第28話 お茶の香り
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。
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紙には、市場の情報員が、毎日、ヴェスペル中央広場、北門、東門の三箇所で、聞き取った商人や旅人の噂を、要約してまとめた、簡素な情報書きが、並んでいた。
ふだんの情報は、薬草の値段の動き、商人組合の人事異動、その他、雑多な世間話。
今日のそれには、いつもよりも一段、奥に、ヴェルディア王都に関する、ひとつの段落が、太字で、書き添えられていた。
「ヴェルディア王都、社交界。**ヴァインフェルト侯爵家のご令嬢イザベラ様**、最近、社交界の茶会にて、**珍しいお茶**を、振る舞われる。香りが独特、深く、青い、と、貴婦人の間で、評判」
私は、その紙の上で、ゆっくりと、目を、動かした。
——珍しい、お茶。
——香りが、独特、深く、青い。
私の指は、紙の縁の上で、ふっと、止まった。
止まったのは、たぶん、一秒にも満たない時間だった。
けれど、隣のアンナは、その止まりを、見ていた。
「——奥様?」
低く、彼女は、声を、かけた。
私は、目を、上げた。
できるだけ、いつも通りの表情で、答えようとした。
「——お茶の、香り、と、申しましたか」
私の声は、思ったよりも、淡く、けれど、わずかに、低かった。
「香りが、独特、深く、青い」
私は、もう一度、紙の上で、同じ言葉を、なぞった。
——青い、香り。
私の鼻のなかで、つい数日前、薬務塔の香炉の上で立ち上がった、青みがかった煙が、ふたたび、立ち上った。
ヴィレナの煙の色。
青苔と、湿気を含んだ針葉樹の樹脂と、青臭く苦みのある葉の輪郭。
冷たい、深い、青い香り。
茶葉として、嗜むようなものでは、決して、なかった。
ヴィレナを、もし、煮出して、お茶にしてしまえば、毒の成分は、お茶の湯に、丸ごと、溶け出す。
それを、飲んだ者は、まず、数時間以内に、軽い発熱を起こす。
それから、数日のうちに、発疹、意識混濁、最悪の場合、死に至る。
そう、薬務塔の解毒法研究のうちで、私たちが、ここ数日、繰り返し、確認したばかりの、毒性の経路だった。
「アンナ殿」
私は、低く、けれど、はっきりと、声に、出した。
「**この噂を、もう少し、詳しく、調べていただけますか**」
アンナの目元が、わずかに、引きしまった。
「——どの方面に、ご関心でしょうか」
「お茶の、出どころ。ヴァインフェルト家の、誰が、どこから、その茶葉を、入手したか。茶会に出席した貴婦人の中に、その後、体調を崩した者が、出ていないか。もし、出ていたら、症状の概略を」
アンナは、即座に、ペンを取った。
「すぐに、確認いたします。ヴェルディアの市場局を経由いたしまして、王都の薬務官事務局にも、お問い合わせいたします。お時間を、頂戴いたしますが」
「——お願い、いたします」
私は、紙を、静かに、たたんで、ふたたび、机の上に置いた。
たたみながら、自分の左手のひらが、わずかに、握られていることに、気づいた。
私はそれを、わざと、ゆっくりと、開いた。
開いたあとの指は、いつもより、わずかに、白かった。
「——奥様」
アンナが、低く、私の側で、囁いた。
「何か、お気づきの、ことが、ございますか」
私は、しばらく、彼女の問いに、答えなかった。
答えるには、まだ、推測の段階だった。
推測を、口に出すには、私は、専門家として、もう少し、慎重でいたかった。
「——もし、それが、ヴィレナで、あるならば」
私は、低く、心のなかの一行を、思わず、声に、漏らした。
漏らした、自分の声を、私は、すぐに、自分のなかに、引き戻した。
アンナは、それを、何も言わず、深く、頭を下げた。
私の口から出かけた一行の、続きを、彼女は、聞こうとは、しなかった。
それで、十分だった。
「アンナ殿、申し訳ございません」
私は、彼女の方を、向き直して、軽く、頭を、下げた。
「いえ。**奥様の、ご推測の、確度が高いことを、私は、信じております**」
アンナは、そう、短く返して、ペンと紙を、自分の手帳のなかに、整えていった。
私は、もう一度、机の上の、紙を、見た。
——珍しい、お茶。
——青く、深い、香り。
私の頭のなかで、五年前の、ヴァインフェルト邸の応接間が、なぜか、ふっと、立ち上がった。
婚礼後の、最初の春。
義妹のイザベラが、嫁いできた私のために、わざわざ、社交界で評判の若い茶葉商から、買い付けてきた、と言って、「お義姉様、これは、ヴァインフェルト家のためにと、特別な茶葉なのよ。香りで、人を集める力がございますの」と、得意げに、私に、淹れて見せた、あの茶会。
——香りで、人を、集める力。
その時の彼女の笑顔を、私は、はっきりと、覚えていた。
彼女は、香りに対して、敬意を、持たない人だった。
彼女は、香りを、社交の道具として、使う人だった。
そして、彼女は、自分の知らない香りを、「珍しい」と評価する習慣を、持っている人だった。
——もし、いま、彼女が、市場のどこかで、青い、深い香りの、新しい茶葉を、誰かから、勧められたとしたら。
私の指の中で、ペンが、わずかに、軋んだ。
私は、ペンを、机の上に、置き直した。
それから、深く、息を、整えた。
「——アンナ殿。
解毒法の方の作業に、戻ります。ヴァインフェルト領の件は、お調べくださりましたら、随時、お知らせ、ください」
「承知いたしました」
私は、立ち上がり、事務室を出て、研究室の方へと、廊下を、歩いた。
研究室の机の上には、解毒法のために、私が分離したいくつかの拮抗成分の小瓶が、整然と、並んでいた。
私の手は、まず、いま、目の前のものに、向けるべきだった。
けれど、私の頭のなかで、青い茶の香りは、しばらく、消えなかった。




