第16話 賓客
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。
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馬車の窓から見える街道は、昨日までよりも、両側の森が深くなっていた。
針葉樹と、まだ霜の残った下生え。木の幹の苔は、私の知っているヴェルディアの並木よりも、青みが強かった。
冬でも色が褪せない、湿気の多い土地の苔だった。
——蒼森。
私は声に出さずに、その二音を、心の中で発音した。
ヴェルディアとアルメリアの両国の国境を分けるように、東西に長く広がっている深い森。地図の上では、薄い緑のいんくで描かれているだけで、ふだん、私はその土地を、特別に意識したことはなかった。
けれど今朝、馬車の窓から見るその森は、地図の上の薄い緑とは違って、思ったよりも、ずっと、奥が深かった。
日の光が、上の方の梢で止まり、下の方には、まだ、青い夜の名残のような暗がりが、残っていた。
——ここが、蒼森の縁か。
そう、ぼんやりと、私は思った。
学者の本で、何度か読んだ名前だった。
珍しい薬草の自生地として、注釈にしばしば現れる森。けれど、ヴェルディアの本では、いつも「アルメリア領寄りの北方の森」と片づけられていた。私はずっと、その森を、自分の生活には関わりのない、遠い場所だと思って育った。
馬車は、坂を下り、街道の片側に石造りの建物が一棟、見えてくる場所まで来た。
検問所だった。
赤い屋根、灰色の石壁、青と銀の二色の旗が、屋根の上で、規則正しく振られていた。
旗の中央には、銀の月桂樹。アルメリア帝国の国章。
御者が馬を停めた。
扉のそばに立つ、若い門衛が、敬礼の姿勢で馬車に近づいてきた。
彼の長衣も、銀の襟章をつけていた。
「——お通り、お検めいたします。書類を、頂戴いたします」
ハインリヒが、隣の馬車から降りてきて、私の馬車の扉を開けた。
そして、自分のかばんから、二通の書面を取り出した。一通は王宮の発給書類、もう一通は、アルメリア学術院から発行された招聘証書だった。
門衛はその二通を、丁寧に確かめてから、私のいる馬車の中を、わずかに覗き込んだ。
そして、私に向かって、姿勢を正し、深く頭を下げた。
「**賓客リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム殿、ようこそ、アルメリアへ**」
私は、わずかに、目を見開いた。
——賓客。
その二音が、検問所の朝の空気の中に、ぽつんと置かれた。
私は、ヴァインフェルト夫人、と呼ばれなかった。
私は、リーゼロッテ、とも、呼ばれなかった。
私は、賓客と呼ばれた。
——アルメリア帝国は、私を、夫人としても、ひとりの女としても、扱わない。
——皇帝陛下のお招きを受けた、ひとりの「客」として、扱う。
ハインリヒが、私の動揺を察したのか、馬車の扉のそばで、低く、説明を加えた。
「奥様、アルメリアでは、賓客は、ひとつの名誉ある身分でございます。皇帝陛下が、国境を越えて、直々にお招きになった者にのみ、与えられる呼称でございます」
「——左様でございますか」
私は、ようやく、声を出した。
「ヴェルディアの王宮で言えば、外賓の最上位の称号に相当いたします。賓客は、滞在中、皇帝陛下の保護下に置かれ、犯すべからざる身分として扱われます」
ハインリヒの声には、ふだんよりも、すこしだけ、敬意の色が滲んでいた。
私は、彼の言葉のひとつひとつを、注意して聞いていた。
「奥様」と呼ばれながらも、「賓客」という、別の私の身分の輪郭が、彼の説明によって、少しずつ私の中に届きつつあった。
——夫人ではなく、賓客。
私は、馬車の中で、ゆっくりと、その四文字を、自分の中に置いた。
奇妙な、けれど落ち着いた、距離感だった。
「夫人」は、誰かの妻としての私だった。
「賓客」は、誰かに招かれた、私自身だった。
そのふたつの間に、長く深い距離があることを、私は今朝、検問所の門衛の声で、はっきりと理解した。
門衛は、書類を返し、もう一度、深く頭を下げた。
「お通りくださいませ。帝都まで、半日のお道のりでございます」
御者が、馬を緩やかに進ませる。
車輪が、検問所の石畳を越え、その先の、ややなめらかな街道に乗った。
国境の白い石柱が、馬車の右側を、ゆっくりと過ぎていく。
柱の片面には、ヴェルディアの紋章。
反対面には、アルメリアの銀の月桂樹。
私の馬車は、いま、ヴェルディアの面から、アルメリアの面へと、移り替わった。
私は窓を、わずかに開けた。
空気が、変わった。
ヴェルディアの空気は、湿気を含み、土の匂いの濃い、低めの香りだった。
アルメリアの空気は、もう少し乾いていた。石の匂い、針葉樹の樹脂、それから、わずかに、薬草の青臭さ。鼻のなかで、輪郭がはっきりとした、まっすぐな香り。
——息を、深く、吸えた。
それは、五年間で、たぶん、いちばん深い、私の呼吸だった。
私は窓に額を寄せ、その先に広がるアルメリアの土地を、しばらく、眺めていた。
街道の脇に、石造りの小さな道標が立っていた。
道標の上に、銀の月桂樹の小さな浮き彫り。
その向こうに、初春の畑、まだ枯れたままのぶどう棚、それから、低い丘の上の白い農家の屋根。
——ここから先は、私の名前で、歩く。
私は心のなかで、そう、自分に言った。
夫の家門のかげに隠れて歩く、五年間は、終わった。
今日からは、誰の妻でもない、ただのリーゼロッテとして、地面を踏む。
名乗らないわけにはいかない場面が来たら、そのときは、リーゼロッテ・フォン・エヴァースハイム、と、はっきりと名乗る。
それで、いい。
馬車は、街道のなだらかな下り坂を、滑るように進んでいった。
遠くの空が、わずかに紫を帯び始めていた。
日が高くなる前に、おそらく、私たちは、丘の向こうに帝都の城壁を見ることになる。




