第17話 補佐官アンナ
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。
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灰色の石を、隙間なく積み上げた高い城壁。城門は東西南北に四つ。私たちが向かった南門の上には、銀の月桂樹を象った大きな浮き彫りがあり、その下を、たくさんの行き交う人々が通過していた。商人の荷馬車、学者の徒歩、騎兵の小隊、農家の引く牛車。
ヴェルディアの王都よりも、人の動きが速かった。
「奥様、まもなく到着でございます」
ハインリヒの声が、馬車の窓の外から、低く届いた。
帝都に入った馬車は、石畳の大通りを、北東に向かって進んだ。
途中、いくつもの広場を抜けた。広場の中央には、必ず石造りの噴水と、小さな彫像があった。彫像はいずれも、何かを書いている学者や、薬草を手にした女性の像だった。
ヴェルディアの広場が剣を抜く戦士の像で飾られていたのとは、まるで違った文化だった。
街路の所々から、白い煙が、規則的に立ちのぼっていた。
工房の煙突——いや、よく見ると、形がそれとは違う。
首が長く、上の方に小さな丸い帽子のような蓋がある、独特の塔。
蒸留塔だった。
私は息を呑んだ。
帝都の街並みの中に、家庭の煙突と並んで、ふつうに蒸留塔が立っている。
それは、化学と薬学が、暮らしの一部として根付いている、ということだった。
ヴェルディアの王都で、蒸留塔は王宮の薬務塔にしかなかった。
馬車は、北東の高台に登り、白い大理石で作られた門の前で、止まった。
門柱に、銀の月桂樹の細密な彫刻。
門の上には、深い藍と銀の旗。
——レフナール調香学府。
ハインリヒが先に降りて、私の馬車の扉を開けた。
私が降り立つと、彼は深く頭を下げて、こう言った。
「——奥様。
私は、ヴェルディア王宮の人間でございます。私の役目は、ここまでにございます」
——別離。
急ぎ足で、私はその二文字を、心の中で、認識した。
私は、彼の前で、まっすぐに姿勢を整えた。
「ハインリヒ殿。五年間のこと、本当に——」
そこで、私は、言葉に詰まった。
「ありがとう」だけでは足りない気がした。
「お世話になりました」では、形式が勝ちすぎていた。
五年間、私の名前を、海の向こうに送り続けてくれた人に、ふさわしい言葉が、私の喉のどこにも、用意されていなかった。
ハインリヒは、その詰まりを、丁寧に受け取った。
「奥様」
低く、彼は言った。
「お元気で、いらしてくださいませ」
それから、ほんのわずか、口の端を動かした。
それは、彼の中で、私と過ごした最後の業務の、しめくくりの微笑のかたちだった。
「**奥様の論文を、私は、今も、読んでおります**」
短い、一文だった。
けれど、その一文の重みは、五年間、私の生活の上にずっとあった重みと、ようやく釣り合った。
私は、深く、頭を下げた。
ハインリヒも、深く、頭を下げ返してきた。
そして、彼は身を返し、自分の馬車のもとへ歩いていった。
振り返りは、なかった。
私もまた、追って、彼の背中を、見続けることをしなかった。
ハインリヒの馬車が、白い門の前から、ゆっくりと退いていった、そのとき。
「——リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム調香師」
声が、私の背後から、届いた。
低めの、けれど明瞭な、女性の声だった。
私は振り返った。
学府の門の中から、ひとりの女性が、静かに進み出てきていた。
黒い学者服の上に、肩から短いマントを羽織り、襟元には、赤い襟章。
背は私と同じくらい。髪は栗色で、短く後ろで結ばれていた。
歳は二十代の半ば。たぶん、私より、少しだけ若い。
「お待ちしておりました」
彼女は私に近づき、両手を体の前で合わせて、深く頭を下げた。
頭を下げる角度は、儀礼通り。けれど、その所作には、堅苦しさよりも、温かさが滲んでいた。
「学府長補佐官、アンナと申します。本日より、奥様の学府内のお世話を、担当させていただきます」
——アンナ。
私はその名を、心のなかで、繰り返した。
「リーゼロッテと申します。アンナ殿、よろしくお願いいたします」
私は頭を下げた。
私の頭を下げる角度を、アンナはじっと見ていた。
そして、わずかに、目元をほころばせた。
「奥様のご論文、私も拝読いたしました」
え、と、私は内心で声を漏らした。
ハインリヒの「論文を今も読んでおります」の余韻が、まだ私の中で続いていたところに、アンナのこの一文が、続けて重なった。
私の「論文」は、いったい、何人の人に、読まれているのだろう。
「『調香における香気成分の構造的記述に関する一考察』、それから、『複合香気からの単一成分抽出技法』。学府の薬学資料室の、上から二段目に、製本されて並んでおります」
アンナの口調には、おべっかも、誇張もなかった。
彼女は、書類庫の棚を口にするように、私の論文の題名を、自然に並べた。
私は、しばらく、何も答えられなかった。
『調香における香気成分の構造的記述に関する一考察』。
それは、十八歳の春、私が王宮の薬務官に頼まれて、王立図書館の収蔵用に書いた、五ページの覚え書きだった。書いた本人が、何度か、書いたことすら忘れかけていたほどの、地味な記録だった。
その五ページが、海の向こうの学府の薬学資料室の、棚の上から二段目に、製本されて並んでいる。
——夫人の手遊び。
——その「お遊び」が、棚の上から二段目に。
私はわずかに、目を伏せた。
笑いがこみあげそうになるのを、私は抑えた。
笑うべき場面では、なかった。
けれど、心のどこかで、五年間ずっと張りつめていた糸が、もうひとつ、音もなく緩んだのは、確かだった。
「——お読みくださり、ありがとう存じます」
私はそう、短く、頭を下げて答えた。
アンナは、にこやかに頷き、白い大理石の門の方へ、手を差し向けた。
「奥様、本日は、まずは、ご旅装をお解きいただき、お部屋でお休みください。お食事は、お部屋にお運びいたします」
「ありがとう存じます」
「明朝、ご朝食の後、——**学府長、テオドール様**に、お会いいただく予定でございます」
私は、深く頷いた。
彼女に案内されるまま、私は白い門を、くぐった。




