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「夫人の手遊びだろう」と離縁された王宮御用達調香師は、翌朝隣国に招かれました  作者: ヲワ・おわり


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第29話 白蒼苔

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。

続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。

部屋の中央に、長い木の机が一本、据えられていた。机の手前側に、蒸留器が三台。一台は小型、二台は中型。机の奥側に、白磁の香炉、銀のピペット立て、ガラスの試験管が、整然と並んでいた。

壁面の三方は、棚。

棚には、蒼森一帯と、アルメリア領北部、それから、わずかにヴェルディア領との境界地帯から、採取された、植物標本が、ひとつひとつ、革表紙の薄い帳面に、貼り合わせられて、収められていた。

標本の数は、ざっと、二百種類。

それぞれに、採取地、採取日、湿度、土壌の組成が、整然と、書き込まれていた。


私は今日、その二百種類のなかから、ヴィレナの煙の青みを、**中和する**香気を持つものを、探そうとしていた。


中和、というのは、漠然とした言葉だった。

正確には、ヴィレナの香気成分のうち、毒性反応を示す核となる部分の、揮発の輪郭を、別の植物の揮発成分が、香気の上で、ぴたりと、重なる位置で、消す——という現象だった。

それを、私たち調香師は、「拮抗成分」と呼んでいた。

ヴェルディア王宮で、私が、若い頃に、数えるほどしか経験したことのない、香気の上で立ち上がる、稀な現象だった。


午前のうちに、私は、五十種類ほどを、確かめた。

午後にも、四十種類を、確かめた。

そのほとんどは、ヴィレナの青みに対して、独立した香気を持ったまま、立ち上がっただけだった。中和は、起きなかった。


夕刻に差し掛かる頃、私は、棚の右奥の段から、一冊の標本帳を、取り出した。


——白蒼苔。


地衣類。

蒼森の南西斜面の、北向きの岩肌に、わずかに自生する、小さな白い苔。

私は十六歳の頃、王宮の蔵書室の薬草書で、その名前だけは、見たことがあった。

けれど、ヴェルディアでは、滅多に流通しない、地味な、けれど、奇妙に懐かしい響きの植物だった。


標本帳のページを開き、わずかに残された白蒼苔の粉末を、私はピペットで、小さな試験管に、移した。

中和の試験は、香炉の上で、行うわけにはいかなかった。ヴィレナの煙を上げる試験は、慎重にすべきだった。

だから私は、試験管のなかで、白蒼苔の抽出液と、ヴィレナの微量を、ごく薄い溶液で、混ぜる方を、選んだ。


ピペットの先で、ふたつの液が、混ざる。


二、三秒の後、試験管の上端に、ふっと、青みのあった液体の、**色そのものが、ゆっくり、消えていった**。

透明な、わずかに、白く濁った、無色の液体に、戻った。

匂いを、私は、開けた管口の、わずか上で、確かめた。

青さは、消えていた。残ったのは、ごくわずかな、白い苔の、湿った、清らかな香りだった。


——これ、です。


私は、心のなかで、低く、はっきりと、つぶやいた。


声には、出さなかった。

出すには、まだ、確認の段階だった。

私はピペットを置き、もう一度、別の試験管で、同じ反応を、再現してみた。

結果は、同じだった。

さらにもう一回、行った。

結果は、同じだった。


——拮抗成分の、候補。


私は、息を、深く、整えた。


そのときだった。

研究室の扉が、静かに、ノックされた。


「奥様」


テオドールの声だった。


「お入り、ください」


扉が開き、テオドールが、入ってきた。

彼は、机の脇に立ち、私の手元の、三本の試験管を、ゆっくりと、目で、追った。

試験管の、もとは青みのあった液体が、いま、無色に近く、静まっている、その様子を、彼は、すぐに、読み取った。


「——おひとつ、見つかりましたか」


低く、彼は、尋ねた。


私は、頷いた。


「**拮抗成分の、候補が、見つかりました。白蒼苔でございます**」


短く、私は、報告した。


テオドールは、しばらく、試験管を、見ていた。

それから、わずかに、目を細めて、私の方に、視線を上げた。


「——**貴女は、本当に、手が早い**」


短い、五文字だった。


その五文字に、過剰な熱はなかった。

彼の声はいつも通り、低く、抑えられていた。

けれど、その「手が早い」という評価のうしろには、たぶん、十年間、白蒼苔の前を素通りしてきた、何十人もの学究たちの背中が、見えていた。


私は、深く、頭を下げた。


「——光栄に、存じます」


それから、わずかに、姿勢を、整え直した。


「ですが、テオドール卿」


私は、続けた。


「**拮抗成分の発見は、解毒法完成の、半分でございます**」


テオドールは、わずかに、頷いた。


「残りの半分は」


「配合と、投与法でございます。拮抗成分は、量を間違えれば、ヴィレナの毒性を、却って、深めることが、ございます。投与は、どの段階で、どれだけの量を、どの形(煎じ、揮発、塗布)で、行うか。これを、誤れば、患者は、救えません」


「左様で、ございます」


「明日から、私とアンナで、配合の試験を、始めます。投与法は、薬学府の知見が、必要となります。テオドール卿、その点、ガストン卿のもとへ、お問い合わせの労を、お取りいただけますでしょうか」


テオドールは、わずかに、口の端を、引き上げた。

それは、彼の中の、薄い苦笑のかたちだった。


「——ガストン卿には、ご無理を、お願いに、参ります」


「お忙しいところを、お手数を、お掛けいたします」


「いいえ。**ヴィレナを抑えるためならば、薬学府と、調香学府の壁は、私が、引き下ろします**」


私は、もう一度、頭を、下げた。


テオドールは、机の上の試験管を、もう一度、見て、それから、扉のところで振り返り、低く、付け加えた。


「明日から、もう一段、お忙しくなります。今夜は、お早く、お休みください」


「——ありがとう、存じます」


扉が、閉まった。


私は、しばらく、机の前で、座っていた。

三本の試験管の、白く澄んだ液体は、私の前で、静かに、揺れずに、立っていた。


——明日から、配合の試験。

——投与法の、検討。


私の指は、もう一度、ピペットを、取った。

今夜のうちに、もう少しだけ、拮抗の反応を、別の濃度で、確かめておきたかった。

私の手は、まだ、動いていた。

動かしたかった。

五年間、誰にも見られないところで、私の手は、ずっと、動きたがっていた。

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