第20話 ヴィレナ
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。
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ふたつの蒸留器が、机の左右に据えられていた。
白磁の香炉は中央。
壁際には、地理学府から急ぎで運ばせたという、アルメリア領全土の薬草分布図と、蒼森一帯の精細な地図が、すでに広げてあった。
私は、淡い色の麻のエプロンを身につけ、髪は短く結い直していた。
机の右の端には、紙とペン、それから、アンナの手の届くところに、彼女自身のための記録机が、別に用意されていた。
「奥様、いつでも始められます」
アンナの声が、低く、けれど、しっかりと、机の向こうから届いた。
私は、深く、息を吸って、吐いた。
そして、机の上に並ぶ十本の小瓶を、もう一度、ひとつずつ、指で確かめた。
昨日の私の鼻が、間違っていないかを、もう一度、確かめるためだった。
確かめは、四半時で、終わった。
——共通する微量香気は、十本すべてに、存在する。
——成分は、青臭く、わずかに苦く、樹脂の余韻を持つ植物由来。
——量は瓶により異なるが、輪郭は、ひとつ。
私は、机の中央に、白磁の香炉を引き寄せた。
香炉の下に、小さな炭。
炭の火加減を、私は指の甲で、何度か確かめた。
強すぎず、弱すぎず。香気の核を、焦がさずに、ふわりと立ち上がらせる温度。
それから、私は、新たな小瓶を、自分の手のなかで作っていた。
十本のサンプルから、それぞれ少量を抽出し、共通する微量成分だけを、蒸留器で、改めて分離していた。**比較用の一滴**、と心の中で呼んでいた液体。
私の指の中の小瓶の中で、その一滴は、わずかに、青みがかった透明をしていた。
私は、ピペットを、小瓶に挿し、ほんの一滴を、慎重に、吸い上げた。
そして、香炉の中央に、置いた。
——一滴。
ぴ、と、低い音がした。
炭の上で、液体が、ほどけた音。
細い、青みがかった煙が、立ち上り始めた。
私は香炉の前にひざまずくように、わずかに頭を下げて、深く、息を吸った。
——青い苔。湿気の重い樹脂。針葉樹の根の腐りかけ。
——その中央に、明確な、ひとつの植物の輪郭。
葉の縁が、深く、長い。
茎は、太く、湿気を含むと、強く青臭くなる。
根は、横に這う。
そして、花は、咲かない。
花を咲かせる前に、葉と茎で、毒の核を完成させる、北方系の薬草。
私の鼻のなかで、ひとつの名前が、はっきりと、立ち上がった。
「——これは、**ヴィレナ**です」
私は、目を開けて、低く、けれど、はっきりと、声に出した。
「**蒼森の、南西斜面。湿気の多い地域に、自生する**」
机の周りに、しばし、沈黙が降りた。
それから、ざわり、と、薬務塔の助手たちの間に、波が立った。
ひとりが、地図の前で、深く息を呑んだ。
別のひとりが、無意識に、自分のメモ帳を、めくる音を立てた。
それは、感情のざわめきではなかった。
学者たちが、自分の知っていることと、いま聞いた一文を、即座に照合する、その音のざわめきだった。
テオドールは、机の少し離れたところに立っていた。
彼は、私の声のあとも、しばらく、動かなかった。
表情も、過剰には、動かなかった。
そして、低く、丁寧に、彼は、確認の問いを、置いた。
「——奥様。
**ヴィレナで、間違い、ございませんか**」
それは、疑いの声ではなかった。
学者として、最後の一行を、書き残すための、確認の声だった。
私は、香炉の煙を、もう一度、わずかに吸った。
「——間違い、ございません。成分構成は、典型的なヴィレナです。煙の、青みも、一致いたします」
私は、ピペットを置き、彼の方に向き直った。
テオドールは、深く、目を伏せた。
そして、ふたたび上げた目は、わずかに、しかし確かに、何かが解けた目だった。
「**特定できたのは、貴女が、最初でございます**」
低く、彼は、言った。
「**十年、探しておりました**」
——十年。
私の中で、その二文字が、長く尾を引いた。
十年、アルメリア学術院が、蒼森の毒の正体を探っていた。
私の論文が、五年前から、海の向こうで読まれていた。
そして、私の指は、いま、たった一滴の比較用の液体で、その十年の積み残しの先頭に、立った。
私は、深く、頭を下げた。
「——光栄に、存じます」
そう、短く、返した。
テオドールは、頷きながら、机の脇のアンナに、目で合図をした。
「アンナ。蒼森の南西斜面の、詳細な地図を、奥様に」
「はい」
アンナは、即座に、机の脇の地図を一枚、丁寧に広げ直した。
細かく書き込まれた、蒼森の地形図。
等高線、河川、林道、それから、薬草の自生地としての印が、ところどころに、薄い緑のいんくで、点描されていた。
私は、机の上に身を寄せ、その地図を、指で、ゆっくりと、なぞっていった。
蒼森は、東西に長く広がる、深い森だった。
南西斜面は、その左下の、湿気の溜まりやすい谷筋に当たっていた。
谷筋の地形は、複雑だった。山ひだが幾重にも折り重なり、谷の底には、いくつかの細い川が、流れていた。
地図上で、ヴィレナの自生地点と思しき場所を、指で、ふたつ、みっつ、確かめた。
南西斜面の、湿気の多い、谷の底寄り。
私の説明と、合致していた。
そして——私の指は、その先で、ゆっくりと、止まった。
地図の左下、蒼森の縁の、ヴェルディア側。
そこには、私のよく知る、領地の境界線が、描かれていた。
深い緑の森が、その線を、こちら側へと、わずかに、はみ出していた。
——あの森は、ヴァインフェルト領にも、接している。
私は、心のなかで、ひっそりと、その一行を、置いた。
声には、出さなかった。
声に出すには、まだ、自分の中で、何の文脈にも、つながっていなかった。
ただ、地図の上の、ふたつの緑——蒼森の南西斜面の緑と、ヴァインフェルト領の北東の森の緑——は、たぶん、ひと続きだった。
私の表情の、ほんのわずかな硬さを、テオドールは、見ていた。
「——何か、ございましたか」
低く、彼は、尋ねた。
私は、目を上げた。
そして、できるだけ、いつも通りの声で、答えた。
「——いえ。続けます」
テオドールは、わずかに頷き、それ以上は、尋ねなかった。
けれど、彼の目は、ほんのわずかに、私の指先の、地図のうえに残った場所を、確認していた。
私はもう一度、地図の南西斜面の緑の上に、指の腹を、軽く乗せた。
その指の温度は、不思議と、わずかに、冷えていた。




