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金曜日のルージュはバッグの奥に  作者: 久遠 睦


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第二部:つぎはぎの心と栞(しおり)の行方    第五章 模試の結果と借りた一冊

一週間という時間は、時に残酷なほど長く、時に瞬きする間に過ぎ去る。

先週の金曜日、牧村さんの工房でヒールを直してもらった時の高揚感は、週明けの月曜日に娘が持ち帰った一枚の紙切れによって、脆くも崩れ去った。

「E判定……」

ダイニングテーブルの上に投げ出された模試の結果通知表。志望校の欄には、無情なアルファベットが刻印されている。

愛梨は部屋に閉じこもってしまった。夕食のハンバーグには手を付けず、ドア越しに「いらない」という低い声だけが聞こえた。

私は通知表を見つめたまま、動けずにいた。

英語と国語は悪くない。けれど、数学が壊滅的だった。 「あんなに頑張っていたのに」

呟いた言葉は、誰に向けたものだろう。愛梨への慰めか、それとも、娘が苦しんでいる時に自分の恋に浮かれていた私自身への戒めか。

先週の私は、確かに浮ついていた。

新しいヒールの音に心を躍らせ、鏡を見るたびに牧村さんの「第二章」という言葉を反芻しては、頬を緩ませていた。

母親が恋なんてしているからだ。

理不尽な思考だとわかっていても、罪悪感が胸の奥で黒い染みのように広がっていく。娘が人生の岐路で戦っている時に、母親が男の人のことで頭を一杯にしているなんて。

その週は、家の中が重苦しい空気に包まれた。

愛梨は塾から帰っても口数が少なく、常にイライラしていた。私が気を遣って紅茶を淹れても、「いま集中してるから!」と冷たくあしらわれる。

私は息を潜めるようにして生活した。

洗い物の音を立てないように。テレビの音量を下げるように。

そして、自分の心のときめきを封印するように。

そして、金曜日が来た。

空は高く晴れ渡っていたけれど、私の心は曇天だった。

朝、愛梨は「行ってきます」と小さな声で言い、私の顔を見ずに出て行った。

こんな状態で、図書館に行っていいのだろうか。

母親としての責務を果たすなら、早く帰って愛梨の好物でも作り、彼女が帰ってくるのを待つべきではないのか。

パン屋での仕事を終え、更衣室で私服に着替える。

鏡を見る。

疲れと心労で、肌がくすんでいる。

バッグの奥底からルージュを取り出す。キャップを開ける。

艶やかなローズピンク。

けれど、それを唇に乗せる気になれなかった。

今の私には、この色はあまりに鮮やかすぎて、嘘くさく見えた。 「……やめよう」

私はルージュをそのままポーチに戻した。

今日は、ただ本を返しに行くだけ。牧村さんに会ったとしても、会釈だけしてすぐに帰ろう。

そう決めて、私は図書館への道を歩き出した。

図書館はいつもの静寂に包まれていた。

十九時。

閲覧室に入ると、すぐに彼が見つかった。

いつものソファ席。今日は薄いベージュのニットを着て、やはり分厚い本を読んでいる。

彼の姿を見た瞬間、封印したはずの心が、勝手に反応して熱を持つ。

会いたかった。

その事実に抗えず、私は足がすくむ。

でも、今日は近づいてはいけない気がした。今の私は、彼に見合うような「ときめく女性」ではない。「疲れ切った母親」だ。

私は彼から死角になる書架の影で、本を選んでいるふりをした。

借りていた本を返却ポストに入れるだけで帰るつもりだったのに、どうしても彼の背中を一目見たくて、閲覧室まで来てしまった自分の弱さが嫌になる。

「……宮本さん?」

背後から声をかけられ、私は思わず肩が跳ねた。

ビクッと肩を跳ねさせて振り返ると、そこには牧村さんが立っていた。手には数冊の本を抱えている。 「あ……牧村、さん」 「やっぱり。背中でわかりました」

彼は少し安堵したように微笑んだ。

その笑顔を見たら、張り詰めていた糸がプツリと切れそうになった。 「こんばんは。……今日はいらっしゃらないかと」 「え?」 「いや、なんとなく。いつもより気配が薄かったから」

彼は私の顔をじっと覗き込んだ。眼鏡の奥の瞳が、鋭く、けれど優しく私をスキャンする。 「元気、ないですね」

不意を突かれた。

ルージュを引いていないからだろうか。それとも、私の全身から負のオーラが滲み出ているのだろうか。 「わかりますか……」 「わかりますよ。修理屋ですから。何かが摩耗してるとか、過負荷がかかってるとか、そういうのは目につくんです」

独特の言い回しに、ふっと力が抜けて、小さな笑みがこぼれた。 「そうですか。……ちょっと、色々あって」 「娘さん?」

図星だった。

私が驚いた顔をすると、彼は「やっぱり」と小さく頷いた。 「この時期の受験生の親御さんは、みんなそんな顔をしてます。僕の店の常連さんも、最近ため息ばかりついてますから」

彼は抱えていた本の中から、一冊を抜き出した。

古びた装丁の、薄いハードカバーの本だった。 「これ、読みました?」

差し出された表紙を見る。海外の女性エッセイストが書いた、『台所の哲学者』というタイトルの古い本だった。 「いえ、初めて見ます」 「もしよかったら、読んでみてください。カーヴァーのような切れ味はないけど、スープみたいに温かい本です。疲れている時には、よく効きます」

図書館の本だ。彼の私物ではない。

けれど、彼が私のために選んでくれたという事実が、どんなプレゼントよりも嬉しかった。 「……ありがとうございます。借りてみます」

私は震える手でその本を受け取った。

彼の指先が、ほんの一瞬、私の指に触れた。

温かかった。

冷え切っていた私の指先に、彼の体温が移る。

「親が参ってちゃ、子供はもっと不安になりますよ」

彼は本を渡したまま、低い声で言った。 「親ができることなんて、飯を作って、あとはどっしり構えて笑ってることくらいでしょう。……まあ、僕には子供がいませんから、偉そうなことは言えませんが」

その言葉は、私の胸のど真ん中に突き刺さり、そしてじんわりと溶けていった。

飯を作って、笑ってること。

そうだ。私が暗い顔をしていて、愛梨が救われるわけがない。

私がすべきなのは、自分を殺して息を潜めることじゃない。温かいご飯を作り、「大丈夫よ」と笑い飛ばしてあげることだ。

「……そうですね。本当に、その通りです」

目頭が熱くなるのを堪え、私は深く頷いた。 「ありがとうございます、牧村さん。私、この本を借りて、今日はもう帰ります」 「ええ。その方がいい。早く帰って、温かいものでも食べてください」

彼は優しく目を細めた。 「また、来週」 「はい。また」

私は彼に背を向け、カウンターへと向かった。

借りる手続きをする間も、彼が渡してくれた本の重みが、手に心地よかった。

ルージュは引いていなかった。

化粧も崩れていたかもしれない。

それでも、彼は私を見つけてくれた。そして、私が一番欲しかった言葉をくれた。

「女性」として見られること以上に、「人間」として、そして「母親」としての私を肯定してくれたことが、何よりも救いだった。

翌朝、愛梨は昨日より早く起きてきた。目の下には薄い影があり、髪は寝癖のままだったが、制服に着替えている。

「朝ご飯、いらない」と言いながら椅子へ座ったので、私は黙って小さなおにぎりを一つ皿に置いた。具は鮭。幼い頃、遠足の日には必ず選んだ味だ。

愛梨はしばらく手をつけなかった。私は食べなさいとも、学校へ行きなさいとも言わず、弁当箱へ卵焼きを詰めた。

「Eってさ」

やがて愛梨が口を開いた。

「ほとんど無理って意味だよね」

「今の時点では、合格する人より遠い位置にいるってことだと思う」

慰めようとして、曖昧にごまかすのはやめた。

「じゃあ、やっぱ無理じゃん」

「遠いのと、道がないのは違うよ」

愛梨は私を見た。私は数学の成績表を指でなぞりながら続けた。

「ただ、今までと同じやり方では届かないかもしれない。先生に相談する? 志望校を変えるためじゃなくて、何を変えるか聞くために」

少しの沈黙のあと、愛梨はおにぎりを持ち上げた。

「今日、佐久間先生じゃなくて、数学の先生に聞いてみる」

それは小さな返事だったが、昨日閉じた扉が数センチ開いたように感じた。

仕事中も、私は何度もスマートフォンを確認した。連絡はなかった。愛梨の問題は愛梨の時間で進む。わかっていても、母親の身体は先回りするように緊張してしまう。

夕方、パン屋の休憩室で、店長が新商品の試作パンを半分に切ってくれた。胡桃とクリームチーズが入った硬めのパンだった。

「娘さん、受験だっけ」

「はい。模試で厳しい判定が出てしまって」

「うちの息子も二年前、ずっとDとEを行ったり来たりしてたよ」

店長は包丁についたクリームを紙で拭いながら言った。

「親は何か言いたくなるけど、最後は本人が、どの結果なら引き受けられるかなんだよね。うちは結局、第一志望を受けて落ちた。でも後期で入った大学で、今は楽しそうにしてる」

合格へ導く美談ではなかったことが、かえって胸に残った。努力しても望んだ通りにならないことはある。その時、人生が終わらないと知っている大人がそばにいることも、支えの一つなのだ。

帰宅すると、愛梨は食卓にノートを広げていた。数学の先生に教わったという学習計画が、細かな字で書かれている。

「毎日、基礎問題を十五問。週末に間違えたところだけやり直す。次の模試まで四週間」

「続けられそう?」

「わかんない。でも、やる」

私は計画表を褒める代わりに、冷蔵庫へ貼るための磁石を渡した。

「夕飯は何がいい?」

「ハンバーグ。昨日食べなかったから」

冷蔵庫から挽肉を出す。玉ねぎを刻みながら、私は昨日の自分の罪悪感を手放そうとした。娘が苦しむ時、母親も笑ってはいけないわけではない。私が自分の楽しみを持つことと、愛梨を支えることは、同じ天秤の反対側にあるものではない。

食後、愛梨は十五問のうち八問を間違えた。悔しそうに消しゴムを動かし、それでも席を立たなかった。私は向かいで借りた本を読み、時々湯を足した。

一時間後、愛梨がノートを閉じた。

「今日はここまで。全部できなかったけど」

「うん。お疲れさま」

私たちは残ったハンバーグを小さく切り、夜食として半分ずつ食べた。結果は何も変わっていない。それでも、昨夜より部屋の空気は動いていた。

スーパーに寄り、予定になかった高価な牛肉をカゴに入れた。

今日はすき焼きにしよう。

節約も大切だけど、今日は心に栄養が必要だ。私にも、愛梨にも。

帰宅すると、家の中はまだ静まり返っていた。

私はキッチンに立ち、わざと少し大きめの音を立てて料理を始めた。

肉を焼く香ばしい匂いと、甘辛い割り下の香りが部屋に充満する。

しばらくすると、部屋のドアが開き、愛梨がのっそりと顔を出した。 「……なに、すき焼き?」

不機嫌そうな、でも少しお腹の空いたような声。 「そうよ。奮発しちゃった。E判定祝いよ」 「はあ? 嫌味?」

愛梨が目を吊り上げる。

私は振り返り、思い切りニカッと笑ってみせた。 「違うわよ。E判定なんて、これ以上落ちようがないってことでしょ? あとは上がるだけじゃない。底を打ったら、浮上するしかないんだから」

牧村さんの言葉を、私なりに翻訳してぶつける。

愛梨はポカンとして私を見ていたが、やがて鼻で笑った。 「なにそれ。ママ、変なの」 「変で結構。さあ、食べるわよ。卵といて」

鍋を囲むと、愛梨の箸が進んだ。

口の中いっぱいに肉を頬張りながら、娘が言った。 「……私、絶対受かるから」 「うん、知ってる」 「ママに高い学費払わせるんだから、覚悟しといてよ」 「望むところよ」

軽口を叩き合いながら、久しぶりに娘の笑顔を見た気がした。

その夜、布団に入ってから、私は借りてきた本を開いた。

『台所の哲学者』。

ページをめくると、ふわりと古い紙の匂いがした。

四十ページ目あたりに、見慣れないものが挟まっていた。

図書館の貸出カードではない。

革製の、小さなしおりだった。

使い込まれて飴色になった革に、小さな猫の刻印がされている。

――これは。

牧村さんの私物だ。間違えて挟んだままにしたのだろうか。

それとも。

胸元が熱くなる。

栞の裏側を見ると、ボールペンの走り書きで、小さく文字が書かれていた。

『追伸:トップリフトの交換、いつでも無料でやります。だから、安心して歩き回ってください』

文字が滲んで見えなくなった。

涙が枕に吸い込まれていく。

キザなセリフでも、愛の言葉でもない。

ただの実務的な連絡。

けれど、「安心して歩き回れ」という言葉は、今の私にとって「人生を恐れるな」というエールそのものだった。

私は栞を胸に抱きしめた。

革の匂いがした。工房の匂い。彼の匂い。

この栞を返す口実ができた。

来週の金曜日まで待てるだろうか。

いや、待とう。

この栞を、一週間だけ私のお守りにさせてほしい。

隣の部屋からは、愛梨がページをめくる音が聞こえる。

私たちはそれぞれの戦場で戦っている。

でも、私はもう孤独ではなかった。

バッグの奥のルージュと、本の隙間の革の栞。

二つの秘密が、私の夜を温かく照らしていた。



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