第9話 無能(?)祈祷師の努力
翌朝。ルカは夜が明けきらないうちに寝台を出て、砦の結界石を片端から見て回っていた。
傍らにはガングがいる。案内役、と本人は言うが、その目つきは半分は監視だった。妙な真似をすれば叩き出すという、昨日の言葉を忘れてはいないらしい。
結界石は、思っていたより数が多かった。門脇に据えられた大きな主石がひとつ。それを囲むように、外壁沿いにいくつもの副石が点在している。本来なら、この石と石とが光の糸で結ばれ、砦全体を覆う一枚の網となるはずだった。
だが、その網はあちこちでほつれている。
「言っておくが」
石を検分するルカの背に、ガングがぶっきらぼうに言った。
「直せなかったからといって、責めはせん。ここは、そういう場所だ。何もかも、足りん」
その言葉の通りだった。ひとつ、またひとつと石を見て回るうちに、ルカの顔はだんだんと曇っていく。問題はひとつではなかった。幾重にも重なっている。
まず、石そのものが古かった。罅が入り、角は摩耗し、いくつかはもう限界に近い。買い替えたくとも、その金がないそうだ。
次に、魔力。石に籠もっているはずの魔力が、どれも痩せ細っている。長いあいだ、誰も注ぎ足していないのだ。
そして──。
「……聖油の樽、空ですね。これ、最後に届いたのはいつですか?」
倉庫の隅に転がった干からびた樽を覗き込んで、ルカは訊いた。結界の式を保つには聖油がいる。そして、聖油は王都から供給されているはずだ。少なくとも、ルカは王都でそう聞いていた。
だが、ガングは「さあな」と首を竦めた。
「俺が覚えてる限り、届いた記憶がねえ」
「マジですか……」
「ああ。大マジだ」
樽はとうに空で、何年も補充されていないのが見て取れる。支援の打ち切りというものが、こんな物言わぬ樽の底に、はっきりと刻まれていた。
そして、最後の問題が一番根深い。
そもそも、この砦には祈祷師がいないのだ。結界石は、定期的に祈りで式を更新してやらねば、少しずつ効きが落ちていく。けれど、それを担う祈祷師が、何年もここにはいなかった。
「最後に王都の祈祷師がここへ来たのは?」
ルカが訊くと、ガングが遠い目をした。
「俺が、まだ髭のない小僧だった頃かな」
つまり、それきり。この砦の結界は何年もの間、下手をすれば十年以上誰にも祈られないまま、ただすり減り続けてきたのだ。
ルカは言葉を失った。よくぞこの状態でこれまで保ったものだと思う。
「……大変だったんですね」
「ふん。追放者に同情されたら、終いだな」
思わずそう漏らすと、ガングはそっぽを向いた。ただ、その声から昨日ほどの棘は抜けているように思える。
「それもそうですね」
ルカは小さく笑った。
ひととおり見て回って、最後に門脇の主石の前へ戻る。昨夜、繕った石だ。そして、あの黒い染みのある石でもある。
日の光の下で、改めて覗き込んだ。夜の見間違いであってくれ、と少しだけ願っていたが──。
染みは消えていなかった。それどころか、朝の光の中でもなお、石の芯の奥で、その黒いものは微かに脈打っている。
どくどく、と。心臓さながらに。
背筋がひやりとした。
石を睨んでいると、後ろから足音がした。
「ルカ。調子はどうですか?」
姫騎士イリアだった。朝の見回りの途中なのだろう、白銀の鎧の上に外套を羽織っている。
「あ、イリア様。おはようございます」
咄嗟に頭を下げると、じとっと恨めしげな目を向けられた。
なんだと思い、すぐに思い至る。昨夜の、あれだ。敬語をやめろ、という。
「あー……えっと。おはよう。うん、まあ、なんとか」
慌てて言い直すと、イリアは満足そうに、ふふっと笑った。この切り替えは当分慣れそうにない。
石の様子をひととおり説明すると、彼女はふと、こんなことを尋ねてきた。
「あの、ルカ。ひとつ質問してもよろしいでしょうか」
「はい……じゃなくて。うん、いいよ」
また敬語が出かかって、慌てて言い直す。イリアが口元を綻ばせた。
「どうして、王都はあなたを無能と評したのでしょう? 私には、とてもそうは思えないのですが」
彼女は純粋な疑問として訊いたのだろうが、結構きつい質問でもある。ルカは少し考えてから答えた。
「王都ではね、祈りを数値で測るんだ。どれだけ傷を癒したか、どれだけ結界を厚くしたか、どれだけ魔力を増やせたか、とかね。それを、聖杯っていう測定器で数字にする」
「数字、ですか」
イリアがそっと腰の剣に手を添えた。今はもう錆ではなく、白銀の姿を取り戻した神剣だ。
「僕は、その数字が……ほとんどゼロだった。三年間、一度も針を動かせなかったんだ。それが、僕が無能たる所以さ」
言いながら、ルカは自嘲的に笑ってみせた。
そこで「でも」と言葉を一度区切って、新たに紡ぎ直していく。
「たぶん僕の祈りは、そういうものじゃないんだと思う。これまでは、誰に祈っても数値は動かなかった。効いた実感もなかったしね。でも……イリア様にだけは、届いたんだ」
「私にだけ、ですか……?」
「うん。だから、これは僕の勝手な想像なんだけど」
ルカはゆっくりと言った。自分の力の一番芯にあるものを、初めて言葉にする気がした。
「僕の祈りは、もしかしたら──『誓い』に、届くのかもしれない。誰かを守るって、本気で誓ってる人。その誓いの強さに、応えるみたいに。……だから、聖杯みたいなただの器には、映らないのかもね」
上手く言えている自信はない。半分は、いま初めて思い至ったことだ。
イリアはしばらく黙って、それから静かに、けれどきっぱりと言った。
「……数値でしかものの善し悪しや価値を判断できないなんて、愚かな話ですね。そういった数値でないところに、物事の価値はあるのに」
その声には迷いがなかった。
ルカの胸の奥が、じんと鳴る。
三年間、数字で否定され続けた祈りだ。それをこの人は、〝見たもの〟で肯定してくれる。測定器ではなく、自分の目で。
とはいえ、聖油の枯渇は『誓い』だけではどうにもならない。何とかせねばならなかった。
正しく式を引き直すには、本来、聖油がいる。石に刻まれた祈祷式を、あの澄んだ油でなぞり直すのだ。けれど、この砦に聖油は一滴もない。何年も届いていないのだから、砦中をひっくり返しても出てこないだろう。
ないものはない。嘆いたところで、王都から油が降ってくるわけでもなかった。
(……なら、他のもので、代わりが利かないかな?)
祈祷庁の教本には、聖油を使え、としか書いていない。しかし、祈りの本質が器の高価さではなく、捧げる心の誠実さにあるのなら。
器も聖油でなくてもいいのではないだろうか。
そんなことを考えていると、目が中庭の井戸に留まった。
「よし……水を使おう」
「水?」
「うん。砦の井戸水を、禊祷で清めて……聖油の代わりにするんだ。教本には載ってないやり方だけど、理論上は可能だと思う」
王都の祈祷庁が聞いたら鼻で笑うだろう。我流もいいところだ。
けれど、ルカには妙な確信があった。誠実に清めた水なら、きっと祈りを通す器になる。
「さて、水汲みだ」
ルカは立ち上がった。やることが決まった。
それから、ガングに頭を下げて頼んだ。水を汲むこと。結界石の周りの雪をかくこと。夜明け前に篝火を焚くこと。
「おい、祈祷師」
ガングは腕を組んで渋い顔をした。
「雪かきと水汲みなら、兵を出してやる。……言っておくが、期待はしてねえからな」
「はい。期待は結果で出させてもらいます……なんて」
言ってから、自分の言葉の大きさにかっと照れた。柄にもないことを言った気がする。
そんなルカにイリアはくすっと笑い、一方のガングは片眉を上げていた。
やがて、ガングに集められた兵たちが、半信半疑のままぶつぶつ言いつつ水を汲み、雪をかきはじめる。この、〝一緒に手を動かす〟ことが、あとで効いてくるかもしれない。ただ見ているだけの奇跡より、共に作ったものの方が、きっと信じてもらえるからだ。
「儀式は、夜明け前に、やります」
ルカは皆に言った。
「祈りは、夜と朝の境目が……一番通りやすいんです」




