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金曜日のルージュはバッグの奥に  作者: 久遠 睦


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6/10

第六章 火曜日の特売とカゴの中身

そのしおりは、私の定期入れの中に収まっていた。

通勤のバスの中、レジ打ちの休憩中、ふとした瞬間に指先でその革の感触を確かめる。使い込まれて角が丸くなった飴色の革。裏側に書かれた『安心して歩き回ってください』という文字は、私の指の脂で滲んで消えてしまいそうだから、もうあまり直視しないようにしている。

ただ、そこにあるという事実だけで、私の心臓は一定のリズムを保つことができた。

週の半ば、火曜日。

この日は近所のスーパー「ライフ・マート」の特売日だ。冷凍食品が四割引き、野菜のバラ売りが開催される、主婦にとっては戦場のような一日である。

十九時半。

パン屋のバイトを終えた私は、その足でスーパーへと滑り込んだ。

今日の私は、酷い格好をしている自覚があった。

朝から降り続く小雨のせいで髪は爆発し、それを隠すようにゴムでひっつめている。化粧は崩れかけ、眼鏡は少し曇っている。図書館に行く金曜日とは真逆の、「なりふり構わないオカン」の姿だ。

でも、ここには牧村さんはいない。

誰に見られるわけでもない。私はカゴを片手に、鋭い目つきで棚をスキャンし始めた。

愛梨の夜食用の冷凍パスタ、特売のキャベツ、そして牛乳。

カゴがずっしりと重くなる。

精肉コーナーの前で足を止めた。 「豚バラ、グラム九十八円か……」

悪くない。でも、奥にある「半額」の黄色いシールが貼られたパックに目が吸い寄せられる。賞味期限は今日まで。今夜下味をつけて冷凍すれば問題ない。

私は迷わず半額シールの貼られたパックに手を伸ばした。

その時だ。

隣から伸びてきた男の人の手が、同じパックの近くにある鶏肉を掴んだ。

袖口から覗く、ゴツゴツとした腕時計。

見覚えがあった。

手にしたカゴがわずかに傾く。

恐る恐る顔を上げると、そこには見慣れないジャージ姿に、無精髭を生やした牧村さんがいた。

「あ」

彼が私に気づく。

私は反射的に、半額シールの貼られた豚肉を背中に隠そうとした。

よりによって、こんな場所で。こんな姿で。しかも半額肉を鷲掴みにしている瞬間に。

穴があったら入りたいというのは、まさにこのことだ。金曜日の夜にルージュを引いて澄ましている私と、百円をケチって血眼になっている私。その落差を見られたくなかった。

「……宮本さん、ですよね?」

彼もまた、少しバツが悪そうだった。

いつものパリッとしたシャツ姿ではない。首元がヨレたグレーのトレーナーに、コンビニに行くようなサンダル履き。

それがまた、妙に生活臭くて、私の胸をざわつかせた。 「は、はい。こんばんは……奇遇ですね」 「ええ。火曜日は安いんで」

彼は平然と言った。

私の隠した手元を見て、彼はふっと目を細めた。 「それ、豚肉? いいの見つけましたね。僕が狙ってたやつだ」 「えっ……」 「半額シール、大事ですよ。僕もこれ、狙ってましたから」

彼が掲げた鶏肉のパックにも、鮮やかな黄色の半額シールが貼られていた。

私は力が抜けて、隠していた豚肉を前に出した。 「……生活、ですからね」 「そうです。生きるためには、賢くないと」

彼はニッと笑った。

幻滅されなかった。むしろ、「同志」としての親近感を抱いてくれているようだった。

「お買い物、それだけですか?」

私が尋ねると、彼はカゴの中身を見せてくれた。

半額の鶏肉、缶ビール二本、そして大量のキャットフードの缶詰。 「猫のご飯が切れてしまって。あいつ、好みがうるさいんですよ。このメーカーのマグロ味じゃないと食べない」 「猫ちゃん……お名前は?」

自然と会話が弾む。スーパーの精肉売り場という、全くロマンチックではない場所なのに、私の心は図書館にいる時よりも高鳴っていた。 「『ネジ』です」 「え?」 「大工道具のネジです。拾った時、尻尾がネジみたいにクリッと曲がってたから」 「ネジちゃん……ふふ、牧村さんらしいですね」

修理屋の猫がネジ。

その飾り気のないネーミングセンスが、たまらなく愛おしい。

レジを済ませ、私たちはサッカー台(袋詰めをする台)で隣同士になった。

私は手慣れた手つきで商品をエコバッグに詰めていく。彼は不器用そうに、ビールと猫缶をビニール袋に入れている。 「手際がいいですね」

彼が感心したように言った。 「主婦歴が長いですから。テトリスみたいに詰めるのがコツなんです」 「なるほど。テトリスか。……宮本さんは、やっぱりすごいな」

彼がボソッと言った。 「え?」 「いや、仕事して、家事して、こうやって買い物して。僕は自分のことと猫のことだけで手一杯なのに、あなたは娘さんの分まで背負って、笑ってる」

彼の視線が、私の重そうなエコバッグに注がれる。 「すごいですよ、本当に」

鼻の奥がツンとした。

この重いエコバッグは、私の生活の重さそのものだ。誰にも褒められない、当たり前の日常。それを、この人は「すごい」と言ってくれる。 「……必死なだけです。あ、あの!」

私は慌てて、ポケットから定期入れを取り出した。 「これ、栞……お返ししなきゃと思って」

定期入れのポケットから、あの革の栞を半分ほど引き出す。

彼は手を振って遮った。 「いいんです。本、まだ読み終わってないでしょう?」 「はい、まだ半分くらいですけど……」 「なら、持っていてください。その栞、その本に挟まれてるのが一番落ち着くみたいだから」

彼は優しい目で私を見た。 「それに、まだ『安心』が必要かもしれないし」

私の指先が止まる。

彼は気づいている。私がまだ、強がって立っているだけだということを。 「……ありがとうございます。じゃあ、読み終わるまで、お借りします」 「ええ。ゆっくり読んでください」

レジへ向かう途中、私は一度だけ牧村さんのカゴを見た。食パン、卵、インスタントコーヒー、缶詰。野菜は長ねぎ一本と、半分に切られた大根だけだった。

「自炊、されるんですね」

「一応。でも、切って煮るだけです。見栄を張れる献立じゃない」

彼はカゴの中身を隠すように長ねぎを横へ倒した。その仕草が可笑しくて、私は笑った。

私のカゴには、特売の鶏むね肉、愛梨の冷凍パスタ、見切り品のほうれん草、トイレットペーパー。ルージュを塗って会う金曜日には見せない生活が、透明なカゴの中で丸見えだった。

「宮本さんの方が、ちゃんと暮らしてる」

「娘がいるからです。一人なら、私も似たようなものですよ」

「一人になると、一人分を作るのが難しいんです。鍋を作ると三日続く」

牧村さんは少し困ったように笑った。その言葉から、誰も待っていない食卓が浮かんだ。図書館や工房で見る彼にも、閉店後の時間がある。当たり前のことなのに、私は初めて彼の夜を想像した。

レジの列は長かった。私たちは前後に並び、特売品の山を少しずつ進んだ。途中で幼い子どもが走り抜け、牧村さんのカゴにぶつかった。卵のパックが傾き、彼が慌てて受け止める。

「危なかった」

「職人さんでも、卵は直せませんものね」

私が言うと、彼は真顔で「接着はできますが、食べられなくなります」と答えた。冗談なのか本気なのかわからず、二人で顔を見合わせて笑った。

会計を終えると、外の雨は少し強くなっていた。牧村さんは私の重い袋を見て、「駅まで持ちます」と手を伸ばした。

「大丈夫です。いつも持ってますから」

「いつも持っていることと、今日も一人で持つことは別でしょう」

一瞬、胸に響いた。けれど私は、袋を全部渡すのではなく、トイレットペーパーだけを差し出した。

「では、軽い方をお願いします」

「普通は重い方を頼むんじゃないですか」

「初めから全部お願いしたら、次に頼る練習ができません」

自分で口にして、少し驚いた。離婚後の私は、助けを求めることを負けのように感じていた。けれど、支えてもらう量を自分で選ぶこともできるのだ。

屋根のある通路を並んで歩いた。私は鶏肉の袋を持ち、彼はトイレットペーパーを抱えている。恋愛映画には決して映らない格好だったが、私は図書館で向かい合う時より落ち着いていた。

駅前で袋を返してもらうと、牧村さんが言った。

「大根、余ったら薄く切って冷凍するといいですよ。味噌汁ならそのまま使える」

「詳しいんですね」

「三日続く鍋から学びました」

電車に乗ったあと、私はスマートフォンのメモに「大根、薄切りで冷凍」と入力した。彼と交わしたのは、愛の言葉ではなく保存方法の話だ。それでも、彼の暮らしと私の暮らしの端が、ほんの少し触れた気がした。

家に帰り、愛梨へ今日の出来事を話そうとしてやめた。まだ、名前を出すには早い。代わりに大根の半分を薄く切り、保存袋へ入れた。

「ママ、何してるの?」

「一人暮らしの知恵を教わったの」

「誰に?」

「そのうちね」

愛梨は怪しそうに目を細めたが、追及しなかった。冷凍庫へ収めた大根の白い薄片を見て、私は次の味噌汁を少し楽しみに思った。

次の火曜日、私は冷凍しておいた大根を味噌汁へ入れた。愛梨は一口飲み、「今日の大根、味が染みてる」と言った。

「冷凍したからよ」

「そんなことするようになったんだ」

「教えてもらったの」

愛梨は箸を止めた。

「その人、一人暮らし?」

「そうみたい」

「じゃあ、ママがご飯作ってあげたりするの?」

「まだ、そんな関係じゃないわよ」

否定しながら、誰かのために二人分の献立を考える光景が浮かんだ。けれど、すぐには近づかない。その晩は愛梨と二人で味噌汁を飲み、冷凍庫に残る大根の量を確かめた。

食後、私はスーパーのレシートを家計簿へ貼った。特売品ばかりの細い紙の中に、牧村さんと過ごした数分間は記録されていない。それでも、卵を守ろうとした彼の慌てた手や、トイレットペーパーを抱えた姿は、今日の暮らしの一部になっていた。

生活を見せることは、華やかな自分を見せることより怖い。節約も疲れも、娘への小言も隠せないからだ。けれど、もし誰かと長く歩くなら、金曜日の顔だけでは足りない。火曜日のカゴの中身を互いに知るところから始まるのかもしれなかった。

愛梨は味噌汁を飲み終えると、自分の椀を洗った。私はその背中を見ながら、二人でいる時間にも、いつか一人になる時間にも、それぞれの味があるのだと思った。

翌朝、冷凍庫を開けると、薄切りの大根が袋の中で白く重なっていた。ほんの数分の会話が、翌日の台所へ残っている。そのささやかさを、私は好ましいと思った。

レシートの裏へ、私は教わった保存方法を書いた。紙はすぐ色褪せるだろう。それでも、暮らしの中で役に立った言葉は、記憶だけに任せず残しておきたかった。

スーパーの自動ドアを出ると、雨は止んでいた。

濡れたアスファルトに、街灯が反射している。 「じゃあ、僕はこっちなんで」

彼は反対方向を指した。 「はい。お引き止めしてすみません。……ネジちゃんによろしく」 「伝えておきます。気をつけて」

彼は片手を軽く上げ、サンダル履きの音をペタペタと響かせて歩き出した。

その背中は、図書館で見るよりも少し丸く、生活感に溢れていた。

でも、今の私には、その背中が何よりも愛おしく思えた。

重たいエコバッグを肩にかけ直す。

食い込むベルトの痛みすら、今は心地よい。

火曜日の特売。髪はボサボサ。半額の肉。

そんな現実のど真ん中で、私たちは会った。

夢のような王子様ではない。生活を背負った、等身大の中年男性。

それが私の好きになった人だ。

帰り道、私は自転車のペダルを漕ぎながら、空を見上げた。

雲の切れ間から、欠けた月が見えた。

不完全で、少し歪な月。

まるで私たちみたいだ。

家に帰ったら、半額の豚肉で美味しい野菜炒めを作ろう。

そして、栞を挟んだページの続きを読もう。

家に着くと、リビングの明かりがついていた。 「ただいまー」 「おかえりママ。遅かったね」

愛梨が教科書を広げたまま顔を上げた。 「うん、スーパー混んでて。愛梨、今日のご飯、野菜炒めでいい?」 「いいよ。あ、私、手伝おうか?」

思いがけない言葉に、私は驚いて娘を見た。

愛梨は少し照れくさそうに鼻をかいた。 「息抜きしたいだけだし。キャベツ切るくらいならできるよ」 「……ありがとう。助かるわ」

キッチンに並んで立つ。

娘が包丁を使う音と、私がフライパンを熱する音。

日常の音。

その隙間に、牧村さんの「すごいですよ」という声が響く。

私の日常は、誰かが見ていてくれる。

それだけで、こんなにも強くなれる。

バッグの奥のルージュは出番がなかったけれど、今日の私は、素顔のままでも少しだけ綺麗になれた気がした。


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