第15話 国境までの夜
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。
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街道沿いの宿は、思っていたよりも、こぢんまりとしていた。
一階は土間の食堂で、薪のはぜる音と、肉を焼く香りと、旅人たちの低い話し声が、ぎっしりと詰まっていた。二階は客室。階段を上がるたびに、木の軋む音がした。
私はハインリヒや使者たちの泊まる主屋とは別棟の、奥まった小さな離れに案内された。
扉を閉めると、急に、静かになった。
火鉢のなかに、宿の女将が短く炭を入れていってくれた。あとは、誰も入ってこなかった。
私は鞄を床に下ろし、外套を脱ぎ、椅子の背にかけた。
椅子は、座面の革が少しすり減っていた。けれど、座ってみると、思いのほか、体をきちんと支えてくれた。
しばらく、私は何もせず、ただ座っていた。
——ひとり、だ。
そう、ぼんやりと思った。
夫がいない部屋。
義妹がいない部屋。
家令も、侍女も、いない部屋。
私の足音と、私の呼吸だけが、低い天井の下にある部屋。
五年で初めての、自分のための部屋だった。
胸の奥が、少しだけ、ふしぎな熱を持った。
寂しさではなかった。安堵でもなかった。ただ、自分の体の輪郭が、長らく忘れていたかたちで、ぼんやりと、また自分のものに戻ってきている、というような、不器用な感覚だった。
私は床に下ろした鞄を、ひざの上に引き寄せた。
布の包みを、一番上から取り出す。
解いていく。
銅の蛇管。ガラスの球。母の蒸留器。
旅のあいだ、何度も馬車に揺られたのに、傷ひとつ増えていなかった。
私は人差し指で、銅の表面を、そっと撫でた。
底のあの小さな傷の上を、いつものように、指の腹で何度か往復した。
——母さま。
声には、出さなかった。
——いま、私は、ヴェルディアの国境近くの、宿におります。
——明日には、国境を越えます。
——明後日には、たぶん、帝都に着いている、はずです。
母は、何も、答えなかった。
答えてくれるとは、思っていなかった。
ただ、ここまで来たことを、母の蒸留器の前で、自分のために、報告する必要があった。
そういう種類の儀式が、私には、必要なのだった。
そのときだった。
控えめなノックの音が、扉を二度、叩いた。
「お客様、王都からの早馬で、お手紙が」
宿の女将の声だった。
私は驚いた。けれど、驚きを声に出さないように、扉を半分だけ開け、女将の差し出す手紙を、両手で受け取った。
「ご苦労様です。お運びいただき、ありがとう存じます」
女将は会釈をして、すぐに階段を下りていった。
部屋に戻り、扉を閉めてから、私はその手紙を、机の上の蝋燭の灯りの下に、置いた。
封蝋の色は、深い赤。
押された紋章は、獅子と剣。
——ヴァインフェルト家。
その四文字を、私は、しばらく、見つめていた。
差出人は、たぶん、エルンスト本人だった。
代筆ではない。家門の使用人や秘書官でもない。封蝋の押し方が、彼自身の手だった。少しだけ、紋章の片側が、強く押されすぎていた。彼のいつもの癖だった。
——なぜ。
私は、自分の中で、その三文字を、静かに繰り返した。
昨日、彼は「勝手にしろ」と吐き捨てた。
あの吐き捨ては、彼の中の、終止符だったはずだった。あれ以上、私に向けて言うべき言葉は、彼の中の脚本には、もう書かれていないはずだった。
それが、まる一日もたたないうちに、もう、王都からの早馬で、追いかけてきている。
封を、私は、開けなかった。
開けなかった理由を、自分でうまく説明できなかった。
怒っているからではない。彼の言葉を、これ以上、聞きたくないからでもない。たぶん、もっと単純な理由だった。
——これは、もう、私の生活ではない、と。
封を切るという所作は、相手の言葉を、自分の生活に招き入れる所作だった。
夫からの手紙を、五年間、私はそうやって、毎回、自分の生活に招き入れてきた。読んでは、わずかに息を吐き、机の隅に重ねていた。
今夜から、その所作を、私はやめる。
蝋燭の炎が、机の上で、わずかに揺れた。
私は、その炎に、手紙の角を、ほんのわずか、近づけてみた。
焦げる匂いがするほどには、近づけなかった。
燃やすつもりも、まだ、私のなかでは決まっていなかった。
燃やすという所作も、相手の言葉に対して、何か返事をする所作のひとつだった。私は、いま、彼に何の返事もしたくなかった。
私は手紙を、火から離した。
そして、鞄の、いちばん底に、納めた。
「始まり」の小瓶も、母の蒸留器も、いちばん上の段。
ヴァインフェルト家の紋章の封蝋は、いちばん下。
それでよかった。
彼の言葉は、もう、私の上には乗らない。
読むかどうかは、いつか、私のなかで、自然に決まる日が来れば、そのときに決めればいい。
私は蒸留器を、布で、丁寧に包み直した。
鞄の上の段に、もう一度、納めた。
机の脇の小さな台の上に、宿の女将が、湯のみと、水差しを置いてくれていた。
私はそこに歩いていき、湯のみに、わずかに白湯を注ぎ、ひと口、飲んだ。
五年ぶりに、夫からの手紙を読まないことを、自分で選んだ夜の、白湯の味だった。
特別に美味しくも、まずくもなかった。ふだんの湯と、変わらない味だった。
私は寝台に上がり、肩まで、毛布を引き上げた。
天井の梁が、蝋燭の灯りの中で、低く、影を伸ばしていた。
——母さま。
——明日、私は、国境を越えます。
私は、声に出さずに、もう一度、母に報告した。
そして、目を閉じた。
眠りは、思ったよりも、早く、私のところへ来てくれた。




