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金曜日のルージュはバッグの奥に  作者: 久遠 睦


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2/10

第二章 レモンの匂いとほどけた靴紐

土曜日のリビングには、甘酸っぱいレモンの匂いが充満していた。

愛梨が朝からキッチンを占拠し、大量のレモンを輪切りにしているせいだ。「蜂蜜レモン」を作るのだという。受験勉強の糖分補給という名目だが、その鼻歌交じりの背中を見れば、本当の目的が別にあることは明白だった。

「ねえママ、タッパーどこ? 一番大きいの」 「シンクの下の引き出し。……随分たくさん作るのね」

洗濯物を畳みながら私が尋ねると、愛梨は振り返りもせず、弾むような声で答えた。 「うん。塾のみんなで食べるから。あ、あとね、佐久間先生にもあげるの。先生、最近喉の調子悪いみたいでさ」

佐久間先生。

ここ一ヶ月、我が家の食卓で最も頻繁に登場する名前だ。塾の英語講師で、現役の大学院生らしい。二十四歳。愛梨より六歳年上。 「先生って、生徒からの差し入れなんて食べてくれるの?」 「平気だよ。佐久間先生、超フランクだし。それに『愛梨ちゃんの蜂蜜レモンなら元気出るなー』って、先週言われたし!」

包丁を握る手が踊っている。恋をしている人間のエネルギーというのは、どうしてこうも無尽蔵なのだろう。徹夜で勉強していたはずなのに、彼女の肌は発光し、瞳は未来への希望で潤んでいる。

私は、夫のYシャツ――ではなく、自分のブラウスのシワをアイロンで伸ばしながら、ふっと息を吐いた。

若い頃の恋は、足し算だ。

好きな人ができた。話ができた。目が合った。そんな小さな出来事を一つずつ積み上げて、世界がどんどんカラフルになっていく。

対して、四十五歳の恋は――もし、あの感情を恋と呼ぶのなら――引き算かもしれない。

傷つきたくない。生活を壊したくない。面倒なことになりたくない。そうやって感情を引いて、引いて、最後に残った微かな温もりだけを、手のひらで包んで守っている。

「ママも食べる? 端っこ余ったけど」 「いただくわ」

差し出されたレモンの切れ端を口に含む。強烈な酸味が舌を刺激し、遅れて蜂蜜の甘さが広がる。

眩しい味だと思った。

私にはもう、この直球の甘酸っぱさは、少し胃に重たいかもしれない。

週が明け、水曜日。

朝から細かい雨が降っていた。

低気圧のせいか、古傷の偏頭痛がこめかみを鈍く叩く。事務のパート先では、月末処理の数字が合わず、三回も計算をやり直す羽目になった。 「宮本さん、細かい字、見えづらくなってきた?」

悪気のない上司の言葉に、「そうですね、老眼かしら」と自虐で返しながら、デスクの下で拳を握りしめる。見えづらいのは目のせいじゃない。集中力が続かないのだ。更年期の入り口特有の、泥の中を歩くような倦怠感が、私の思考を鈍らせている。

午後のパン屋のバイトでも、トラブルは続いた。

新人の学生バイトが無断欠勤をし、その穴埋めで休憩なしの五時間立ちっ放し。ようやく客足が途絶えた頃には、足の感覚がなくなっていた。 「宮本さん、ごめんねえ。これ、売れ残りだけど持って帰って」

店長がクロワッサンを三つ、ビニール袋に入れて渡してくれた。 「ありがとうございます。娘が喜びます」

笑顔を作ったが、顔の筋肉がひきつっているのが自分でもわかった。

売れ残りのパン。

ふと、自分と重ねてしまう。

誰にも選ばれず、時間が経って少し硬くなり、値引きされて誰かの手に渡るのを待っている。

そんな卑屈な考えが浮かぶ時は、心が弱っている証拠だ。

店を出ると、雨は小降りになっていたが、アスファルトは黒く濡れていた。

バスに乗ろうか迷ったが、節約のために二駅分歩くことにした。

商店街のアーケードを抜け、住宅街へと続く裏道を歩く。ここは普段あまり通らない道だ。少し遠回りになるが、信号が少なくて歩きやすい。

濡れた路面に街灯が反射してキラキラと光っている。

その光の先、一軒の小さな店のシャッターが半分開いているのが見えた。 『修理工房 マキムラ』

手書きの看板がかかっている。靴や鞄、傘、時計などの修理を請け負う店らしい。ガラス戸の向こうに、作業台に向かう人影が見えた。

何気なく目をやった瞬間、私の足が止まった。

足が止まった。

作業用エプロンを着け、拡大鏡を目に当てて、何かの部品をいじっている男性。

白髪混じりの短髪。縁の太い眼鏡。

――彼だ。

図書館の彼だ。

間違いようがなかった。本を読んでいる時の、あの静かな横顔と同じだ。

今は手元に強いライトを当て、ピンセットのようなもので時計のムーブメントと格闘している。

図書館にいる時の、どこか世捨て人のような穏やかな雰囲気とは違い、職人の鋭い眼差しをしていた。眉間に深く刻まれた皺が、彼の真剣さを物語っている。

私は電信柱の影に身を隠した。

見てはいけないものを見てしまったような、それでいて、宝の地図の在り処を偶然見つけてしまったような高揚感。

彼は修理屋だったのか。

この町で、壊れたものを直して生きているのか。

独りなのだろうか。店の奥に、奥さんがいて「あなた、お茶よ」なんて声をかけたりするのだろうか。

生活の匂いを感じた途端、彼という存在が急に生々しい質量を持って私に迫ってきた。

その時、不意に彼が顔を上げ、ガラス戸の向こうから通りを見やった。

私は慌てて顔を伏せ、早足でその場を立ち去った。

ビニール袋の中のクロワッサンが、カサカサと音を立てる。

逃げる必要なんてないのに。ただの通りすがりの他人なのに。

自分の呼吸が耳元でうるさく聞こえた。

家に帰り着くまで、私の頭の中は『修理工房 マキムラ』という文字で埋め尽くされていた。

マキムラさん。

名前を知ってしまった。

記号だった彼に、固有名詞がついた。

それは、二人の距離が変わり始める合図のように思えた。

愛梨が塾へ出かけたあと、私はまな板に残ったレモンの種を一つずつ拾った。黄色い果汁で濡れた台を布巾で拭くと、指先の細かな傷に酸味が染みた。思わず手を引っ込める。パン屋の洗剤と冬の乾燥で荒れた手は、ハンドクリームを塗ってもすぐ元に戻ってしまう。

流しの脇には、愛梨が使った計量スプーンが置きっぱなしになっていた。注意しようとして、やめた。朝から蜂蜜レモンを作る余裕があるなら、その分、数学の問題集を開いてほしい。そう言えば、きっと愛梨は「わかってる」と唇を尖らせるだろう。わかっている相手に正しさを重ねることが、時には逃げ道を塞ぐのだと、最近になってようやく気づいた。

私は小さな保存瓶に、家に残す分だけのレモンを詰めた。蜂蜜を注ぎながら、愛梨が佐久間先生の名前を口にした時の顔を思い出す。あの明るさを、私は守りたい。けれど、先生と生徒という境界を越えて傷つくことも怖かった。

夕方、愛梨から写真が届いた。自習室の机に、蜂蜜レモンの容器と三冊の参考書が並んでいる。端には同じ塾の女の子たちの手が写っていた。

『みんなに好評。先生は授業前だから一枚だけ』

私は画面を見て、少し肩の力を抜いた。恋に夢中だからといって、娘が周囲を見失っているわけではないらしい。

『食べすぎてお腹を壊さないようにね』

送信してから、母親らしすぎる返信だと思って苦笑した。本当は「先生は喜んだ?」と聞きたかった。愛梨の恋を心配しながら、その高揚を分けてもらいたい自分もいる。

夜、帰宅した愛梨は、空になった容器を洗いながら言った。

「先生さ、みんなの前でありがとうって言っただけだった」

「不満そうね」

「別に。ちゃんとしてる人なんだなって思っただけ」

声にはわずかな落胆があった。それでも愛梨は水道を止めると、濡れた手をエプロンで拭き、問題集を抱えて自室へ戻った。

私は何も助言しなかった。扉が閉まる直前、「レモン、家の分も残してくれてありがとう」とだけ伝えた。

「今度、紅茶に入れようよ」

愛梨はそう答えた。閉じた扉の向こうで椅子を引く音がする。恋をしても、期待が外れても、娘は自分の机へ戻っていく。その足取りを聞きながら、私は自分にも戻れる場所が必要なのだと思った。

翌朝、通勤用の靴を履こうとして、左の靴紐がほどけているのに気づいた。急いで結び直したものの、一度目は左右の輪の長さが揃わなかった。しゃがんだまま、もう一度ゆっくり結ぶ。

暮らしも同じなのかもしれない。急いで形だけ整えると、どこかが引きつる。結び目をほどき、自分の指で確かめながらやり直すしかない。

玄関を出ると、昨夜の雨が手すりに粒を残していた。私はまだ、図書館の彼の名前さえ知らない。それでも金曜日を待つ気持ちは、恥ずかしいものではないと思えた。誰にも見せない期待くらい、自分に許してもいい。

その週、私は初めてハンドクリームを職場の机にも置いた。荒れた指先は働いてきた証拠だが、痛みまで我慢する必要はない。昼休みに丁寧に塗り込み、柑橘に似た香りを嗅いだ。愛梨のレモンと、まだ名前しか知らない工房。別々の出来事が、週末へ向かう細い道の上に並んでいた。

翌日の紅茶には、愛梨が残したレモンを一枚浮かべた。酸味のあとに甘さが来るまで、少し時間がかかる。私は急いで飲まず、湯気の向こうにある金曜日を待った。

帰宅した愛梨は、保存瓶を光にかざした。輪切りのレモンが蜂蜜の中でゆっくり沈んでいる。『もう少し置いた方がおいしいね』と言う娘に、私は頷いた。待つ時間にも、味を変える働きがある。

玄関を開けると、またしても愛梨はいなかった。今日は自習室で遅くなると連絡があったのを思い出す。

一人きりの夕食。店長にもらったクロワッサンと、昨日の残りのシチューを温める。

テーブルに座り、パンをちぎる。

バターの香りに混じって、先ほどの光景がフラッシュバックする。

作業台に向かう彼の、節くれだった指先。

図書館で見かける彼の手は、いつも本を優しく支えている。でも、仕事をする彼の手は、何かを「治そう」としていた。

壊れた時間や、すり減った靴底を、再び動かすために。

ふと、自分の足元を見る。

安物のパンプスの踵が、少し削れているのが見えた。

そして、パート用のトートバッグの持ち手も、糸がほつれてきている。

私の周りには、直すべきものがたくさんある。

物だけじゃない。

離婚してからの五年間、私は何かを「直す」ことができただろうか。

ただ時間をやり過ごし、傷口に絆創膏を貼って、見ないふりをしてきただけではないだろうか。

ポケットの中で、スマートフォンが震えた。

画面を見ると『元夫』の文字。

一瞬、出るのを躊躇ったが、愛梨のことかもしれないと思い、通話ボタンを押した。 「……もしもし」 『あ、恵か。久しぶり』

五年経っても変わらない、少し鼻にかかった声。かつては好きだったその声が、今は神経を逆撫でするノイズにしか聞こえない。 『今月の養育費、振り込んだから』 「ええ、確認しておくわ。ありがとう」 『愛梨はどうだ? 受験だろう。金は足りてるか? 夏期講習とか』 「大丈夫よ。あなたには決まった額をもらえればそれでいいから」

事務的な会話。感情の入る隙間などない。 『そうか。まあ、頑張れよ。じゃあな』

プツン、と電話が切れる。

「頑張れよ」。その無責任な四文字が、私の中に澱のように沈殿する。

私はもう十分頑張っている。これ以上、どう頑張れと言うの。

スマホをテーブルに放り投げ、クロワッサンを口に押し込む。

喉が詰まりそうで、シチューで流し込んだ。

温かいはずのシチューが、砂の味がした。

寂しいわけじゃない。不幸だとも思っていない。

ただ、誰かに「大丈夫?」と聞かれたかった。

「頑張れ」ではなく、「休んでいいよ」と言ってくれる誰か。

壊れた私を、丁寧に修理してくれる誰か。

脳裏に、あの修理工房の温かい色の灯りが浮かんだ。

マキムラさん。

あなたは、人の壊れた心までは直せないでしょうね。

自嘲気味に笑い、私は立ち上がって食器をシンクに運んだ。

金曜日まで、あと二日。

いつもより長く感じる一週間になりそうだ。

私は洗い物をしながら、無意識のうちにカレンダーの日付を目で追っていた。

金曜日の欄に、赤ペンで小さな丸印がついている。

それはゴミ出しの日であり、図書館への返却期限日であり――そして、私が魔法をかける日だ。

玄関でガチャリと鍵が開く音がした。 「ただいまー! ママ、聞いて! 佐久間先生がね!」

弾丸のように飛び込んできた愛梨の声が、静寂を破る。

私は濡れた手を拭き、「おかえり」と振り返る。

娘の頬はバラ色に染まり、私の頬は疲労でくすんでいる。

けれど、不思議と嫉妬はなかった。

私には私の、密やかな楽しみがある。

金曜日、バッグの奥のルージュを取り出すその瞬間。

それだけで、私はまだ戦える。

ほどけた靴紐を結び直すように、私は心の中で金曜日へのカウントダウンを始めた。


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