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「夫人の手遊びだろう」と離縁された王宮御用達調香師は、翌朝隣国に招かれました  作者: ヲワ・おわり


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14/51

第14話 最後の振り返り

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、07:10/12:10/18:10/20:10/22:10に更新します。

続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと下部の☆☆☆☆☆から評価で応援していただけると励みになります。

一台は、藍に銀の月桂樹を描いた、アルメリア帝国学術院の馬車。

もう一台は、薬務官ハインリヒが連れてきた、王宮の小さな御者馬車。私の旅程のための備えだった。


私は鞄をひとつだけ手に提げて、玄関広間に立っていた。

外套の下には、地味なねずみ色の旅装。髪は低く結い、装飾はなにもつけていない。婚姻の指輪は、昨夜のうちに、机の引き出しに残した。


——奥様。


玄関の三段の階段を下りる前に、クラウスが私の半歩横に立った。


「お元気で、いらしてくださいませ」


そう言ってから、彼は深く頭を下げた。

深く下げた頭は、いつもよりも、ほんの少しだけ、時間をかけて、戻ってきた。


「クラウス」


私はその名前を、五年で二度目に、声に出した。


「長らく、お世話になりました」


クラウスは、頭を上げた。

五年間、私は彼の目を、まともに見たことがあまりなかった。家令と奥様の関係は、視線を交わさないことの上に成り立っていた。

いま、初めて、私は彼の目を、まっすぐに見た。

青みがかった、灰色の瞳だった。瞳のなかには、五年分の、彼が黙って蓄えてきたものが、静かに沈んでいた。


「——奥様」


クラウスはそう言ってから、わずかに、声を整えた。

ほんの一瞬、彼の声に、震えが滲んだ。


「もしも、お書きになるものがございましたら……、王宮の薬務官様経由で、私にも、届きますように、手筈を、整えてございます」


私は、目を伏せた。

それは、表に出すべきでない感情を、見られないためだった。


「——ありがとう」


短く、私はそう返した。


そして、それで、別れの言葉のすべてを使い切った。


エルンストは、玄関には出てこなかった。

義妹のイザベラも、義母も、出てこなかった。

社交界に「夫人は病で実家に戻った」と説明するためには、表門で見送ってはならない、というのが、彼らの選んだ脚本だった。

それでよかった。私もまた、別れの台詞を、彼らに対して用意していなかった。


玄関の三段を、私は静かに下りた。

表門に向かう短い砂利道は、霜で薄く白かった。砂利の音だけが、私の足元から立ちのぼった。


馬車の脇に、アルメリアの使者が立ち、扉を開けて待っていた。

昨日と同じ、若い学者。きょうは襟に、金の月桂樹に加えて、小さな紫の絹紐がついていた。長旅の案内人としての印、と、彼は短く説明した。


「奥様、お足元にお気を、お付けくださいませ」


私は鞄を、自分の手で先に馬車に入れた。

鞄の中の母の蒸留器を、ほかの誰にも触らせたくなかった。

それから、外套の裾を整えて、馬車に乗り込んだ。


座席に腰を下ろし、扉が閉じられる、その瞬間、私はもう一度だけ、屋敷の方を振り返った。


——一度だけ、と決めていた。


玄関の前で、クラウスが、深く頭を下げたまま、まだ立っていた。

彼は私を見送るために、ずっとあの位置にいるのだろう、と、私は思った。


そして、玄関のすぐ上、二階の窓——


調香室の窓のカーテンが、わずかに、揺れていた。

昨夜、私はあの部屋を出るときに、カーテンをきちんと閉めて、鍵をかけた。鍵はクラウスに渡した。だから、いま、あの窓のカーテンを揺らしている人が、もしいるとすれば、それはたぶん、クラウスだった。

あるいは、誰もいないのかもしれなかった。冬の朝の風が、サッシの隙間から入り込んで、カーテンの裾を持ち上げているだけかもしれなかった。


どちらでもよかった。

私はそのカーテンの揺れを、しばらく、目に焼き付けてから、ゆっくりと、馬車の扉の方へ向き直った。


——もう、振り返らない。


馬車が動き出した。


最初の数歩は、馬の足音と砂利のきしむ音だけが、規則的に響いた。

やがて、車輪が街道の本道に乗ると、音は揺れと共に、長く伸びた。屋敷の塀が、視界の隅で、後ろへと流れていく。


私は窓の外を、しばらく見つめていた。

冬枯れの並木が、規則的に、流れていく。

五年間、私はこの並木を、馬車の窓から、いったい何度、外側から、内側から、眺めただろう。

そのどれよりも、今朝の並木は、白くて、軽かった。


しばらくして、私は膝の上の鞄から、封のされた手紙を取り出した。

昨夜、書き上げた、師への手紙。封蝋にはエヴァースハイム伯爵家の紋章が押してある。


私はその封を、いったん、ペンナイフでそっと割った。

封の中の便箋を取り出し、机のかわりに、ひざの上で開き直す。


最後の一文に、私は線を引いた。

そして、続きを書き加えた。


——マイヤー師。

——昨夜、お知らせした手紙の続きにございます。

——私は、隣国へ、参ります。

——あなたに教えていただいたことを、別の場所で、続けます。


書き終えてから、私はその新しい一文を、しばらく、見つめていた。


「あなたに教えていただいたことを、別の場所で、続けます」。


それは、誓いではなかった。

ただの報告だった。

けれど、いまの私には、その報告が、何よりも大切な一文に思えた。

私の手は、まだ動く。動かす場所が、変わるだけだ。教えてくださったことは、変わらない。


私はもう一度、便箋を四つに折り、封筒に納め、新しい蝋燭代わりに、馬車の小さな手付き蝋の塊を温めて、封蝋を押し直した。

エヴァースハイムの紋章。月の下に立つ、一本の葦。

昨夜のものよりも、ほんの少しだけ、深く押した。


封筒を、私は再び鞄の内側にしまった。

ハインリヒの言葉どおりなら、この手紙は、今夜の宿で、王宮の早馬に託せる。師のもとへは、私が国境に着く頃には、もう届いているだろう。


馬車の窓に、私はもう一度、目を向けた。

ヴァインフェルト領の境界を示す、古い石柱が、視界に入ってきた。

苔の色が、五年前、嫁いできた朝に見たものと、変わっていなかった。


——ヴァインフェルト領。


その四文字を、私は心のなかで、最後に一度だけ、丁寧に発音した。

それから、唇のかたちを変えて、別の音を、声に出さずに発した。


——アルメリア帝国。


馬車は、街道を、東へと進んでいた。

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