第27話 北の出のアンナ
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。
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長卓の上には、ヴェルディア王国の称号制度法、アルメリア帝国の賓客制度法、それぞれの判例集、両国の国境地帯における法的相互運用に関する慣例集。
四人の助手が、それぞれの机で、必要な箇所に、付箋を、貼っていた。
アンナは、長卓の中央で、私の下書きを、清書しながら、参考になる条文を、即座に引いていた。
「奥様」
アンナは、私の隣に座り、ペンを置いて、こう言った。
「**第三条、第二項の方では、家門による代理使用を、明確に、否定しております**。これを、第一に置き、第一項の個人付与の規定を、第二に置く構成の方が、論理が、わかりやすうございます」
私は、彼女の手元の、整文された文章を、目で追った。
構成の組み替えは、的確だった。
ヴェルディアの法律家が、王宮で書く順序を、知っていなければ、できない構成だった。
「アンナ殿」
私は、ペンを止めて、彼女を、見た。
「——ヴェルディアの法に、お詳しいのですね」
アンナは、ほんのわずか、目を伏せた。
それから、書類の端を、軽く整えながら、低く、答えた。
「私は、ヴェルディアの、生まれでございます」
「——左様で、ございますか」
「北部の、出でございます。アルマ村、と申しまして、地図の隅に、わずかにある、薬草農家の、集落です」
——北部。
ヴェルディアの王都から、ヴァインフェルト侯爵領を、さらに北東へ抜けた、その先の、痩せた山の、麓の村。
私は、頭の中で、地図上の、彼女が口にした場所を、ぼんやりと、なぞった。
「アルメリアには、お若い頃に?」
「十八の春に、参りました。学府の補佐官試験を、受けまして」
アンナは、それ以上は、語らなかった。
語らない、ということは、たぶん、彼女のなかで、その先には、まだ、口に出したくない何かが、ある、ということだった。
私は、それ以上、踏み込まなかった。
踏み込むには、私自身の方が、五年間の屋敷暮らしで、人に踏み込まれた時の不快感を、よく覚えていた。
「——お話、ありがとう存じます」
私は、短く、礼を、述べた。
アンナは、わずかに、目元を、ゆるめた。
それから、彼女は、ペンを取り直し、清書の続きに、戻った。
私は、その横顔を、しばらく、見ていた。
——彼女は、私と、同じ国の、出身だった。
そして、彼女は、ヴェルディアの法を、王宮の書記官と、同じ精度で、引ける女性だった。
アルメリアで、補佐官の試験を受け、合格し、いま、学府長のもとで、調香学府の実務を、回している。
——いつか、彼女のことを、もう少し、知ることが、許される日が、来るかもしれない。
私はそう、心のなかで、ひっそりと、置いた。
それは、約束ではなかった。
ただ、彼女と私のあいだの、これからの可能性のかたちを、私はいま、わずかに、目に留めただけだった。
午前から、午後にかけて、書類は、整えられていった。
王宮御用達調香師リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム、個人称号維持に関する、法的説明書。
全十二条、別添資料、二十三項目。
ヴェルディア法、アルメリア法、双方の根拠が、対比表として、整えられていた。
夕刻、テオドールが、事務室に、立ち寄った。
「奥様、アンナ。書類を、拝見いたします」
彼は、長卓の前に、立ったまま、書類を、めくった。
読み終わるのに、思ったよりも、時間が、かからなかった。
彼の目は、必要な箇所だけを、的確に、拾っていた。
「——よく、できております」
低く、彼は、そう、言った。
「明日の朝、ご署名のうえ、王宮宰相府宛で、出立させていただきます」
「——よろしく、お願いいたします」
テオドールは、書類を、机の上に置き、わずかに、私の方を、見た。
「ご無理を、お掛けいたしました」
「——いいえ」
私は、目を、伏せた。
五年間、誰にも、無理を掛けたと、認識されないまま、無理を続けてきた身からすれば、テオドールの「ご無理を掛けた」という一言は、それだけで、ひとつの、贈り物のような響きだった。
テオドールは、退室する前に、もう一度、書類の表紙の題名を、目で、なぞった。
「『王宮御用達調香師リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム』」
低く、彼は、その題名を、声に出した。
正式な書類の題名として、彼が、私の名前を、口にしたのは、初めてだった。
「——お名前を、こうして、書類の題名に、置けることは、本学府の、誇りでございます」
そう、短く、彼は、付け加えた。
それから、彼は、深く、頭を下げて、事務室を、出ていった。
扉が閉まった後、アンナは、低く、笑った。
それは、彼女が、ふだん、私の前で、見せたことのなかった、軽い笑いだった。
「——奥様。
テオドール様は、本日、いつもより、おしゃべりでいらっしゃいました」
私は、わずかに、目を上げた。
「左様で、ございますか」
「はい。ふだん、書類の題名を、声に出して、お読みになる方では、ございません」
私は、何も、答えなかった。
答えるべき言葉が、どれも、軽すぎる、気が、した。
代わりに、私は、書類を、もう一度、表紙から、整え直した。
——王宮御用達調香師、リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム。
題名のなかに置かれた、私の旧姓と、私の称号は、夕暮れの蝋燭の灯りに、淡く、照らされていた。
それは、五年間、私のなかで、声に出されなかった、十二音だった。
その日の夜、市場局の使いが、事務室の扉を叩いた。
「アンナ殿、本日の市場流通情報のうち、特に、奥様にお伝えしたい一件、ございます」
アンナが、書類を受け取り、私に、目を上げた。
「——ヴァインフェルト家の、ご令嬢が、ヴェルディア王都の社交界で、**珍しいお茶**を、披露しておられる、と」
私の指の中で、ペンの先が、わずかに、止まった。




