第12話 王太子の遠征、失敗
もう、支えきれなかった。
崩れた陣形は、二度と組み直せない。兵は散り、倒れ、霧に呑まれて数を減らしていった。次代の王としての初陣は、たった半日で無様な敗走へと姿を変えていた。
「て、撤退! 撤退だ! 森を出るぞ!」
ランドは喉を嗄らして叫んだ。栄光の行軍は、我先にと逃げ惑う烏合の群れに成り果てている。
その、退き際だった。
先頭に掲げられていたはずの、王太子の紋章旗。竜と剣を象り、朝には誇らしげに翻っていたそれが、旗手もろとも異形に薙ぎ払われ、地に倒れた。
泥濘の中へ。雪と血と、踏み荒らされた土の混じったその泥の中へ、王家の紋章が沈んでいく。逃げ惑う兵の足が、その上を幾度も踏みつけていった。
金糸の竜が、泥に汚れる。剣が、踏みにじられた。
ランドは、それを見ていた。見て──そして、拾えなかった。
己の旗が地に堕ちるのを、泥に沈むのを、踏み躙られるのを、ただ鞍上から、指をくわえて眺めていることしかできなかった。拾いに戻る余裕など、どこにもない。生き延びること。今はそれだけで精一杯だった。
森を抜けた頃には、聖騎士団はその半ばを失っていた。
雪原に、傷ついた兵が転がる。呻き声と血の臭い。誰の顔にも、もう戦意はない。あるのは、生き延びたことへの虚脱と、これから王都でどう咎められるか、という怯えだけだった。
敗走の陣で、ランドは拳を握りしめていた。
認められなかった。この無様な敗北を。次代の王たる自分が、魔物如きに敗れた、という事実を。
だから、こう叫んだ。
「おのれ……! これは、あの祈祷師の呪いだ!」
ランドの声が、雪原に響き渡る。
「あの無能め、追放される間際に、敗北の神託などと、縁起でもない言葉を残しおって! あの呪いの言葉が、我らの士気を蝕んだのだ! でなければ、我が聖騎士団がこんな体たらくに陥るものか!」
因果は、完全に逆しまだった。
ルカは警告した側だ。進むな、退けと、身を挺して告げた側だった。それを追放し、進軍を強行したのは、他ならぬランド自身。だが、ランドの中ではそうならない。あの無能の呪いのせいで負けた。そう信じて疑わない。己の判断の誤りだけは、天地がひっくり返っても認めるわけにはいかなかった。
長官が、すかさず追従する。保身の匂いを敏感に嗅ぎつけて。
「さ、左様でございます!あの者は、やはり不吉を呼ぶ者だったのです。災いの口を持つ者を、そばに置いていたことが、そもそもの過ち……いえ、追放して、正解でございました!」
ランドは、その言葉に何度も頷いた。
そうだ。悪いのは、あの祈祷師だ。呪われ、災いを呼ぶ、あの無能だ。
ただ一人、団長だけは何も言わなかった。
雪原の彼方を見据えたまま、黙り込んでいる。
ランドはそれを、気に止めなかった。
*
伝令が駆け込んできたのは、敗走の陣を立て直す間もない、その最中だった。
「殿下! 殿下に、火急の報せが……!」
北方辺境からの報せだという。
こんな時に、と苛立ちながら、ランドは伝令を近くへ呼んだ。辺境といえば、あの〝呪われ姫〟の砦のある方角だ。どうせ、また泣きつきの救援要請だろう。支援を寄越せ、援軍を送れ、と。今の王都に、そんな余裕があるものか。
「なんだ。手短に申せ」
「は……!! それが……北方辺境砦が、魔物の群れの襲撃を退けたとのことでございます」
ランドは片眉を上げた。
「……ほう。あの吹けば飛ぶような砦が、よく凌いだものだ。で、それがどうした」
「畏れながら……その戦にて、第三王女イリア殿下が、王家の神剣らしき力を、発現なさったと……」
ランドの手が止まった。
「神剣、だと!?」
あり得ない。イリアが佩いているのは、赤茶けた、錆だらけの剣だったはずだ。継ぐ資格はあれど、呪いに蝕まれ、その力を失った、名ばかりの神剣。それが今さら、白銀に?
「馬鹿な。あの錆びた剣が、光っただと? そんな戯言があるものか!」
「そ、それが……その勝利には、王都を追放された祈祷師が関わっていた、と……その者の名は、ルカ、というようで」
その名が伝令の口から転がり出たところで、ランドの中で時が止まった。
「ルカだと!? あの無能か!」
ルカ。ルカ=エルネスト。
三年、聖杯に映らなかった男。針ひとつ動かせなかった、無能。このランドが災いを呼ぶ口だと王都から追放してやった、あの男である。
その男がよりにもよって、自分がこの泥沼で惨敗した、まさにその日に。
勝っている。
(あの〝呪われ姫〟と無能祈祷師が、だと?)
理解が追いつかない。
王都が二重に切り捨てた者たち。要らぬと捨てた、呪われた姫と、無能の祈祷師。その二人が、自分が敗れたその日に辺境で勝利を掴んでいるという。
点と点が、ランドの中で繋がらなかった。
イリアの神剣が目覚めたことと、追放した祈祷師がそばにいたこと。その二つの間に引かれるべき線が、見えない。ましてや、あの祈祷師を追放したからこそ、自分がこの森で敗れたのだというその因果など、想像すら及ばなかった。
ただ、苛立ちと不快が募る。認めたくない得体の知れぬものが、腹の底でぐらりと蠢いた。
顔から血の気が引いていくのを、ランドは止められなかった。
「あんな無能が、なぜ」
呟きは、答えの出ない問いのままわ雪風に散った。
なぜ自分は敗れ、あの男は勝つのか。なぜ要らぬと捨てたものが、辺境で光を掴むのか。
わからない。わからないから、それは憎悪へと変わる。理不尽な、行き場のない憎しみに。因果を取り違えたまま、その熱だけが腹の底で、じりじりと募っていった。
「……殿下」
傍らで、祈祷庁長官がそっと囁いた。敗走の陣にあってなお、この男の目だけは、抜け目なく光っている。
「これは……見方を変えれば、好機やもしれませぬ」
「なに?」
「辺境が、神剣の力で魔物を退けた。……その戦果、王家のものとして、取り込んでしまえばよいのです。〝呪われ姫〟の手柄では、王家の威信に傷がつきましょう。されど、王家の神剣の力とあらば話は別」
長官は、舌なめずりするように続けた。
「そして──その祈祷師。追放した、ルカ=エルネストでございます。もしあの者に神剣を目覚めさせる力があるのなら……手放しておくのは、惜しいのでは? いっそ、王都へ連れ戻してしまわれてはいかがでしょう」
連れ戻す。その言葉が、ランドの憎悪の中に、ぽつりと落ちた。
追放してやった無能を、今さら連れ戻す。虫のいい話だと頭のどこかでは思った。だが、それであの男の力が王家のものになるのなら。辺境の勝利が、丸ごと自分のものになるのなら。
この敗北の、埋め合わせになる。
ランドの唇の端が、歪んだ形に持ち上がった。
それが笑みなのか、憎悪なのか、ランド自身にももう判じがたい。ただ、憎しみと埋め合わせへの欲だけを胸に、ランドは泥に沈んだ紋章旗を雪原の彼方にもう一度思い描いた。
あれを、拭わねばならぬ。この汚辱を、雪がねばならぬ。
その手立てが、よりにもよってあの無能の中にあるというのか。
凍てついた拳を握りしめながら、ランドはまだ気づいていなかった。自らが踏み出そうとしている一歩が、どこへ向かって続いているのかを──。




