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「夫人の手遊びだろう」と離縁された王宮御用達調香師は、翌朝隣国に招かれました  作者: ヲワ・おわり


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第23話 お前の手は

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。

続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。

夕刻、市場から学府に戻り、研究室で報告を済ませた私が、宿舎に戻ってきたところで、アンナが「奥様、ヴェルディアから、お手紙が届いております」と、玄関で告げた。


茶色の、わずかに古びた封筒。

封蝋は、深い緑。押された紋章は、小さな葉と、ひとつの蒸留器の輪郭。


——マイヤー師の、紋章。


師は、貴族ではなかった。

御用達の称号を、十六歳の春に、王宮から授かったが、家門の紋章を持たなかった。代わりに、若い頃に、自分でひとつ、紋章を作っていた。葉と、蒸留器。それだけの、簡素な紋章。

彼の手紙は、いつもこの紋章で、封をされていた。


私は、机の前に座る前に、まず、手を洗いに、湯桶のところへ立った。

冷たい水で、手のひらと、指先の薄い色を、軽くゆすぐ。

それから、手巾で、ゆっくりと、拭いた。


師の手紙を開けるときは、いつもそうしていた。

十二歳の頃から、変わらない、私の癖だった。


机に戻り、椅子に座り、封蝋を、ペンナイフで割った。

中の便箋は、思ったよりも、厚かった。何枚にも分けて、丁寧に書かれていた。


冒頭、最初の二文字を、私は、ゆっくりと、読んだ。


——ロッテ。


師の文字は、若い頃のままだった。

長い指で書かれた、わずかに左に傾いだ、しっかりとした字。


短い前置きが、続いていた。

——お前の手紙を、読んだ。離縁を選んだことを、私は責めない。お前自身が、お前の手で、それを選んだのなら、それで、よい。


私は、便箋の上で、目を、わずかに細めた。

師の声が、紙のうえから、まっすぐに、立ち上がってきた気がした。


「お前の手紙を、読み、私は、古い記憶を、呼び起こした」


そう、次の段落は、始まっていた。


「私が、若き日、お前の母と共に、蒼森南西斜面で、植物調査を、したことがある。三十数年も、前のことだ。当時のお前の母は、まだ十七歳。私は、駆け出しの薬草学生だった。学術院に、植物の標本を納める仕事で、ふたりで、二週間ほど、あの森に入った」


——母が、蒼森に。


私は、紙のうえで、しばらく、息を、止めた。


私の知っている母は、ヴェルディア王都近郊の屋敷で、薬草園を整え、香水を蒸留する、家庭の中の人だった。

ふた月に一度、王宮に呼ばれて、皇太子妃のための香を納めることはあったが、それ以外で、長く屋敷を空けたという話は、聞いたことがなかった。

ましてや、十七の時に、蒼森に二週間も入った、というような大きな話を、私は、母から、一度も、聞いていなかった。


師が、それを、書いていた。


「お前の母は、当時から、嗅覚が、並外れていた。蒼森で、私たちは、いくつかの稀少な植物を、記録した。その中に、——**ヴィレナという植物の名前を、私は、知っている。当時は、極めて、稀な植物だった**」


私の指先が、便箋の縁に、わずかに、力を入れた。


——師が、ヴィレナを、知っている。

——母も、ヴィレナを、見ている。


その二つの事実が、私のなかで、深く、しかも静かに、組み合わさった。


師の手紙は、続いた。


「当時のヴィレナの群生地は、森の中の、ごく限られた、特殊な土壌の、谷の底に、わずかにあるだけだった。我々は、その自生地の場所を、地図に書き留めた。だが、報告の後、その地図は、学術院の蔵書の、奥に、しまわれたままになっている。私の手元に、写しが、残っているはずだ。詳細を整理し、追って、送る」


私はその段落を、二度、読んだ。


——母の足跡が、蒼森に、ある。

——師の手記が、蒼森に、ある。

——そして、私の指は、いま、蒼森のヴィレナを、追っている。


三十数年の時間が、いま、私のなかで、わずかに、繋がろうとしていた。

ヴェルディアの侯爵邸で、お遊び部屋と呼ばれていたあの五年間とは、まるで違う、別の時間の流れが、自分の血の中に、ずっと、流れていたのだ、ということを、私はようやく、はっきりと、理解した。


便箋の最後の段に、師は、こう書いていた。


「**ロッテ。お前の手は、正しいことを、している**」


そして、その下には、署名と、いつもの短い結びの一文。


「お身体を、お大事に。マイヤー」


私は、その「正しいことをしている」の一行を、二度、読んだ。

三度目は、声に出さずに、唇のかたちだけで、なぞった。


——お前の手は、正しいことを、している。


師の声が、低く、ひとつ、私の机の上に置かれた。

ヴェルディアの侯爵邸では、誰にも言ってもらえなかった、一文だった。

たぶん、私自身、自分には、そう言わせる権利が、ない、と思っていた。


師は、それを、簡潔に、無条件に、私の机の上に、置いてくれた。


私は、便箋を閉じ、封筒に納めた。

鞄の中の、エルンストからの手紙とは、別の引き出しに、丁寧に、しまった。


それから、机の上に置かれた、母の蒸留器の方を、見た。


——母さま。


私は、心のなかで、低く、呼びかけた。


——私は、これから、もしかしたら、あなたの、若い日の足跡を、辿ることになるかもしれません。

——蒼森の、南西斜面。あなたが、十七の時に、入った森を、私も、いつか、入ることに、なるかもしれません。


蒸留器は、答えなかった。

銅の表面の、底の小さな傷の上を、私の指の腹は、いつものように、ひとつだけ、なぞった。

傷の輪郭は、いつもと、変わらなかった。

ただ、その傷が、母のものであるという事実が、今夜、私のなかで、少しだけ、重さを増していた。


明日、学府の会議が、ある。

テオドールが、私の論文を、学府の正式な記録に登録する手続きを、始める、と聞いていた。

私の名前で、書かれた論文を、私の名前で、学府記録に登録するという、その儀礼の場に、私は、明朝、列することになっていた。


——お前の手は、正しいことを、している。


師の一行を、もう一度、心のなかで、繰り返し、私は、ペンを取って、明朝の議題のメモを、整え始めた。

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