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「夫人の手遊びだろう」と離縁された王宮御用達調香師は、翌朝隣国に招かれました  作者: ヲワ・おわり


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18/42

第18話 論文を読んできた人

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。

続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。

学府の宿舎は、白い石造りの小さな三階建てで、私の部屋は二階の南向きだった。窓を開けると、内庭の薬草園が見渡せた。霜の降りた地面に、すでに春先のセージや、根を残したラベンダーの株が、整然と並んでいた。

朝の散歩のあいだ、私はその園を一周だけして、用意してもらった黒い略式の調香服に着替えた。襟元は灰色の細い襟章。アンナがその襟章を「お客様用ですが、学府の中ではこの方が動きやすうございます」と説明してくれた。


「お時間でございます」


アンナは扉のところで、静かに私に告げた。


私たちは廊下を歩き、内庭を渡る回廊に出た。

回廊の柱には、それぞれ、薬草学・薬学・調香学・植物学の四つの分野の徽章が、銀の象嵌で彫られていた。学術四公を支える、四つの学府。私たちは、いま、その中の調香学府の中央棟へ向かっていた。


中央棟の二階の奥に、学府長の執務室があった。


アンナは扉の前で、ひとつだけ深く息を整えてから、扉を二度、叩いた。


「学府長」


低く、彼女は声を入れた。


「リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム調香師に、いらしていただきました」


中から、低い、けれど明瞭な男性の声が、短く答えた。


「お通しください」


アンナが扉を開け、私に先に入るよう、目で促した。


執務室は、想像していたよりも、ずっと広かった。

四方の壁の三面が、書架で、覆われていた。

背の高い書架には、植物学、薬学、調香学の書物が、隙間なく、けれど整然と並んでいた。書物の他にも、ガラスの押し花の標本、薬草の乾燥標本、それから、黒檀の蓋つきの小箱がいくつか。

南向きの大きな窓の前に、長い書き物机が、横に据えられていた。

その机のうしろから、ひとりの男性が、立ち上がった。


——背が、高い。


私が最初に感じたのは、それだった。

ヴェルディアの宮廷で見慣れていた、整った身長を超えて、彼の肩は、私の頭よりも、明らかに上にあった。

学者服。襟元には、銀の襟章。襟章の中央には、四枚葉の小さな印——学術四公の印だった。

髪は黒。短く整えられていて、額の真ん中に、わずかにくせがある。目の色は、深い灰青。

そして——指先が、薄く、色づいていた。

若い緑と、ほんのりとした褐色。アクラ草と、たぶん、白檀。

私が見るたびに自分の指で確かめている、あの、染みの色。


私は、わずかに、目を細めた。

彼は——同類だった。


「——テオドール・フォン・レフナールと、申します」


声は、思ったよりも、低くなく、けれど通っていた。


「本日は、お疲れのところ、お時間を頂戴いたしまして、誠にありがとうございます」


私は、深く、頭を下げた。


「リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイムと、申します。お招きをいただきまして、光栄に存じます」


頭を上げると、テオドールは、わずかに、私の指先に視線を落としていた。


それは、品定めの視線ではなかった。

私の指の薄い緑を見て、自分の指の薄い褐色を、軽く、確かめるような視線だった。


「お掛けくださいませ」


彼は手のひらで、執務机の前に置かれた、革の長椅子を示した。

私は、長椅子に腰を下ろした。


アンナが、紅茶と、小さな硝子の皿に乗せた焼き菓子を、机の上に置いた。

それから、扉のそばに、控えるように下がった。


テオドールは、机のうしろの自分の椅子に腰を下ろし、両手を、机の上で軽く重ねた。

そして、目を上げて、私を、まっすぐに見た。


「**論文は、五年前から、読んでおります**」


短く、彼はそう、口にした。


「**お会いできて、光栄でございます**」


私は、しばらく、答えに窮した。

「光栄」という言葉を、男性から、専門家として、まっすぐに受け取ったのは、十六歳の春、王宮の宰相にそう言われて以来だった。

それから八年。

私は、誰からも、光栄、と言われない場所で、生きてきた。


「……ありがとう、ございます」


私はようやく、そう、短く、返した。


テオドールは、わずかに、目を細めた。

笑ったわけではなかった。けれど、その目元の動きには、私の沈黙への、丁寧な配慮があった。


「お会いするまでに、私は、貴女の論文を、十二編、読みました」


——十二編。


私は、心のなかで、その数を、繰り返した。


私が王宮の薬務官の依頼で、書き留めた覚え書きの数。

正確には、十四編。そのうち、いちばん古い二編は、未完のまま、図書館に納められないままになっていた。

ということは、彼は、納められた十二編すべてを、読んだ、ということになる。


「特に、『**橙皮の三日陳と毒性反応**』は——」


その題名を聞いた瞬間、私は、わずかに、頷いた。

無意識の動きだった。

頷いたあとで、自分が頷いたことに気づいた。


「私の調香学府でも、参考にしております。橙皮を三日陳化させると、軽い毒性反応を示す香気成分の輪郭が、はっきり浮かぶ。それを利用すれば、複合香気の中の毒物の特定が、簡素化できる、というご論考は、本学府の若い学究たちにも、強い影響を与えました」


——私の論文の題名を、正確に、言える人がいる。


私の中で、何かが、深い場所で、静かに音を立てた。


それは、嬉しさだった。

五年間、私が、自分のなかで、ずっと、輪郭をぼかしてきた感情。

喜んでもいいのか、わからずに、輪郭を作らずに、流してきた感情。

それが、今朝、ようやく、自分のかたちを取ろうとしていた。


「お話したいことは、山ほど、ございます」


テオドールは、続けた。


「ですが、まずは、お身体を、お整えくださいませ。明日、薬務塔の方へ、ご案内いたしたく存じます。当学府で、ここ二年ほど取り組んでまいりました、ある事案の、香気サンプル群を、見ていただきたく」


「——拝見、いたします」


私は、即答した。

即答したあとで、自分の声に、わずかに、調香師としての張りが、戻っていることに、気づいた。


テオドールは、わずかに頷いた。

それから、ほんの一瞬、目を伏せ、もう一度、私を見て、静かに付け加えた。


「**マイヤー師のお弟子で、いらっしゃること。本当に、得難い、と思っております**」


私は、目を伏せた。


——マイヤー師。


師の名を、彼ははっきりと口にした。

ヴェルディアの王都近郊の、薬草園で隠居している、私の師。

十二歳から私を育てた、母代わりの、寡黙な老調香師。

その師の名を、初めて会うアルメリアの学府長が、自然に発音した。


「——師の名を、ご存じでいらしたのですね」


私は、ようやく、短く、そう尋ねた。


テオドールは、わずかに、頷いた。


「マイヤー師の昔のお仕事を、私は学生時代に、教科書として読みました。お師匠様の名は、アルメリア学術院では、知らぬ者は、おりません」


私は、もう一度、深く、頭を下げた。


——師の名を、知らぬ者は、おらぬ。


ヴェルディアの社交界では、誰一人として、師の名を、正しく発音できる者すら、いなかった。

海の向こうの学府では、教科書として、その名が、読まれていた。


私の中の、五年間の世界地図が、もう一度、静かに、書き換えられていた。

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