第11話 王太子を襲う闇
白馬の蹄が、雪を蹴立てて鳴る。
王太子ランド=アンセルムは、鞍上から己の隊列を見下ろしていた。
背後に続くのは聖騎士団の本隊。磨き抜かれた鎧が鈍色の空の下でも冴え冴えと光り、揃いの外套が風を孕んではためいている。隊列の先頭には、金糸で織り上げた王太子の紋章旗。竜と剣を象ったそれが、雪風をいっぱいに受けて誇らしげに翻っていた。
壮麗、という言葉がこれほど似合う光景もあるまい。
沿道の村では、行軍を見送る民が雪の中に膝をついている。次代の王が、自ら魔物を狩りに向かうのだ。その勇姿を目に焼きつけようと、誰もが首を伸ばしていた。
ランドは唇の端を持ち上げる。
これでいい。これでこそ、王の器というものだ。
(見ているがいい。次代の王の力を、諸侯の目にも、魔物の骸にも、たっぷりと刻んでやる)
北方の魔物領域。人の手の届かぬ、黒き獣どもの巣。そこを踏み荒らし、狩り尽くし、勝利を掲げて帰る。それだけで、この遠征は成功だ。諸侯は次代の王を認め、王都は初陣の戦果に沸くだろう。
勝利はもう約束されている。指に嵌めた勝利の指輪が、その証だ。腰に佩いた儀礼剣は、いまだ一度も血を吸っていない。だが、それも今日かぎりのこと。夕には、魔物の血で濡らしてやる。
ふと、追放したあの祈祷師の顔が脳裏をよぎった。
ルカ、とかいう無能だ。聖杯に三年、針ひとつ動かせなかった男。あろうことか、この栄えある遠征を前にして「中止すべきだ」などとほざいた。北の森に魔物ではないものが待ち構えている、このまま進めば騎士団は壊滅する、と。
敗北の神託。思い返すだけで舌打ちが漏れる。
「殿下。いかがなさいました」
馬を寄せてきたのは聖騎士団長だった。歴戦の武人らしく、鞍上でも隙がない。
「いや。ふと、あの臆病者を思い出してな」
「ああ。あの祈れぬ祈祷師でございますか」
団長が鼻を鳴らした。
「祈りひとつ通らぬ男の言葉なぞ、犬の遠吠えと変わりませぬ。お心に留めるだけ、無駄というもの」
「違いない」
反対側からは、祈祷庁長官が追従の笑みを寄越す。
「数値も出ぬ祈祷師の戯言に、殿下ほどのお方が煩わされるとは。あの者は、追放して正解でございました。災いを呼ぶ口を、王都から遠ざけたのですから」
「くくっ。まったくだ」
三人分の嘲笑が、雪風に溶けて消える。
無能に、無能の末路を。それだけの話だ。あの男のことなど、この栄光の行軍の中で、わざわざ思い出す値打ちすらありはしない。
ランドは前へ向き直り、白馬の腹を軽く蹴った。
しかし、ランドの目測通りに、徐々にことは進まなくなる。
異変は、森が近づくにつれて、ひとつずつ増えていった。
まず、斥候が戻らない。
先んじて森の様子を探らせた一隊が、刻限を過ぎても帰ってこないのだ。二度目に出した者も同じだった。
「何をしている。斥候ひとつ、満足に使えんのか」
「は。……道に迷うたか、獣に手間取っておるのでしょう。直に戻るかと」
団長はそう言ったが、その者らはとうとう戻らなかった。
次に、馬が怯えた。
理由もなく前脚を踏み鳴らし、耳を伏せ、進むのを嫌がる。宥めても効かなかった。隊列は乱れ、行軍の足はみるみる鈍っていく。
そして、負傷だ。
崩れた雪庇に巻き込まれた兵の、ほんの浅い切り傷。それの、治りが遅い。祈祷庁長官が治癒の祈りを施しても、傷口は塞がるどころか、じわじわと熱を持ち、赤く腫れていった。
「おかしいですな。祈りは、確かに通したのですが……」
長官が汗を拭いながら首をひねる。だが、ランドは気にも留めなかった。長官とて人だ。手元が狂うこともあろう。
そうして、極めつけがきた。
その日の朝、長官は「今日は吉」と神託を告げていた。天候は穏やか、行軍に障りなし、と。
その舌の根も乾かぬうちに、空が急変した。鉛色の雲が垂れ込め、横殴りの吹雪が視界を白く塗り潰す。山肌のどこかで崩落が起こり、後方の補給隊が呑まれた。糧食も、替えの武具も、これで届かない。
「て、天候が急変したのです……!! 私の神託が外れたのではなく、天が気まぐれを起こしたのです!!」
長官が青い顔で言い訳を並べる。ランドは舌を打った。
「今日はどうも、ツキがない。斥候の一つや二つは、はぐれることもあろう。だが、次から次へと」
運が悪い。それだけのことだ。こういう日もある。
ランドはそう結論付けた。
魔物領域が近いのだ。多少、勝手の違うことも起きよう。天が気まぐれなら、力ずくで捻じ伏せるまで。次代の王の行軍が、雪と獣ごときに阻まれてなるものか。
だが、隣を進む団長は、先刻から眉間の皺を深くしていた。
「……妙ですな」
低く、団長が呟く。
「いつもであれば、この手の崩落は、事前に避けられていたはず。行軍が、これほど乱れることもなかった。まるで、備えが……」
言いかけて、団長は口を噤んだ。その先を、うまく言葉にできぬらしい。歴戦の勘が、鼻の奥で警鐘を鳴らしている。それでも、その正体を掴みきれずに、彼はただ黙り込んだ。
やがて、森が見えてきた。
北方の原生林。そのはずだったが──木々の梢は黒い霧に沈んでいる。
墨を溶かしたような霧が、幹の間を這い、枝々に絡みつき、森そのものを内側から呑もうとしていた。日の光すら、その黒には届いていない。ひと足踏み入れれば、方角を見失うのは目に見えていた。
(なんだ、あの霧は……)
薄ら寒いものが背を撫でた。
だが、ランドはそれを、頭を振って払い落とす。霧の一つや二つ、北の森なら珍しくもない。臆したと思われては、次代の王の名折れだ。
「殿下」
団長が馬を寄せた。その顔から、もう笑みは消えている。
「……一度、退くべきかもしれませぬ。今日の森は、いつもと違いまする。長年戦場を踏んでまいりましたが、これほど嫌な気配は覚えがありません」
「はっ」
ランドは鼻で笑った。
「貴様まで、あの無能の妄言に毒されたか。次代の王が、霧ごときに、魔物如きに背を向けて逃げ帰れと?
諸侯に、なんと申し開きをする」
「それは……」
「団長ともあろう者が、臆病風に吹かれおって。見損なったぞ」
ランドの手厳しい言葉に、団長はしばし口を引き結んでいた。言いかけて、だがその言葉は喉の奥へと呑まれていく。
歴戦の武人としての勘と、王太子の面前で退けと言い張ることの重さ。その狭間で、彼は結局、頭を垂れた。
「……いえ。出過ぎたことを、申しました」
引き下がる団長に、ランドは満足げに頷いた。
これでいい。武人は、黙って剣を振るえばよいのだ。案ずるのは王の役目。そして王は、退かぬ。
その森へ、隊が踏み入った。
黒い霧が、たちまち一行を呑み込んだ。数歩先も見通せない。松明の炎すら、その黒の中では頼りない滲みにしかならなかった。隊列は間延びし、兵と兵の間隔が空いていく。
「隊列を乱すな! 前の者に、遅れるな!」
団長の号令が、霧の中でくぐもって響く。
その声が、途中で断ち切られた。
「──ぎゃっ」
悲鳴が響いた。それも、隊の後方から。
ランドが振り返ると、霧の奥で黒い影が蠢いていた。
異形だ。木々の影から、音もなく、隊の背後へと回り込んでいる。四つ足のもの、地を這うもの、人の背丈を超えるもの。姿かたちはばらばらで、けれど、どれも尋常な獣ではない。
戻らなかった斥候の行方が、そこで知れた。彼らは道に迷ったのではない。この闇の中で、これらに削られていたのだ。
「て、敵襲──!」
「囲まれているぞ! 前も、後ろも!」
聖騎士たちが浮き足立つ。
奇襲だった。備えのないところを四方から突かれた。歴戦の団が、霧に目を塞がれ、陣形を組む間もなく崩されていく。
ひとりの聖騎士が、盾を構えて異形の突進を受け止めた。だが、すぐに罅が走る。堅牢なはずの聖騎士の盾に蜘蛛の巣めいた亀裂が奔り、次の一撃で呆気なく砕け散った。盾の破片が雪に散りゆく。
「馬鹿な……! 聖騎士の盾が、砕けるだと……!?」
ランドの声が掠れた。
負傷者が続出する。長官が慌てて治癒の祈りを唱えるが、やはり通らない。血は止まらず、傷は塞がらなかった。倒れた兵は、倒れたまま。備えていれば防げたはずの奇襲に丸腰同然で突っ込んだ、その結果だ。
そして、ランドはそれを目に留めた。
異形の群れの、そのいくつか。首に、あるいは胸に、黒い杭のようなものが打ち込まれていた。首輪めいたそれが、脈打つように、どくどくと蠢いている。生きた獣に無理やり打ち込まれた、異物。
その黒。濡れたように粘つく、その質感。
見慣れぬ魔物だ、とランドは思った。北の森には、こんな種もいるのだろう、と。
それ以上は考えなかった。考える余裕も、なかった。
(脈打つ黒い杭だと……そんなもの、聞いたことも──)
その折、霧の奥で声がした。
笑い声だ。低く、粘つくような、愉しげな声。魔物の咆哮ではない。人の、笑い声である。この地獄を、どこか高みから見物して、心底おもしろがっているようだった。
「……誰だ!? そこにいるのは、誰だ!」
ランドは剣の柄に手をかけて叫んだ。だが、返るのは霧の沈黙だけである。
幻聴だ。そう己に言い聞かせた。混乱のあまり、耳がおかしくなっているのだ。こんな霧の底に、笑う者などいるものか。
それでも、その笑い声は、いつまでも耳の奥にこびりついて離れなかった。




