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「夫人の手遊びだろう」と離縁された王宮御用達調香師は、翌朝隣国に招かれました  作者: ヲワ・おわり


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第15話 国境までの夜

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。

続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。

街道沿いの宿は、思っていたよりも、こぢんまりとしていた。

一階は土間の食堂で、薪のはぜる音と、肉を焼く香りと、旅人たちの低い話し声が、ぎっしりと詰まっていた。二階は客室。階段を上がるたびに、木の軋む音がした。


私はハインリヒや使者たちの泊まる主屋とは別棟の、奥まった小さな離れに案内された。

扉を閉めると、急に、静かになった。

火鉢のなかに、宿の女将が短く炭を入れていってくれた。あとは、誰も入ってこなかった。


私は鞄を床に下ろし、外套を脱ぎ、椅子の背にかけた。

椅子は、座面の革が少しすり減っていた。けれど、座ってみると、思いのほか、体をきちんと支えてくれた。


しばらく、私は何もせず、ただ座っていた。


——ひとり、だ。


そう、ぼんやりと思った。


夫がいない部屋。

義妹がいない部屋。

家令も、侍女も、いない部屋。

私の足音と、私の呼吸だけが、低い天井の下にある部屋。


五年で初めての、自分のための部屋だった。


胸の奥が、少しだけ、ふしぎな熱を持った。

寂しさではなかった。安堵でもなかった。ただ、自分の体の輪郭が、長らく忘れていたかたちで、ぼんやりと、また自分のものに戻ってきている、というような、不器用な感覚だった。


私は床に下ろした鞄を、ひざの上に引き寄せた。


布の包みを、一番上から取り出す。

解いていく。

銅の蛇管。ガラスの球。母の蒸留器。


旅のあいだ、何度も馬車に揺られたのに、傷ひとつ増えていなかった。

私は人差し指で、銅の表面を、そっと撫でた。

底のあの小さな傷の上を、いつものように、指の腹で何度か往復した。


——母さま。


声には、出さなかった。


——いま、私は、ヴェルディアの国境近くの、宿におります。

——明日には、国境を越えます。

——明後日には、たぶん、帝都に着いている、はずです。


母は、何も、答えなかった。

答えてくれるとは、思っていなかった。

ただ、ここまで来たことを、母の蒸留器の前で、自分のために、報告する必要があった。

そういう種類の儀式が、私には、必要なのだった。


そのときだった。


控えめなノックの音が、扉を二度、叩いた。


「お客様、王都からの早馬で、お手紙が」


宿の女将の声だった。


私は驚いた。けれど、驚きを声に出さないように、扉を半分だけ開け、女将の差し出す手紙を、両手で受け取った。


「ご苦労様です。お運びいただき、ありがとう存じます」


女将は会釈をして、すぐに階段を下りていった。


部屋に戻り、扉を閉めてから、私はその手紙を、机の上の蝋燭の灯りの下に、置いた。


封蝋の色は、深い赤。

押された紋章は、獅子と剣。


——ヴァインフェルト家。


その四文字を、私は、しばらく、見つめていた。


差出人は、たぶん、エルンスト本人だった。

代筆ではない。家門の使用人や秘書官でもない。封蝋の押し方が、彼自身の手だった。少しだけ、紋章の片側が、強く押されすぎていた。彼のいつもの癖だった。


——なぜ。


私は、自分の中で、その三文字を、静かに繰り返した。


昨日、彼は「勝手にしろ」と吐き捨てた。

あの吐き捨ては、彼の中の、終止符だったはずだった。あれ以上、私に向けて言うべき言葉は、彼の中の脚本には、もう書かれていないはずだった。

それが、まる一日もたたないうちに、もう、王都からの早馬で、追いかけてきている。


封を、私は、開けなかった。


開けなかった理由を、自分でうまく説明できなかった。

怒っているからではない。彼の言葉を、これ以上、聞きたくないからでもない。たぶん、もっと単純な理由だった。

——これは、もう、私の生活ではない、と。


封を切るという所作は、相手の言葉を、自分の生活に招き入れる所作だった。

夫からの手紙を、五年間、私はそうやって、毎回、自分の生活に招き入れてきた。読んでは、わずかに息を吐き、机の隅に重ねていた。

今夜から、その所作を、私はやめる。


蝋燭の炎が、机の上で、わずかに揺れた。


私は、その炎に、手紙の角を、ほんのわずか、近づけてみた。

焦げる匂いがするほどには、近づけなかった。

燃やすつもりも、まだ、私のなかでは決まっていなかった。

燃やすという所作も、相手の言葉に対して、何か返事をする所作のひとつだった。私は、いま、彼に何の返事もしたくなかった。


私は手紙を、火から離した。

そして、鞄の、いちばん底に、納めた。


「始まり」の小瓶も、母の蒸留器も、いちばん上の段。

ヴァインフェルト家の紋章の封蝋は、いちばん下。


それでよかった。

彼の言葉は、もう、私の上には乗らない。

読むかどうかは、いつか、私のなかで、自然に決まる日が来れば、そのときに決めればいい。


私は蒸留器を、布で、丁寧に包み直した。

鞄の上の段に、もう一度、納めた。


机の脇の小さな台の上に、宿の女将が、湯のみと、水差しを置いてくれていた。

私はそこに歩いていき、湯のみに、わずかに白湯を注ぎ、ひと口、飲んだ。

五年ぶりに、夫からの手紙を読まないことを、自分で選んだ夜の、白湯の味だった。

特別に美味しくも、まずくもなかった。ふだんの湯と、変わらない味だった。


私は寝台に上がり、肩まで、毛布を引き上げた。

天井の梁が、蝋燭の灯りの中で、低く、影を伸ばしていた。


——母さま。

——明日、私は、国境を越えます。


私は、声に出さずに、もう一度、母に報告した。

そして、目を閉じた。

眠りは、思ったよりも、早く、私のところへ来てくれた。

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