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「夫人の手遊びだろう」と離縁された王宮御用達調香師は、翌朝隣国に招かれました  作者: ヲワ・おわり


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26/41

第26話 個人称号です

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。

続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。

「奥様」


アンナの声だった。


「——夜分に、申し訳ございません」


私は、扉を開けた。

アンナは、両手に、一通の書状を、丁重に、捧げ持っていた。


封蝋は、深い赤。

押された紋章は、ヴェルディア王国の、二頭の獅子。

ヴェルディア王宮の、正式書状の、封だった。


「——ヴェルディアから」


私は、低く、確認した。


「学府の正面門に、ヴェルディア王宮の使者が、本日、夕刻に、届けてまいりました。テオドール様がご確認の上、奥様にも、ご一覧いただくべきと、ご判断され、夜分ながら、お持ちいたしました」


アンナは、書状を、私の机の上に、慎重に、置いた。

それから、扉を閉め、机の脇の椅子に、深く、腰を下ろした。

彼女は、私が書状を、開く時間を、待つつもりだった。


私は、まず、手を、清めた。

それは、こういう種類の書状を、開く前の、私の癖だった。

夫の手紙のときは、しなかった。けれど、王宮の正式書状には、私は、いつも、最低限の儀礼を、自分のために、設けることにしていた。


封蝋を、ペンナイフで、丁寧に、割った。


中の便箋は、二枚。

書体は、王宮の正式書記官の、整った文字。文章は、わずかに、堅い書面ヴェルディア語で、書かれていた。


——王宮御用達調香師の称号は、ヴァインフェルト侯爵家門の、所有に、帰属するものであり、アルメリア帝国に、おける、リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイムによる、当該称号の使用は、ヴェルディア王国の制度に、抵触する、不正使用に、相当する、と認める——


——よって、アルメリア帝国学術院に対し、当該称号の使用の即時停止と、リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイムのヴェルディア王国への送還を、要求する——


私は、便箋を、机の上に、置いた。

読み終わった時には、自分の指は、不思議と、震えていなかった。


——ああ、こういう、書面で来たのか。


私は、ぼんやりと、そう、思った。


ヴァインフェルト家が、王宮の中の、誰かに、この書面を、上申したのだろう、ということが、容易に、想像できた。

たぶん、エルンスト自身ではない。

彼の親戚筋、もしくは、義母のつてで、王宮の宰相府にいる、誰かに、頼んだ。

そして、宰相府の側にも、ヴェルディアの貴族社会の体面を保つために、こうした書面を、書く動機が、あった。

私という、ひとりの夫人の身分問題が、いま、国境を越えて、王国の体面の問題に、すり替えられていた。


「——奥様」


アンナが、静かに、問うた。


「——いかが、なさいますか」


私は、しばらく、便箋を、見ていた。

それから、ふっと、口元を、わずかに、ゆるめた。


それは、苦笑とも、嘲笑とも、つかない、薄い笑みだった。

五年間の屋敷暮らしで、私は、こういう種類の笑みを、たぶん、いちども、しなかった。

今夜が、たぶん、最初だった。


「——アンナ殿」


私は、便箋を、もう一度、軽く、たたんだ。


「**個人称号です。法的にも**」


アンナの眉が、わずかに、上がった。

それから、彼女は、自分の中で、その七文字を、咀嚼するように、ゆっくりと、頷いた。


「——左様で、ございますか」


「ヴェルディア王国の、宮中御用達制度は、宰相府の発令により、**個人に対して**授与されるものでございます。叙任の文書には、家門は、記載されません。家族関係も、結婚関係も、影響を、及ぼしません」


私は、机の上から、ペンを取り上げた。


「ご離縁の効果も、当該称号には、及びません。**この書状は、ヴェルディア王国自身の、制度に、矛盾しております**」


アンナは、即座に、ペンを構え、自分の手帳を、開いた。


「学府として、正式な、ご応答を、お返しいたします。テオドール様にも、お知らせいたします」


「——お願いいたします」


私は、ペンに、青いんくを、含ませた。


「ヴェルディア王国の称号制度の、法的根拠を、書類で、整えましょう。私が、下書きを、いたします。アンナ殿に、整文を、お願いしてもよろしいでしょうか」


「もちろんでございます」


私は、新しい紙を、引き寄せ、書き始めた。


——王宮御用達調香師称号、第三条、第一項。

——本称号は、宮中宰相府の発令により、個人に対して、授与される名誉であり、家門の所有とは、なさない。


私は、十六歳の春に、自分が読まされた、その条文を、頭の中に、はっきりと、保っていた。

あの春、宰相府の老書記官が、私の手のなかに、叙任の証書を、押し付けるようにして、こう言った。

「これは、お前さんの、名前で、王に納める、香の許可だよ。家の名前じゃない。お前さんが、嫁いでも、離縁しても、未亡人になっても、この名前は、お前さんから、離れない」。

私はその時、十六歳で、その意味を、本気では、理解していなかった。

今夜、その八年前の声が、初めて、私のなかで、はっきりとした意味を、持って、立ち上がった。


——あの老書記官は、私に、未来を、預けてくれていたのだ。


私はペンを、紙の上に、走らせた。


第三条、第一項。

第三条、第二項。

第四条、家門による称号の代理使用を、認めない場合の規定。

第五条、称号者の意思に反する、家門の使用に対する、宰相府の処分。


書きながら、私の指は、もうずいぶんと、暖かくなっていた。

法律の条文を、正確に、思い出す作業は、私の手元の、温度を、整えるのに、十分な、緊張だった。


アンナは、私の隣で、私の下書きを、即座に、整文しながら、書き写していた。

彼女の筆跡は、私のヴェルディア風の堅い書体を、帝国の学術書体に、滑らかに、置き換えていった。


夜は、深まっていた。

机の上の蝋燭が、二度、芯を切り直された。


「奥様」


アンナが、机の上から、目を、上げた。


「——明日、もう一度、清書をいたしまして、テオドール様の、ご署名を、頂戴いたします」


「——お願い、いたします」


私は、ペンを置いた。

肩が、わずかに、重くなっていた。

けれど、心は、軽かった。

五年間、私は、たぶん、こんなふうに、自分自身の名前のために、夜を使ったことが、なかった。


「アンナ殿」


私は、低く、彼女を、見た。


「明日も、よろしく、お願い、いたします」


アンナは、わずかに、微笑んだ。


「——もちろん、でございます」

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