第23話 お前の手は
本作は全70話で完結予定です。
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夕刻、市場から学府に戻り、研究室で報告を済ませた私が、宿舎に戻ってきたところで、アンナが「奥様、ヴェルディアから、お手紙が届いております」と、玄関で告げた。
茶色の、わずかに古びた封筒。
封蝋は、深い緑。押された紋章は、小さな葉と、ひとつの蒸留器の輪郭。
——マイヤー師の、紋章。
師は、貴族ではなかった。
御用達の称号を、十六歳の春に、王宮から授かったが、家門の紋章を持たなかった。代わりに、若い頃に、自分でひとつ、紋章を作っていた。葉と、蒸留器。それだけの、簡素な紋章。
彼の手紙は、いつもこの紋章で、封をされていた。
私は、机の前に座る前に、まず、手を洗いに、湯桶のところへ立った。
冷たい水で、手のひらと、指先の薄い色を、軽くゆすぐ。
それから、手巾で、ゆっくりと、拭いた。
師の手紙を開けるときは、いつもそうしていた。
十二歳の頃から、変わらない、私の癖だった。
机に戻り、椅子に座り、封蝋を、ペンナイフで割った。
中の便箋は、思ったよりも、厚かった。何枚にも分けて、丁寧に書かれていた。
冒頭、最初の二文字を、私は、ゆっくりと、読んだ。
——ロッテ。
師の文字は、若い頃のままだった。
長い指で書かれた、わずかに左に傾いだ、しっかりとした字。
短い前置きが、続いていた。
——お前の手紙を、読んだ。離縁を選んだことを、私は責めない。お前自身が、お前の手で、それを選んだのなら、それで、よい。
私は、便箋の上で、目を、わずかに細めた。
師の声が、紙のうえから、まっすぐに、立ち上がってきた気がした。
「お前の手紙を、読み、私は、古い記憶を、呼び起こした」
そう、次の段落は、始まっていた。
「私が、若き日、お前の母と共に、蒼森南西斜面で、植物調査を、したことがある。三十数年も、前のことだ。当時のお前の母は、まだ十七歳。私は、駆け出しの薬草学生だった。学術院に、植物の標本を納める仕事で、ふたりで、二週間ほど、あの森に入った」
——母が、蒼森に。
私は、紙のうえで、しばらく、息を、止めた。
私の知っている母は、ヴェルディア王都近郊の屋敷で、薬草園を整え、香水を蒸留する、家庭の中の人だった。
ふた月に一度、王宮に呼ばれて、皇太子妃のための香を納めることはあったが、それ以外で、長く屋敷を空けたという話は、聞いたことがなかった。
ましてや、十七の時に、蒼森に二週間も入った、というような大きな話を、私は、母から、一度も、聞いていなかった。
師が、それを、書いていた。
「お前の母は、当時から、嗅覚が、並外れていた。蒼森で、私たちは、いくつかの稀少な植物を、記録した。その中に、——**ヴィレナという植物の名前を、私は、知っている。当時は、極めて、稀な植物だった**」
私の指先が、便箋の縁に、わずかに、力を入れた。
——師が、ヴィレナを、知っている。
——母も、ヴィレナを、見ている。
その二つの事実が、私のなかで、深く、しかも静かに、組み合わさった。
師の手紙は、続いた。
「当時のヴィレナの群生地は、森の中の、ごく限られた、特殊な土壌の、谷の底に、わずかにあるだけだった。我々は、その自生地の場所を、地図に書き留めた。だが、報告の後、その地図は、学術院の蔵書の、奥に、しまわれたままになっている。私の手元に、写しが、残っているはずだ。詳細を整理し、追って、送る」
私はその段落を、二度、読んだ。
——母の足跡が、蒼森に、ある。
——師の手記が、蒼森に、ある。
——そして、私の指は、いま、蒼森のヴィレナを、追っている。
三十数年の時間が、いま、私のなかで、わずかに、繋がろうとしていた。
ヴェルディアの侯爵邸で、お遊び部屋と呼ばれていたあの五年間とは、まるで違う、別の時間の流れが、自分の血の中に、ずっと、流れていたのだ、ということを、私はようやく、はっきりと、理解した。
便箋の最後の段に、師は、こう書いていた。
「**ロッテ。お前の手は、正しいことを、している**」
そして、その下には、署名と、いつもの短い結びの一文。
「お身体を、お大事に。マイヤー」
私は、その「正しいことをしている」の一行を、二度、読んだ。
三度目は、声に出さずに、唇のかたちだけで、なぞった。
——お前の手は、正しいことを、している。
師の声が、低く、ひとつ、私の机の上に置かれた。
ヴェルディアの侯爵邸では、誰にも言ってもらえなかった、一文だった。
たぶん、私自身、自分には、そう言わせる権利が、ない、と思っていた。
師は、それを、簡潔に、無条件に、私の机の上に、置いてくれた。
私は、便箋を閉じ、封筒に納めた。
鞄の中の、エルンストからの手紙とは、別の引き出しに、丁寧に、しまった。
それから、机の上に置かれた、母の蒸留器の方を、見た。
——母さま。
私は、心のなかで、低く、呼びかけた。
——私は、これから、もしかしたら、あなたの、若い日の足跡を、辿ることになるかもしれません。
——蒼森の、南西斜面。あなたが、十七の時に、入った森を、私も、いつか、入ることに、なるかもしれません。
蒸留器は、答えなかった。
銅の表面の、底の小さな傷の上を、私の指の腹は、いつものように、ひとつだけ、なぞった。
傷の輪郭は、いつもと、変わらなかった。
ただ、その傷が、母のものであるという事実が、今夜、私のなかで、少しだけ、重さを増していた。
明日、学府の会議が、ある。
テオドールが、私の論文を、学府の正式な記録に登録する手続きを、始める、と聞いていた。
私の名前で、書かれた論文を、私の名前で、学府記録に登録するという、その儀礼の場に、私は、明朝、列することになっていた。
——お前の手は、正しいことを、している。
師の一行を、もう一度、心のなかで、繰り返し、私は、ペンを取って、明朝の議題のメモを、整え始めた。




