二行目を、書き終えたあたりで、テオドールは、ようやく、低く、自分自身に、ひとつ、つぶやいた。
ふだん、彼が、独り言を言うことは、ほとんど、ないようだった。
だから、その独り言は、たぶん、抑えようとして、抑えきれなかった、種類のものだった。
「——これが、専門家としての、職業倫理か」
低い、ほとんど聞き取れない、けれど、確かに、声に出された、九文字だった。
私は、ペンを止めなかった。
聞こえていない、ふりをした。
聞こえていない、ふりをすることが、いま、彼への、私のささやかな返礼だった。
私は、三行目を、書き始めた。
「——本書面では、まず、毒物の植物起源、次に、香気成分による識別法、次に、拮抗成分による解毒の処方、最後に、投与の手順について、項目立てて、ご報告いたします」
書きながら、私の手は、五年ぶりに、本気で、職務文書のかたちを、取り戻していた。
書きながら、私は、自分の手が、ようやく、自分のもとに、戻ってきていることを、はっきりと、感じていた。
外は、もう、夕暮れの紫を、深めていた。
今夜は、たぶん、長い夜になる。




