第10話 無能(?)祈祷師、砦の結界を復活させる
夜明けが近い。
空の東の縁が、わずかに藍を薄めはじめていた。まだまだあたりは暗く、冷え込みが一日でいちばん厳しい刻限だ。
中庭に篝火が焚かれ、罅割れた主石の前に、清められた水の桶が並んでいる。兵たちが半信半疑の顔で遠巻きに見守っていた。ガングも、腕を組んでその中にいる。
そして、ルカのすぐ隣には、イリアが静かに立っていた。
ルカは桶の水に指を浸した。禊祷で清めた水は、冷たく澄んでいる。その指で、主石に刻まれた式を一画ずつなぞっていった。
歪められた式を、正しい形へ。
それは〝直す〟というより、〝解いて、編み直す〟作業に近かった。誰かが悪意をもって捻じ曲げた一本一本の線を丁寧に解き、本来あるべき形へと結い直していく。地味で根気のいる手仕事だ。派手さなど、どこにもない。
主石を終えたら、次は副石。一基、また一基。清めた水で式をなぞり、繋ぎ直していく。
東の空が、藍から薄い青へと移ろいはじめた。
夜と朝の境目が、来る。
ルカは目を閉じ、短い祈りを口にした。
「──聞きたまえ。名も知らぬ神々よ。
ここに、守られるべき灯りがある。凍える夜を、身を寄せ合って越える人々が。
彼らを守ると誓った剣があり、その誓いは、偽りなし。
されば、巡れ清き水。繋がれ光の糸。
壁となれ。屋根となれ。どうか、この砦の盾となれ。
展開せよ──〈結界祈祷〉!」
主石に、白い光が灯った。
その光が糸を引くように地を這って、壁を走り、次の副石へと届く。ひとつ灯れば、また次。また次へ。光の糸が石から石へと繋がって、砦の輪郭をぐるりとなぞっていく。
やがて、砦の全体が淡い光の網に包まれた。
夜明けの薄青の空。その下で、白い光の網が静かに脈打っている。煌々と、ではない。かつての全盛期の輝きには、きっと遠く及ばないだろう。それでも、その光は途切れなかった。淡くとも、確かに砦を覆っている。
守るには、それで十分だ。
変化はすぐに現れた。
まず、遠く聞こえていた魔物の遠吠えが、潮が引くように遠ざかっていく。光の網を嫌って、近寄れなくなったのだ。
医務室からは、負傷兵の呻きが和らいでいた。結界の加護が、痛みまでそっと宥めているらしい。
そして、井戸。凍りかけていた井戸の水が、いつのまにか澄んで透きとおっている。ルカが清め、儀式に使った水が、この砦の加護の巡りの中へ還ったのだ。
兵たちの顔が明るくなっていた。ざわめきが、驚きから別のものへと変わっていく。
「……嘘だろ。結界がこんなに」
「あったかい……久しぶりだぞ、こんなの」
ガングが光の網を見上げて、ぽつりと言った。
「これは……凄いな。この結界がありゃ、見張りを半分寝かせられる」
その声は低かった。
「結界が魔物を遠ざけてくれるなら、夜の見張りは半分の人数で回るからな。ちゃんと兵を寝させてやれるなんて、この砦じゃいつ以来か、思い出せんな」
最前線で、眠れるということ。それがどれほどの恵みか。兵たちの間に、深い安堵のため息が広がっていった。
誰かが呟いた。
「……祈祷師ってのは、こういうもんだったのか」
彼らの知る〝祈祷師〟は、来もしない、王都の肩書きだけの存在だった。目の前で砦を守ってみせる祈祷師なんて、初めてだったのだ。
イリアが光の網を見上げ、それからルカへ向き直った。
「ルカ……」
胸に手を当てて、その瞳に涙をうっすらと滲ませる。
「あなたは、決して無能なんかじゃありません。だって、実際にこうして、ちゃんと私たちを守ってくれてるじゃないですか」
「イリア様……」
ルカは何も言えなかった。ただ、胸の奥があたたかい。
張り詰めていたものが、ふっと解けた。その途端──。
「……おっと」
膝が、がくんと抜けた。視界がぐらりと傾く。
徹夜のうえ、全部の結界石を一基残らず編み直したのだ。祈祷そのものに代償はないが、身体の方がとうに限界だった。ただの寝不足と過労である。
「ルカ!」
イリアが咄嗟に駆け寄って、その身体を支えた。肩を貸され、思いのほか近くに彼女の顔がある。ふわりと、あの花に似た匂いがした。
「もう……無理しすぎです」
叱るような、けれど心配の滲む声だった。
「ごめんね姫様。少しでも早く、皆の役に立ちたくてさ」
「あなたはもう、十分すぎるほど役に立っていますよ」
イリアはまっすぐにルカを見た。
「ですから、今日はもう休むこと。働くのは禁止です。これも、王女命令ですからね?」
「その命令、多用しすぎじゃない?」
ふらつきながらもルカが軽口を返すと。
「何に使うかは、私の自由ですよ?」
イリアは悪戯っぽく笑った。
こんなふうに王女様と軽口を言い合える。それだけのことが、ルカにはなんだかくすぐったかった。
支えられて、ひと息ついてから。
ルカはもう一度、修復を終えた主石へ目をやった。
式は正しく編み直されている。光も戻った。けれど──石の芯の一番奥。あの黒い染みだけは、消えていない。
ルカは繕いの光の膜で、それを内側に封じ込めた。でも、祓いきることはできそうにない。禊祷でも届かないようだ。もっと深いところに、それは根を張っている。
(……やっぱり、これは)
ひとつ。これは自然にできたものじゃない。
ふたつ。誰かが意図して式を歪め、この染みを植えた。
そして、みっつ。この黒は、イリアを縛るあの鎖と、同じ系統のものだ。
誰がやったのか。砦の内か、外か。いつ仕込まれたのか。何ひとつわからない。
わかるのは、ただひとつ。
この砦には、まだ得体の知れないものが潜んでいる。それだけは事実だ。
「ルカ。休むにしても、朝食を食べてからにしませんか?今からコックに作らせます」
「そうだね。じゃあ──」
お願いしようかな、と言おうとした時。
慌ただしい足音とともに、文官が走ってきた。その手に通達らしきものを持って。
「姫様! 王都から通達が届きました!」
文官は肩で息をしながら言った。
イリアがかつて送っていた、救援要請への返事らしい。何ヶ月も遅れに遅れた返事。
「……」
姫騎士が封を切るのを、ルカは隣で見守った。
読み上げられた文面は、ひどく冷たかった。
──北方辺境砦への、追加支援は認められない。
──第三王女イリア。汝は現有戦力をもって魔物の侵攻に対処せよ。
それだけだ。労いも、支援の約束も、何ひとつなかった。
イリアが静かに拳を握る。
怒り、というより、もっと深いところにある諦めのようなものが滲んでいた。何度もこうして突き返されてきたのだろう。慣れてしまった、けれど消えることのない悔しさ。その横顔に、ルカの胸まで痛くなった。
だから、ルカは──彼女にこう伝えた。
「王都からの助けなんて、いらないよ」
「え?」
「僕たちだけで守ろう」
「ルカ……」
イリアが顔を上げる。そんな彼女をしっかりと見据えて。言葉を紡いだ。
「王都が見捨てた、この場所を。……イリア様の剣と僕の祈りで、守るんだ」
言ってしまってから、頬が熱を持った。
徹夜はよくない。普段よりも、何だか制御が利かなかった。
見開かれたイリアの瞳には、うっすらと涙が滲んでいて。でも、そこには諦めの色はなかった。
それから彼女は慌てて目元を指で拭って、控えめな笑みを浮かべてみせた。あの、花の綻ぶような笑顔で。
「……はい。よろしくお願いしますね、私の祈祷師様」
二人は並んで砦を見上げた。
淡い光の網が、暮れゆく空の下で、静かに、けれど途切れることなく砦を包んでいる。二人で取り戻した灯りが、そこにあった。
ふと、北の空が気にかかる。
今日も暗く、重かった。厚い雲が山の向こうに垂れ込めている。
(……あの遠征は、どうなったんだろうな?)
あの日、視てしまった黒い断片が、ふと脳裏をよぎった。黒い霧の森。砕ける盾。脈打つ、黒い杭。
自分を追い出した人たちは、今頃、あの北の森でどうしているのだろう。
けれど、いまのルカに、遠い地で何が起きているのかを知る術はない。
わかるのはただひとつ、この二人で取り戻した灯りを、守り抜くことだけだ。




