第30話 ヴァインフェルト侯爵領にて
本作は全70話で完結予定です。
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長卓の正面、檀の上には、学府長テオドールが、礼装の学者服で、立っていた。
襟章は、いつもよりも、明確に銀の四枚葉。
檀の下、左右に、調香学府の学究たちが、整列して、立っていた。
私はアンナと共に、中央の通路から、檀の前まで、ゆっくりと、進み出た。
「——本日」
テオドールが、低く、けれど、よく通る声で、儀式の口上を、始めた。
「レフナール調香学府は、リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム調香師を、当学府の、正式研究員として、お迎えいたします」
学究たちの拍手が、長く、続いた。
拍手の中、私は、檀の前で、深く、頭を下げた。
「——光栄に、存じます」
私は、短く、挨拶した。
「当学府の、皆様の、お力を、お借りしながら、ヴィレナ熱病の解決のために、専門家として、職務を、尽くします」
それ以上の、長い挨拶は、しなかった。
私は、政治家ではなかった。
学府の長い議事に、調香師としての、簡潔な言葉だけを、置いた。
テオドールは、わずかに、頷いた。
頷きのなかには、いつもの彼の、抑えた満足が、滲んでいた。
——その時。
大講堂の、奥の扉が、静かに、けれど、急ぎ足の足音と共に、開いた。
アンナだった。
彼女は、儀式の場に踏み込むには、不慣れな所作で、けれど、迷わずに、檀の脇まで進んだ。
学究たちの何人かが、不審そうに、彼女を、目で追った。
彼女は、テオドールの傍まで来て、わずかに、姿勢を整え、低く、口を開いた。
「——学府長」
彼女の声は、訓練された低さだった。学府の儀礼に、慣れた声。
「**緊急の、お知らせが、ございます**」
テオドールは、わずかに、目を細めた。
彼は、儀式を中断する判断と、儀式を続行する判断のあいだを、一瞬で、計った様子だった。
そして、檀の上で、軽く、頷いた。
アンナが、テオドールに、書面を、差し出した。
書面の上の、青いんくの、太い書体の冒頭。
檀の下からは、それは、見えなかった。
けれど、檀の真下に立つ私の位置からは、文字が、わずかに、見えた。
——ヴェルディア王国、ヴァインフェルト侯爵領にて、
私の中で、息が、ぴたりと、止まった。
——原因不明の、熱病、急速に、拡大。
——患者数、過去三日で、二百名を、超える。
——死者は、未だ、確認されず。だが、症状は、過去のアルメリア領内の熱病例と、酷似。
——ヴェルディア王宮薬務局より、本学府あて、**解毒法に関する、お問い合わせ**、本朝、到着。
テオドールの目線が、書面の上で、ゆっくりと、下りた。
それから、彼の目は、わずかに、私の方を、見た。
ほんの一瞬の目線だった。
けれど、その目線の中に、彼が、私の動揺の重さを、すでに、理解している、ということが、はっきりと、伝わった。
「——皆様」
テオドールは、檀の上で、声を、整え直した。
「本日の、儀式は、これにて、閉じます。リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム研究員の、ご加入を、改めて、皆様で、お祝いいたしたく存じますが、本日は、緊急の業務が、ございますゆえ、後日、改めて、皆様と、お時間を取ります」
学究たちのあいだから、わずかな、ざわめきが、立った。
けれど、テオドールは、それ以上の説明は、しなかった。
学府の長として、必要な情報だけを、最低限、関係者にのみ、伝える。
それが、彼の判断だった。
学究たちが、講堂から、引いていく間、私は、檀の前で、しばらく、動けなかった。
動けない、と言うのは、足が、動かなかった、ということだった。
脚のどこにも、震えはなかった。
けれど、足の裏が、大理石の床に、貼り付いたように、しばらく、私を、その場に、留めていた。
「——奥様」
アンナが、低く、私の方を、見た。
「学府長より、執務室の方へ、と」
私は、頷いた。
それから、自分の足を、意識して、ひとつ、前に出した。
二歩目は、最初の一歩よりも、すこし、軽くなった。
執務室は、すぐに、近かった。
扉を閉めると、テオドールは、書面を、机の上に、広げ、私に、見せた。
書面には、私が檀の下で、わずかに、読み取った内容が、より具体的な数字と共に、整然と、記されていた。
ヴァインフェルト領、北東の三村。
最初の患者は、十日前。
拡大の中心は、領主館の周辺の、農村部。
症状の進行は、私たちが、薬務塔で観察した、ヴィレナ熱病の経過と、ほぼ、一致。
私は、書面を、しばらく、見ていた。
書面の余白に、もう一行が、書かれていた。
それは、たぶん、王宮薬務局の薬務官、つまりは——ハインリヒの、筆跡だった。
——「アルメリア帝国に客分として滞在中の、リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム殿に、解毒法の、ご教示を、お願い、申し上げたく」
——私の名前で、解毒法を、求める、書面。
私の指は、書面の余白の上で、ふっと、止まった。
止まったまま、しばらく、動かなかった。
——あの領地。
——五年間、私が「お遊び」と呼ばれていた、あの家門の領地。
——「気が変わったら、いつでも、戻ってこい」と、夫が言った領地。
——「夫人は、地味だから、誰も、気にしない」と、義妹が言った、その家門の、領地。
そこで、いま、二百人を超える人々が、熱病で、寝込んでいる。
死者は、まだ、出ていない。
けれど、私の特定したヴィレナ熱病の進行から考えれば、あと数日のうちに、最初の死者が、出る。
そして、十日以内に、村のうちの一割は、命を落とす可能性が、ある。
私の頭のなかで、子どもの数が、ひとつ、立ち上がった。
ヴァインフェルト領の村は、子どもの数が、多い。冬の今、子どもの呼吸器は、特に弱る。
熱病は、まず、最年少の体から、奪う。
——……
テオドールは、私の沈黙を、急かさなかった。
彼は、机の脇の長椅子に、私を、座らせ、自分は、その向かいに、腰を下ろした。
「——奥様」
低く、彼は、口を、開いた。
「**貴女は、王国に、解毒法を、伝えますか?**」
その問いには、彼自身の、答えは、含まれていなかった。
それは、純粋に、私の判断を、問う、問いだった。
専門家として。
かつての夫人として。
怒鳴らない強さの、持ち主として。
私自身の名前で、いま、ここに座っている、ひとりの、女として。
私は、しばらく、目を、伏せた。
胸の中で、いくつもの感情が、はっきりとした輪郭を取ろうとせずに、ただ、ゆっくりと、波のように、動いていた。
復讐心、では、なかった。
同情でも、なかった。
怒りでも、なかった。
あの家門と、私のあいだに、もう、感情の糸は、つながっていなかった。
けれど、村の、子どもたちの呼吸の音は、私の鼻のなかで、いま、はっきりと、立ち上がっていた。
私は、目を上げた。
口を、わずかに、開いた。
——……




