第14話 最後の振り返り
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。
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一台は、藍に銀の月桂樹を描いた、アルメリア帝国学術院の馬車。
もう一台は、薬務官ハインリヒが連れてきた、王宮の小さな御者馬車。私の旅程のための備えだった。
私は鞄をひとつだけ手に提げて、玄関広間に立っていた。
外套の下には、地味なねずみ色の旅装。髪は低く結い、装飾はなにもつけていない。婚姻の指輪は、昨夜のうちに、机の引き出しに残した。
——奥様。
玄関の三段の階段を下りる前に、クラウスが私の半歩横に立った。
「お元気で、いらしてくださいませ」
そう言ってから、彼は深く頭を下げた。
深く下げた頭は、いつもよりも、ほんの少しだけ、時間をかけて、戻ってきた。
「クラウス」
私はその名前を、五年で二度目に、声に出した。
「長らく、お世話になりました」
クラウスは、頭を上げた。
五年間、私は彼の目を、まともに見たことがあまりなかった。家令と奥様の関係は、視線を交わさないことの上に成り立っていた。
いま、初めて、私は彼の目を、まっすぐに見た。
青みがかった、灰色の瞳だった。瞳のなかには、五年分の、彼が黙って蓄えてきたものが、静かに沈んでいた。
「——奥様」
クラウスはそう言ってから、わずかに、声を整えた。
ほんの一瞬、彼の声に、震えが滲んだ。
「もしも、お書きになるものがございましたら……、王宮の薬務官様経由で、私にも、届きますように、手筈を、整えてございます」
私は、目を伏せた。
それは、表に出すべきでない感情を、見られないためだった。
「——ありがとう」
短く、私はそう返した。
そして、それで、別れの言葉のすべてを使い切った。
エルンストは、玄関には出てこなかった。
義妹のイザベラも、義母も、出てこなかった。
社交界に「夫人は病で実家に戻った」と説明するためには、表門で見送ってはならない、というのが、彼らの選んだ脚本だった。
それでよかった。私もまた、別れの台詞を、彼らに対して用意していなかった。
玄関の三段を、私は静かに下りた。
表門に向かう短い砂利道は、霜で薄く白かった。砂利の音だけが、私の足元から立ちのぼった。
馬車の脇に、アルメリアの使者が立ち、扉を開けて待っていた。
昨日と同じ、若い学者。きょうは襟に、金の月桂樹に加えて、小さな紫の絹紐がついていた。長旅の案内人としての印、と、彼は短く説明した。
「奥様、お足元にお気を、お付けくださいませ」
私は鞄を、自分の手で先に馬車に入れた。
鞄の中の母の蒸留器を、ほかの誰にも触らせたくなかった。
それから、外套の裾を整えて、馬車に乗り込んだ。
座席に腰を下ろし、扉が閉じられる、その瞬間、私はもう一度だけ、屋敷の方を振り返った。
——一度だけ、と決めていた。
玄関の前で、クラウスが、深く頭を下げたまま、まだ立っていた。
彼は私を見送るために、ずっとあの位置にいるのだろう、と、私は思った。
そして、玄関のすぐ上、二階の窓——
調香室の窓のカーテンが、わずかに、揺れていた。
昨夜、私はあの部屋を出るときに、カーテンをきちんと閉めて、鍵をかけた。鍵はクラウスに渡した。だから、いま、あの窓のカーテンを揺らしている人が、もしいるとすれば、それはたぶん、クラウスだった。
あるいは、誰もいないのかもしれなかった。冬の朝の風が、サッシの隙間から入り込んで、カーテンの裾を持ち上げているだけかもしれなかった。
どちらでもよかった。
私はそのカーテンの揺れを、しばらく、目に焼き付けてから、ゆっくりと、馬車の扉の方へ向き直った。
——もう、振り返らない。
馬車が動き出した。
最初の数歩は、馬の足音と砂利のきしむ音だけが、規則的に響いた。
やがて、車輪が街道の本道に乗ると、音は揺れと共に、長く伸びた。屋敷の塀が、視界の隅で、後ろへと流れていく。
私は窓の外を、しばらく見つめていた。
冬枯れの並木が、規則的に、流れていく。
五年間、私はこの並木を、馬車の窓から、いったい何度、外側から、内側から、眺めただろう。
そのどれよりも、今朝の並木は、白くて、軽かった。
しばらくして、私は膝の上の鞄から、封のされた手紙を取り出した。
昨夜、書き上げた、師への手紙。封蝋にはエヴァースハイム伯爵家の紋章が押してある。
私はその封を、いったん、ペンナイフでそっと割った。
封の中の便箋を取り出し、机のかわりに、ひざの上で開き直す。
最後の一文に、私は線を引いた。
そして、続きを書き加えた。
——マイヤー師。
——昨夜、お知らせした手紙の続きにございます。
——私は、隣国へ、参ります。
——あなたに教えていただいたことを、別の場所で、続けます。
書き終えてから、私はその新しい一文を、しばらく、見つめていた。
「あなたに教えていただいたことを、別の場所で、続けます」。
それは、誓いではなかった。
ただの報告だった。
けれど、いまの私には、その報告が、何よりも大切な一文に思えた。
私の手は、まだ動く。動かす場所が、変わるだけだ。教えてくださったことは、変わらない。
私はもう一度、便箋を四つに折り、封筒に納め、新しい蝋燭代わりに、馬車の小さな手付き蝋の塊を温めて、封蝋を押し直した。
エヴァースハイムの紋章。月の下に立つ、一本の葦。
昨夜のものよりも、ほんの少しだけ、深く押した。
封筒を、私は再び鞄の内側にしまった。
ハインリヒの言葉どおりなら、この手紙は、今夜の宿で、王宮の早馬に託せる。師のもとへは、私が国境に着く頃には、もう届いているだろう。
馬車の窓に、私はもう一度、目を向けた。
ヴァインフェルト領の境界を示す、古い石柱が、視界に入ってきた。
苔の色が、五年前、嫁いできた朝に見たものと、変わっていなかった。
——ヴァインフェルト領。
その四文字を、私は心のなかで、最後に一度だけ、丁寧に発音した。
それから、唇のかたちを変えて、別の音を、声に出さずに発した。
——アルメリア帝国。
馬車は、街道を、東へと進んでいた。




