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「夫人の手遊びだろう」と離縁された王宮御用達調香師は、翌朝隣国に招かれました  作者: ヲワ・おわり


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30/41

第30話 ヴァインフェルト侯爵領にて

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。

続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。

長卓の正面、檀の上には、学府長テオドールが、礼装の学者服で、立っていた。

襟章は、いつもよりも、明確に銀の四枚葉。

檀の下、左右に、調香学府の学究たちが、整列して、立っていた。

私はアンナと共に、中央の通路から、檀の前まで、ゆっくりと、進み出た。


「——本日」


テオドールが、低く、けれど、よく通る声で、儀式の口上を、始めた。


「レフナール調香学府は、リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム調香師を、当学府の、正式研究員として、お迎えいたします」


学究たちの拍手が、長く、続いた。

拍手の中、私は、檀の前で、深く、頭を下げた。


「——光栄に、存じます」


私は、短く、挨拶した。


「当学府の、皆様の、お力を、お借りしながら、ヴィレナ熱病の解決のために、専門家として、職務を、尽くします」


それ以上の、長い挨拶は、しなかった。

私は、政治家ではなかった。

学府の長い議事に、調香師としての、簡潔な言葉だけを、置いた。


テオドールは、わずかに、頷いた。

頷きのなかには、いつもの彼の、抑えた満足が、滲んでいた。


——その時。


大講堂の、奥の扉が、静かに、けれど、急ぎ足の足音と共に、開いた。


アンナだった。


彼女は、儀式の場に踏み込むには、不慣れな所作で、けれど、迷わずに、檀の脇まで進んだ。

学究たちの何人かが、不審そうに、彼女を、目で追った。

彼女は、テオドールの傍まで来て、わずかに、姿勢を整え、低く、口を開いた。


「——学府長」


彼女の声は、訓練された低さだった。学府の儀礼に、慣れた声。


「**緊急の、お知らせが、ございます**」


テオドールは、わずかに、目を細めた。

彼は、儀式を中断する判断と、儀式を続行する判断のあいだを、一瞬で、計った様子だった。

そして、檀の上で、軽く、頷いた。


アンナが、テオドールに、書面を、差し出した。


書面の上の、青いんくの、太い書体の冒頭。

檀の下からは、それは、見えなかった。

けれど、檀の真下に立つ私の位置からは、文字が、わずかに、見えた。


——ヴェルディア王国、ヴァインフェルト侯爵領にて、


私の中で、息が、ぴたりと、止まった。


——原因不明の、熱病、急速に、拡大。

——患者数、過去三日で、二百名を、超える。

——死者は、未だ、確認されず。だが、症状は、過去のアルメリア領内の熱病例と、酷似。

——ヴェルディア王宮薬務局より、本学府あて、**解毒法に関する、お問い合わせ**、本朝、到着。


テオドールの目線が、書面の上で、ゆっくりと、下りた。

それから、彼の目は、わずかに、私の方を、見た。

ほんの一瞬の目線だった。

けれど、その目線の中に、彼が、私の動揺の重さを、すでに、理解している、ということが、はっきりと、伝わった。


「——皆様」


テオドールは、檀の上で、声を、整え直した。


「本日の、儀式は、これにて、閉じます。リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム研究員の、ご加入を、改めて、皆様で、お祝いいたしたく存じますが、本日は、緊急の業務が、ございますゆえ、後日、改めて、皆様と、お時間を取ります」


学究たちのあいだから、わずかな、ざわめきが、立った。

けれど、テオドールは、それ以上の説明は、しなかった。

学府の長として、必要な情報だけを、最低限、関係者にのみ、伝える。

それが、彼の判断だった。


学究たちが、講堂から、引いていく間、私は、檀の前で、しばらく、動けなかった。

動けない、と言うのは、足が、動かなかった、ということだった。

脚のどこにも、震えはなかった。

けれど、足の裏が、大理石の床に、貼り付いたように、しばらく、私を、その場に、留めていた。


「——奥様」


アンナが、低く、私の方を、見た。


「学府長より、執務室の方へ、と」


私は、頷いた。

それから、自分の足を、意識して、ひとつ、前に出した。

二歩目は、最初の一歩よりも、すこし、軽くなった。


執務室は、すぐに、近かった。


扉を閉めると、テオドールは、書面を、机の上に、広げ、私に、見せた。


書面には、私が檀の下で、わずかに、読み取った内容が、より具体的な数字と共に、整然と、記されていた。

ヴァインフェルト領、北東の三村。

最初の患者は、十日前。

拡大の中心は、領主館の周辺の、農村部。

症状の進行は、私たちが、薬務塔で観察した、ヴィレナ熱病の経過と、ほぼ、一致。


私は、書面を、しばらく、見ていた。


書面の余白に、もう一行が、書かれていた。

それは、たぶん、王宮薬務局の薬務官、つまりは——ハインリヒの、筆跡だった。


——「アルメリア帝国に客分として滞在中の、リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム殿に、解毒法の、ご教示を、お願い、申し上げたく」


——私の名前で、解毒法を、求める、書面。


私の指は、書面の余白の上で、ふっと、止まった。

止まったまま、しばらく、動かなかった。


——あの領地。

——五年間、私が「お遊び」と呼ばれていた、あの家門の領地。

——「気が変わったら、いつでも、戻ってこい」と、夫が言った領地。

——「夫人は、地味だから、誰も、気にしない」と、義妹が言った、その家門の、領地。


そこで、いま、二百人を超える人々が、熱病で、寝込んでいる。

死者は、まだ、出ていない。

けれど、私の特定したヴィレナ熱病の進行から考えれば、あと数日のうちに、最初の死者が、出る。

そして、十日以内に、村のうちの一割は、命を落とす可能性が、ある。


私の頭のなかで、子どもの数が、ひとつ、立ち上がった。

ヴァインフェルト領の村は、子どもの数が、多い。冬の今、子どもの呼吸器は、特に弱る。

熱病は、まず、最年少の体から、奪う。


——……


テオドールは、私の沈黙を、急かさなかった。

彼は、机の脇の長椅子に、私を、座らせ、自分は、その向かいに、腰を下ろした。


「——奥様」


低く、彼は、口を、開いた。


「**貴女は、王国に、解毒法を、伝えますか?**」


その問いには、彼自身の、答えは、含まれていなかった。

それは、純粋に、私の判断を、問う、問いだった。

専門家として。

かつての夫人として。

怒鳴らない強さの、持ち主として。

私自身の名前で、いま、ここに座っている、ひとりの、女として。


私は、しばらく、目を、伏せた。


胸の中で、いくつもの感情が、はっきりとした輪郭を取ろうとせずに、ただ、ゆっくりと、波のように、動いていた。


復讐心、では、なかった。

同情でも、なかった。

怒りでも、なかった。

あの家門と、私のあいだに、もう、感情の糸は、つながっていなかった。

けれど、村の、子どもたちの呼吸の音は、私の鼻のなかで、いま、はっきりと、立ち上がっていた。


私は、目を上げた。

口を、わずかに、開いた。


——……

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