第13話 見ていた人
本作は全70話で完結予定です。
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応接間の扉が、クラウスの手で、静かに閉じられた。
長椅子に座ったままの私と、その斜め後ろに立つハインリヒだけが、部屋に残った。エルンストはいつのまにか、応接間を出ていたらしかった。彼が出ていく音を、私は気づかなかった。
「——奥様」
ハインリヒは、静かに、もう一度、私の前に半歩進んできた。
「申し上げたいことが、ございます」
「——お聞きします」
私はそう答えて、長椅子の上で姿勢を整えた。
心の準備は、まだ十分ではなかった。けれど、これ以上、私が応接間で動揺の余韻に浸る時間も、許されていない気がした。
ハインリヒは目を伏せ、しばらく言葉を選んでいた。
それから、ゆっくりと、顔を上げた。
「**この五年間、私は、奥様の調香結果を、王宮の公式記録とは別に、アルメリア帝国学術院に、共有してまいりました**」
応接間の空気が、ぴたりと、止まった。
「最初は、香気識別の学術的価値を、国を越えて、記録に残すべきと判断したからでございます。許可なく行ったことを、**深く、お詫び申し上げます**」
ハインリヒは、深く頭を下げた。
それは、薬務官としての公式の礼ではなかった。私的な、もっと深いところからの、礼だった。
五年間、彼の灰色の上衣の下で、彼はずっと、私にこの一礼を、いつかしなければと決めていたのだろう、ということが、伝わってきた。
私はしばらく、声を出せなかった。
出さなかった、と言うほうが、正確かもしれない。
ハインリヒの言葉を、まず、自分の中に通すための時間が、必要だった。
——五年間。
その四音が、応接間の空気のなかで、何度も繰り返された。
五年間、私は、誰にも見られていないと思っていた。
夫にも、義妹にも、義母にも、社交界の貴婦人たちにも、私の調香室の仕事は、ただ「お遊び」として処理されていた。私自身は、それでいいと、自分に言い聞かせていた。香りは、見られなくても、ちゃんと存在する。私の手は、誰にも認められなくても、動く。
そう、自分を支えるために、繰り返してきた言葉だった。
その五年間、ずっと、見ていた人がいた。
「……あなたは、独断で?」
私はようやく、声を出した。
声は、自分でも気づくほど、低かった。
ハインリヒは、わずかに頭を上げて、答えた。
「いえ。当時の王宮の薬務長——故人でございますが、その方の、口頭での了承を、得ておりました」
「——書類は?」
「ございません」
ハインリヒはそう答えてから、わずかに目を細めた。
「書類を残せば、ご存じのとおり、社交界に流れる恐れがございました。奥様のお仕事が政治的に利用されることを、防がねばならぬと、薬務長と共に判断いたしました」
——薬務長。
王宮の薬務長は、五年前の冬に、流行り病で亡くなった。私自身、王宮で何度か挨拶を交わした方だった。寡黙で、誠実で、誰にも好かれていた。亡くなったとき、薬務塔の半分が、機能を失った、と言われていた。
その方が、ハインリヒと一緒に、五年間、私の調香結果を、海の向こうに送り続けていた。
私の指先が、わずかに、震えた。
震えるべき理由が、自分でもうまく整理できなかった。
怒っているのでもない。悲しいのでもない。喜んでいる、というのも、たぶん、まだ違う。
ただ、五年間の自分の認識が、いま、ぐらりと、底からひっくり返っていた。
「**奥様の調香記録は、アルメリア学術院で、すでに五年間、学術論文の形で、読まれております**」
ハインリヒの声は、低く、けれど、はっきりと続いた。
「今回の招聘は、一年前から、レフナール調香学府を中心に、準備されておりました。離縁という事象は、結果として準備の最終段階と重なりましたが、招聘そのものは、奥様のご離縁を待っていたわけではございません」
——一年前。
その一年前、私は、相変わらず、屋敷の調香室で「お遊び」を続けていた。
夫から「手遊びはやめろ」と何度も言われ、義妹から「お遊び部屋」と呼ばれ、社交界では「地味な侯爵夫人」と扱われていた。
その同じ時期に、海の向こうの帝都で、誰かが、私の名前で、私の招聘の段取りを、始めていた。
——私の仕事を、見ていた人がいた。
応接間の絨毯の柄を、私はぼんやりと見つめていた。
柄の青い唐草が、ふしぎとまっすぐな線で、私の足元から、扉の方へ伸びていた。
——見ていた人がいた。
——五年間、見ていた人がいた。
その繰り返しが、私の中で、ようやく、輪郭を持ち始めた。
不思議と、嬉しさよりも先に、薄い恥ずかしさが、来た。
誰にも見られていないつもりで、ずっと、自分の調香室の中で、私は私自身を、抱えていた。誰にも見られていないと信じていたあの私の姿を、海の向こうの誰かが、ずっと見ていた。それは、ありがたいことなのに、なぜか、わずかに、すこしだけ、こそばゆかった。
「——奥様」
ハインリヒが、もう一度、深く頭を下げた。
「私の独断を、お責めいただいて、構いません。ご処分も、お受けいたします」
私はしばらく、答えなかった。
答えるためには、もう少し、自分の中の感情を、整理する時間が必要だった。
「——……ありがとう、ハインリヒ殿」
私は、ようやく、そう短く返した。
責める言葉は、出なかった。
出るはずもなかった。
五年間、私の手を見続けてくれた人を、責められるほどの厚かましさは、私の中にはなかった。
ハインリヒは頭を上げ、わずかに、目だけで、私に微笑んだ。
笑ったのは、五年間の付き合いの中で、初めてだった。
「奥様のご出立まで、王宮側の手配は、私が整えさせていただきます」
そう言って、彼はもう一度、深く一礼し、応接間の扉に向かった。
扉を開けた瞬間、廊下の冷気が、応接間に流れ込んできた。
ハインリヒは扉の前で、振り返って、もう一度、低く言った。
「——奥様。
よろしければ、ご出立の刻まで、もうしばらく、お休みくださいませ」
私は、頷いた。
頷きながら、自分の指先が、まだ、わずかに震えているのを、感じていた。
扉が閉まる。
応接間に、私一人になった。
足元の鞄を、私はゆっくりと見下ろした。
布で包まれた、母の蒸留器。ハンカチに包まれた、自作の香水「始まり」。
それから、机の上に置きかけて、まだ届けていない、師への手紙。
私は深く、息を吐いた。
それから、立ち上がり、応接間の扉を出て、玄関広間の方へ、ゆっくりと歩き始めた。
クラウスに、最後の挨拶を、しなければならなかった。




