第三章 雨音と六十センチの距離
その金曜日は、朝から湿度が高かった。
天気予報では午後から崩れると言っていた通り、空は低い灰色に覆われ、街全体が水底に沈んだような重苦しさを漂わせていた。
「傘、持った?」
玄関で靴を履く愛梨に声をかける。 「持ったよー。折りたたみの軽いやつ。じゃあ行ってきます!」
愛梨は軽快に飛び出していく。彼女の背中には、重力なんて存在しないかのようだ。対して私は、これから始まる一日を思うだけで、足首に鉛の枷をはめられたような気分になる。
今日は二十五日。給料日直後の金曜日だ。銀行のATMは混雑し、パン屋の客足も伸びるだろう。忙しくなることは確定している。
けれど、私の胸の奥には、鉛の重さとは別の、微かな熱があった。
バッグの内ポケットを確認する。
あのルージュ。そして、先週読み終えられなかったレイモンド・カーヴァーの短編集。
それだけで、私は深呼吸ができる。
午前中の事務仕事は予想通り過酷だった。経理の締め日が近く、領収書の山と格闘し続ける四時間。昼休み、窓の外を見ると、予報通り雨が降り始めていた。アスファルトを叩く激しい雨音が、オフィスの窓ガラス越しにも聞こえてくる。 「うわ、結構降ってるなあ」
同僚の嘆きを聞きながら、私はぼんやりと別の場所を想像していた。
雨の日の図書館。
きっと、いつもより静かだろう。雨音に包まれたあの空間は、世界から切り離されたシェルターのようになる。
彼は、来るだろうか。
自営業の彼だ。雨でお客さんが少なければ、早じまいして来るかもしれない。それとも、雨漏りの修理か何かで忙しいだろうか。
会える保証なんてどこにもないのに、私は雨に濡れた街の景色の中に、あの眼鏡の奥の穏やかな瞳を探していた。
*
午後のパン屋のアルバイトが終わる頃には、雨は本降りになっていた。
店の軒先から溢れるほどの雨水が、側溝へと流れ込んでいく。 「宮本さん、気をつけてね。この雨じゃ自転車も危ないでしょう」 「はい、押して帰ります。お疲れ様でした」
店長に頭を下げ、更衣室で私服に着替える。ジーンズに、ベージュのニット。どこにでもいる中年の服装。
けれど、今日の私は先週とは違う。
トイレの鏡の前。バッグの奥からルージュを取り出す手つきが、少しだけ慣れてきていた。
キャップを外す。紅を繰り出し、唇に乗せる。
一度塗り。ティッシュで軽く押さえ、もう一度重ねる。
鏡の中の私が、少しだけ意志の強い目をする。
誰のためでもない、私自身の戦闘服。 「……よし」
小さく呟き、私は雨の中へと飛び出した。
図書館までの道のりは、傘を差していても肩が濡れるほどの豪雨だった。
靴の中に水が染み込み、不快な冷たさが広がる。それでも足が止まることはない。
十九時十分前。いつもより遅い到着だ。
傘をたたみ、雫を払って館内に入る。
湿った空気と、古い紙の匂いが混ざり合う独特の香り。
私は濡れた髪を手ぐしで整えながら、いつもの閲覧室へと急いだ。
指先に力が入る。
いるだろうか。いないだろうか。
角を曲がり、いつものソファ席を見る。
いた。
彼はそこにいた。
いつもの席で、いつものように背中を丸め、本の世界に没頭していた。
今日の服装は、濃紺のセーターに色落ちしたデニム。そして、椅子の背もたれには、使い込まれた茶色の革のジャケットが掛けられている。
安堵で膝が抜けそうになった。
彼がいる。その事実だけで、雨に濡れた不快感も、一日の疲労も、すべてが浄化されていくようだ。
私は彼から少し離れた席に座った。
バッグから本を取り出す。けれど、視線はどうしても彼の方へ吸い寄せられる。
彼の手元にあるのは、今日は文庫本ではないようだ。ハードカバーの、少し厚みのある本。タイトルまでは見えない。
ページをめくる指先。
先週、ガラス戸越しに見た「職人の手」だ。
あの手で、彼は今、物語の時間を紡いでいる。そして昼間は、誰かの大切なものを修理している。
そのギャップが、私の胸を締め付けた。
話してみたい。
どんな声なのだろう。どんな言葉を選ぶのだろう。
でも、私にはそんな勇気はない。ただの図書館の利用者同士。それ以上の関係に踏み込む権利も、理由も、私にはないのだ。
時間は残酷なほど早く過ぎる。
閉館のアナウンスが流れた。 『蛍の光』のメロディが、静かな館内に響き渡る。
彼はゆっくりと本を閉じ、立ち上がった。
革のジャケットを羽織る動作が、映画のワンシーンのように見えた。
私も慌てて片付けを始める。
彼が歩き出す。私もその後を追うように、少し距離を空けて出口へ向かう。
まるでストーカーみたいだ、と自嘲する。でも、この数分間だけ、同じ出口へ向かうこの時間だけが、私たちが「一緒にいる」と言える唯一の瞬間なのだ。
自動ドアが開く。
途端に、激しい雨音が耳をつんざいた。
バタバタバタと、屋根を叩く暴力的な音。
彼はエントランスの屋根の下で立ち止まり、空を見上げていた。
私もその隣、二メートルほど離れた場所に立つ。 「すごい雨……」
思わず独り言が漏れた。
持っていたビニール傘を開こうとするが、強風に煽られて骨がたわむ。安物の傘だ。この風では、ひとたまりもないかもしれない。
その時だった。 「よく降りますね」
低く、少しハスキーな声が聞こえた。
息が止まるかと思った。
驚いて顔を向けると、彼がこちらを見ていた。
眼鏡の奥の瞳が、真っ直ぐに私を捉えている。 「え……あ、はい。すごい雨ですね」
裏返った声が出た。四十半ばの女が出していい声ではない。
彼との距離、約二メートル。
初めて聞いた彼の声。想像していたよりも温かく、深みのあるバリトンだった。
彼は少し困ったように眉を下げ、私の手元のビニール傘に視線を落とした。 「その傘だと、駅まで保たないかもしれませんよ」 「え?」
自分の傘を見る。確かに、骨の一本がすでに怪しい曲がり方をしている。 「風が巻いているから。その華奢な骨じゃ、折れちゃうでしょう」
彼は修理屋だ。物の強度を一目で見抜いたのだろう。 「でも、これしかなくて……」
私が困惑していると、彼は持っていた黒い長傘を少し持ち上げた。
持ち手が木製で、骨組みのしっかりした、いかにも丈夫そうな紳士傘だ。 「駅までなら、入りますか?」
時が止まった。
「入りますか」というのは、彼の傘に、ということだろうか。
相合傘? 初対面(言葉を交わしたのは初めてだ)の男性と?
常識で考えれば断るべきだ。「結構です」と笑顔で返し、濡れるのを覚悟で走るのが、大人のマナーだ。
でも、私の足は動かなかった。
拒絶したくなかった。この奇跡のような展開を、みすみす手放すことができなかった。 「……あの、でも、ご迷惑じゃ」 「僕も駅まで行くので。ついでです」
彼はぶっきらぼうに、でも優しくそう言うと、バサリと大きな黒い傘を開いた。
その傘が作り出す空間が、私を招いている。
「じゃあ……お言葉に甘えて。すみません」
私は自分の傘を閉じ、彼の方へ一歩踏み出した。
二メートルの距離が、六十センチになる。
彼の傘の下に入ると、雨音が少し遠くなった気がした。
ふわりと、彼の匂いがした。
古い紙と、雨の匂い。そして微かに、機械油のような鉄の匂いと、整髪料のシトラスの香り。
大人の男の人の匂いだ。
元夫以外の男性とこんなに近づくのは、何年ぶりだろう。
「行きますよ」 「はい」
二人は雨の中を歩き出した。
肩が触れそうで触れない、微妙な距離。
彼は私を濡らさないように、傘を私の方へ大きく傾けてくれている。そのせいで、彼の左肩は雨に濡れて色が濃くなっていた。 「すみません、濡れてませんか?」 「大丈夫です。このジャケット、防水スプレーかけてあるんで」
彼は短く答える。
沈黙が落ちる。でも、それは気まずい沈黙ではなかった。雨音が私たちの会話の隙間を埋めてくれる。
「あの」
不意に、彼が口を開いた。 「毎週、いらしてますよね」
胸の奥がざわつく。 「ええ、はい。金曜日の夕方は、いつも」 「知ってます。僕もなんで」
彼は前を向いたまま言った。 「いつも、レイモンド・カーヴァーを読んでる」
見られていた。
私が彼を見ていたように、彼も私を見ていたのだ。 「……好きなんです。あの、乾いた感じが」 「わかります。救いがないようで、どこか優しい」 「そうです! そうなんです」
思わず声が大きくなる。
彼がふっと笑った気配がした。横顔を見ると、口角が少しだけ上がっている。
笑った。彼が笑った。
それだけで、胸の奥が熱くなる。 「僕は牧村と言います」
突然の名乗り。 「あ、私は宮本です。宮本恵と申します」 「宮本さん。……いい名前ですね」
ただの社交辞令かもしれない。でも、彼の低音で名前を呼ばれた瞬間、身体の芯が痺れたような感覚に襲われた。
母でもなく、パートのおばさんでもなく、「宮本さん」として認識された喜び。
駅までの道のりは、わずか十分ほどだった。
けれど私には、永遠のように長く、そして一瞬のように短く感じられた。
駅のロータリーが見えてくる。
この時間が終わってしまう。 「あ、ここまでで大丈夫です。本当にありがとうございました」
改札の手前、屋根のある場所で私は立ち止まり、頭を下げた。
彼が傘を閉じる。 「いえ。気をつけて」
彼はそれ以上何も求めず、連絡先を聞くわけでもなく、あっさりと背を向けた。
その潔さが、逆に私の心を掴んで離さない。 「あの!」
私は思わず呼び止めていた。
彼は振り返る。 「……また、来週」
精一杯の言葉だった。
彼は一瞬きょとんとして、それから眼鏡の奥の目を細め、深く頷いた。 「ええ。また」
彼は改札の向こうへと消えていった。
私はその場に立ち尽くしていた。
手には閉じたままの安物のビニール傘。
唇には、まだルージュの感触が残っている。
雨はまだ降り続いていたが、今の私には、世界が洗われたかのように輝いて見えた。
牧村さん。
口の中で、彼の名前を反芻する。
これは恋だ。
認めるしかなかった。四十五歳、バツイチ、子持ち。生活に追われる私の心に、今、確かに小さな灯がともったのだ。
翌朝、傘を玄関で広げると、片側だけがうまく乾いていなかった。牧村さんが持っていた方だ。黒い布に残った水滴をタオルで拭きながら、私は昨夜の距離を測り直していた。六十センチ。肩が触れそうで触れない、互いの息遣いだけがわかる距離だった。
愛梨が眠そうな顔で階段を降りてきた。
「傘、壊れたの?」
「ううん。乾かしてるだけ」
「昨日、誰かと入った?」
一瞬、手が止まった。愛梨は冷蔵庫から牛乳を出し、こちらを見ないまま続けた。
「片方だけ濡れ方が違うから」
観察力の鋭さに驚きつつ、私は「駅まで知り合いに入れてもらったの」と答えた。嘘ではない。けれど、その人の名前を口にする勇気はまだなかった。
「ふうん。よかったじゃん」
それだけ言って、愛梨は牛乳を飲んだ。問い詰められなかったことに安堵しながら、少しだけ物足りなくも感じる。母親の秘密に娘が関心を示さないことが寂しいのではない。私自身が、誰かに話したいところまで来ているのだ。
昼休み、同僚の三田さんが私の顔を覗き込んだ。
「宮本さん、昨日雨に降られたでしょう。風邪、大丈夫?」
「平気です。駅まで傘に入れてもらったので」
「まあ、誰に?」
反射的に笑ってごまかした。三田さんはそれ以上聞かず、持参したみかんを一つ私の机に転がした。
「聞かれたくない顔してる。じゃあ、聞かない」
その気遣いがありがたかった。私はみかんの皮をむきながら、昨夜のことを初めて現実の出来事として受け止めた。夢ではない。私の肩を雨から庇った人がいて、私の名前を呼んだ。
仕事帰り、駅のホームで同じ色のジャケットを見かけ、思わず駆け寄りそうになった。けれど、振り返ったのは二十代くらいの知らない男性だった。私は歩みを緩め、自分の早とちりを可笑しく思った。
電車の窓に映る私は、昨日より少し落ち着いていた。会いたい気持ちはある。けれど、それだけで日常を投げ出すわけではない。明日の弁当のおかずを考え、引き落としの日を確認し、愛梨の模試の予定を覚えている。そのすべてを抱えたまま、誰かに惹かれている。
家に着くと、愛梨が玄関に置いた濡れたスニーカーから、床へ細い水の筋が伸びていた。私は雑巾を取りに行きかけ、先に娘へ声をかけた。
「今日はどうだった?」
「英単語テスト、満点。数学は最悪」
「そっか。じゃあ、ご飯のあと数学を一問だけ一緒に見る?」
「ママにわかるの?」
「たぶん、わからない。でも、隣には座れる」
愛梨は一度だけ笑った。
食後、私たちは同じテーブルに並んだ。私は家計簿を開き、愛梨は問題集を開く。教えることはできなくても、紙をめくる音を途切れさせないことはできる。
昨夜、牧村さんがしてくれたのも、きっとそれに近い。正しい答えを渡すのではなく、濡れた道を隣で歩くこと。
私は家計簿の余白に、金曜日と小さく書いた。その文字を丸で囲むことはしなかった。待ち遠しさを、予定として囲い込まなくてもいい気がした。
*
帰宅したのは二十一時過ぎだった。
リビングに入ると、愛梨がソファでスマホをいじっていた。 「あ、ママおかえり。今日遅かったね。雨大丈夫だった?」 「うん、大丈夫だったよ」
私は努めて平静を装いながら答える。
けれど、洗面所の鏡に映った自分の顔を見て、息を飲んだ。
頬が上気し、目が潤んでいる。
ルージュは少し落ちていたけれど、その分、素の唇が血色よく見えた。
これは、恋をした女の顔だ。
娘に見られたら、絶対に怪しまれる。
私は慌ててメイク落としを手に取り、顔を洗い始めた。
「ねえママ、さっき佐久間先生からLINE来てさー!」
リビングから愛梨の声が聞こえる。 「雨の中気をつけて帰れよって! 優しくない? マジ神!」
娘の恋は、LINE一つで一喜一憂する、開けっ広げで賑やかなものだ。
私の恋は、雨音に紛れて交わした数言の会話を、何度も脳内で再生して噛み締める、静かで密やかなものだ。
対照的な二つの恋。
けれど、今の私にはわかる。
娘の胸の高鳴りも、私の胸の温もりも、根っこにあるものは同じなのだと。
お風呂にお湯を張りながら、私は牧村さんの左肩を思い出していた。
私のために濡れていた、あのジャケットの色。
申し訳なさと、愛おしさ。
来週。
彼が最後に言った「また」という言葉。
それは約束ではない。ただの挨拶だ。
でも、私にとっては、明日からの一週間を生き抜くための、何より強いお守りになった。
湯船に浸かり、ほう、と息を吐く。
天井を見上げると、水滴が一つ、落ちてきた。
冷たいはずの水滴が、今の私には温かく感じられた




