第25話 戦ってくれる人
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。
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私は朝食の後、すぐに、内庭の回廊を、中央棟へ向かった。
昨日の会議の後始末について、何か話があるのだろう、と察してはいた。けれど、彼が私のために、わざわざ朝のうちに、時間を確保したことには、わずかな緊張を、覚えていた。
執務室の扉を、アンナが、開けた。
部屋の中の空気は、いつもよりも、ほんの少しだけ、引き締まっていた。
テオドールは、机のうしろから、立ち上がって、私を迎えた。
姿勢は、いつもと、変わらなかった。けれど、書架の前の小さな卓に、すでに、ふたつの茶器と、書類が、用意されていた。
「奥様。お時間を頂戴いたしまして、ありがとう存じます」
「いいえ」
「お掛けくださいませ」
私は、書架前の小卓の、革の椅子に、腰を下ろした。
テオドールも、向かいに、座った。
アンナは、いつものように、扉の脇に、控えた。
「——昨日の、ガストン卿の、ご発言の件で」
テオドールは、両手を、卓の上で、軽く重ねた。
「**後始末を、しておきます**」
「私が、何か、すべきことが、ございますか」
私は、低く、尋ねた。
テオドールは、ほんのわずか、口の端を動かした。
それは、微笑ではなかった。
むしろ、私の即座の問いに対する、彼自身の、わずかな安堵だった。
「——ございません」
短く、彼は、返した。
「**私が、学府長として、処理いたします**」
私は、しばらく、黙った。
黙ったのは、答えに、迷っていたからではなかった。
彼の「処理いたします」の四文字のうしろに、たぶん、薬学府とのいくつかの非公式の折衝、調整、皇族との連絡、学者たちへの根回し——そういったものが、長く、横たわっているのを、感じたからだった。
そして、そのすべてを、テオドールは、私の名前で、私の頭越しに、しかし、私の業績のために、自分の手で、引き受けようとしていた。
「ヴィレナの研究は、本来」
テオドールは、続けた。
「複数領域に、またがるべきものでございます。植物学、薬学、調香学、それぞれの、視点が必要でございます。これは、ガストン卿が、学術的に、正しい部分でもございます」
私は、頷いた。
「だが、特定したのは、調香学府でございます。そして、特定者は、あなたでございます。**学府の領域は、譲りません**」
——譲りません。
その四文字の置き方には、テオドールの、いつもの学術的な抑制を超える、一段、強い色があった。
彼が「譲らない」と決めたものは、たぶん、彼の中の脚本では、めったに、書き換えられないのだろう、と、私は思った。
「——……ありがとう、存じます」
私は、短く、礼を、述べた。
テオドールは、そこで、わずかに、首を振った。
「**お礼は、不要でございます**」
きっぱりとした、けれど、冷たくはない声だった。
「これは、**貴女の業績を守ることが、本学府の責務**だから、でございます」
私は、目を伏せた。
その「責務」の二文字の置き方が、私のなかに、何か、奇妙に静かな波を立てた。
善意でも、好意でも、私情でも、なかった。
責務、と、彼ははっきりと、言った。
私のためではなく、学府のため。
学府のため、ではなく、私の業績のため。
私の業績、というのは、私自身のものだった。
——この人は、私のために、戦って、くれている。
私の中で、そう、ひっそりと、その一行が、置かれた。
私は、その一行を、口に出さなかった。
出すべき場面でもなかった。
彼が、そう呼ばれることを、好む種類の人間でもなさそうだった。
ただ、その認識を持ったまま、私は、目を上げた。
「——テオドール卿」
私は、卓越しに、彼の顔を、まっすぐに、見た。
「では、私は、解毒法の研究に、集中いたします」
テオドールは、目元を、ほんのわずか、ゆるめた。
それは、彼が、目の前の相手に、信頼を伝えるときの、わずかな表情の動かし方だった、と、後で、私は理解することになる。
「——お願い、いたします」
それから、彼は、卓の上の書類を、軽く、整え直した。
「サンプルの追加採取、市場からの流通の追跡、それから、現地調査の準備。これらにつきましては、私とアンナで、進行いたします。**奥様は、解毒法の研究と、ヴィレナの拮抗成分の探索に、専念ください**」
「——承知いたしました」
私は、深く、頭を下げた。
「ご無理は、なさいませんように」
低く、彼は、もう一度、付け加えた。
ふだんなら、それは、社交辞令の一文だった。
けれど、今朝の彼の声には、社交辞令にはない、わずかな、人間的な気遣いが、滲んでいた。
彼自身、それに気づいて、わずかに、目を伏せた、ような気が、した。
執務室を出ると、内庭の回廊に、冬の陽が、長く差し込んでいた。
アンナが、半歩横を歩きながら、低く、口を開いた。
「——奥様」
「アンナ」
「テオドール様は、ふだん、こうした、お話をされる方では、ございません」
私は、わずかに、目を上げた。
「——どういう、意味でございますか」
「学府長として、業務上の戦いを、なさることは、何度も、ございました。ですが、その後、本人に『あなたのために戦った』と思われるような、説明を、なさることは、ほとんど、ございません。**いつもは、無言で、処理されてしまわれます**」
私は、しばらく、何も、返さなかった。
「——左様で、ございますか」
「はい」
アンナは、それ以上は、言わなかった。
それで、十分だった。
回廊の途中、私の指先の薄い緑色を、私はもう一度、目で、確かめた。
五年間、私の指は、誰にも、見られない色を、しずかに、持ち続けてきた。
今日からは、私の指の色を、見て、敬意を払う人々の中に、私は、いる。
それは、たぶん、嬉しいことだった。
嬉しいということを、認めても、いい時期に、私は、入りつつあるらしい。




