第13話 姫様の過去
結界が戻ってから、砦の空気は目に見えて変わっていった。
まず、兵たちがよく眠るようになった。夜の見張りが半分で回るのだ。交代で寝台に就ける者が増え、朝の中庭に並ぶ顔からは、あの張り詰めた隈が薄れている。医務室の呻き声も減った。結界の加護が痛みを宥めるおかげで、傷の治りが早い。
ルカへの当たりも、少しずつ丸くなっていた。すれ違いざまに「祈祷師様」と会釈する兵が増え、中には井戸端で世間話を持ちかけてくる者までいる。あのガングでさえ、相変わらずの仏頂面ではあるが、食堂で気づけばルカの隣に腰を下ろしていた。何を話すでもないが、一緒に飯を食ってくれる。それだけのことが、ルカにはくすぐったかった。
(居場所って……こういうものなのかな)
王都では、ついぞ知らなかった手応えだ。
そして、日の務めが終わり、砦が寝静まる頃。ルカには、もうひとつ日課があった。
それは、人払いをしたイリアの執務室で行われる。灯りは蝋燭が一本きり。
その頼りない炎の下で、ルカはイリアの呪いに禊祷を施していた。彼女の身体に巻きついた黒い鎖を、少しでも宥めるための、夜ごとの手当てだった。
禊祷でできるのは、締めつけを緩めることまで。鎖を砕くことはできない。あの村で一本を砕いたのは、彼女の誓いとルカの祈りが戦場で共鳴した、あの一度きりの出来事だった。日々のこれは、治すための術ではない。ただ、食い込む鎖の痛みをそっと和らげてやるだけの、ささやかな手当てだ。
「今夜もお願いしますね。私の祈祷師様」
イリアが少し冗談めかして言う。その呼び方には、照れ隠しも混じっているのかもしれない。恥ずかしい気持ちは、ルカにも何となくわかる。
「うん。じゃあ、失礼するよ」
答えて、ルカは彼女の傍らに膝をついた。慣れてきたとはいえ、この近さにはいまだに落ち着かないものがある。
手をかざせば、指先が彼女の肩に触れそうになった。ふわりと、あの花に似た匂いが鼻を擽る。
(心臓に悪いなあ)
内心でこぼしつつ、ルカは目を閉じて祈りを通していく。
すると、鎖の一本がぎちりと反発した。
「──んっ」
イリアが小さく息を詰めた。眉ひとつ動かさない。その代わり、膝の上で握った拳が白くなっていた。痛みを堪える、彼女の癖だ。
ルカは手を止めた。
「ごめん。痛かった?」
「平気です。いつものことですから」
いつもの笑み。柔らかく、穏やかで、非の打ちどころのない微笑み。
でも、ルカにはもうそれが仮面であることがわかってしまっていた。この人は、痛みも弱さも、そうやってすべて笑みの下に仕舞い込むのだ。隊長として、姫として。
蝋燭の芯が、じじ、と鳴った。
ずっと訊けずにいたことがある。あの雪原で鎖を視た、あの日から。踏み込む無礼だと、呑み込んできた問い。それでも、今夜は口にした。
「訊いてもいいのかな?」
声が少し掠れた。
「この呪いのことについて、教えてほしいんだ。イリア様が、その……どうして、こうなったのか」
イリアの睫毛が、かすかに揺れる。
「嫌なら無理に話さなくていいよ。ただ……僕は、この鎖を断つって決めてるからさ。だから、知りたいんだ。敵のことを」
「……ふふっ。敵、ですか」
少しの沈黙のあと、イリアは吐息を漏らすように笑った。
その笑みは、いつもの仮面とはどこか違っていた。困ったような、けれど、ほんの少し救われたような。
彼女は窓の外へ顔を向ける。硝子の向こうで、雪が音もなく降っていた。
「長い話に、なりますけど……聞いて、くれますか?」
それからイリアは、ぽつぽつと語り始めた。
その声は、いつもの凛としたものより少しだけ柔らかい。遠い日を懐かしむような、そんな響きがあった。
彼女は、ルーヴェンハルト王家の三番目の姫として生まれた。幼い頃から剣の才があったという。上の兄姉たちよりも、誰よりも。
「神剣は、持ち主を選ぶんです。王家の血の中から、たったひとりだけを。それで選ばれたのが、私でした。父は……泣いて、喜んでくれて」
幼いイリアが、初めて神剣の柄に触れたとき。白銀の刃が、微かに鳴いたのだそうだ。
宮廷がざわめいた。直系の血の中でも、この姫こそが継承の最有力だと。
その頃の噂なら、ルカも知っている。王都の末端にいた自分の耳にすら届いていた。
剣才の姫。ルーヴェンハルトの誇り。いずれ神剣を継ぐ、光の姫君。そんな異名を、たくさん持っていた。
(そうだ……姫様は昔、そう呼ばれていたんだっけ)
王都の光の、ど真ん中にいた人。それが今、こんな雪と罅だらけの砦で、取り戻したばかりの神剣を佩いている。ふたつの姿は、うまく像を結ばなかった。
「父は、私にこう言いました。『民を守る剣であれ』と」
イリアの指が、腰の神剣の柄にそっと添えられる。
「私の誇りは、全部あの言葉から始まっているんです。剣の稽古も、騎士の礼も。……この畏まった話し方も」
そこで、彼女は少しだけ、悪戯っぽく笑った。
「意外でしょう? これ、生まれつきじゃないんですよ。民を守る者として、恥ずかしくないように。そう思って、身につけた話し方なんです。……もう癖になってしまって、抜けなくなっちゃいましたけど」
ああ、とルカは胸のうちで頷いた。
いつか彼女が言っていた、「昔からの癖」。その根が、今見えた気がした。あの丁寧な物腰は、彼女が幼い日に自分で自分に課した、誇りの形だったのだ。
だが、その光は長くは続かなかった。
イリアの声から、懐かしさの温度がすっと引いていく。
「継承の儀が、決まりました。私が十四歳のときですから、三年前ですね。神剣の御前で、正式に加護を授かる儀式。……国じゅうが、その日を待っていました」
蝋燭の炎が、ゆらりと傾ぐ。
「その儀式を目前にした、ある夜のことでした」
前触れは何もなかったという。
夜、イリアは突然に倒れた。焼けつくような痛みが、全身を貫いたのだそうだ。目を覚ましたとき、胸元には、見覚えのない黒い紋様がじわりと浮いていた。
そして。
「私の手の中で……神剣が、錆びていったんです」
イリアの声が、わずかに震えた。
白銀の刃が、指の間で赤茶けて曇っていく。輝きが片端から失われ、朽ちた鉄の色に沈んでいった。しかも、それを宮廷の皆が見ている前で。
「私の穢れが、剣に移ってしまったみたいに。……みんなの、見ている前で」
宮廷医が呼ばれた。祈祷庁の、高位の祈祷師も。けれど、誰にも原因はわからなかったそうだ。解呪も、もちろんできなかった。
「祈祷庁は、こう言いました。『これは、姫ご自身の資質の問題だ』と」
「……!」
ルカの胸の奥で、冷たいものがちりと灼けた。
資質の問題。数値に出ぬものは、無価値。自分を切り捨てたのと寸分違わぬ理屈だ。あの組織はルカを切り、そして、姫をも切ったのだ。
「噂は、一晩でひっくり返りました」
イリアが、自嘲的な笑みを零した。
「剣才の姫が、〝呪われ姫〟に。〝錆姫〟に。……廊下ですれ違うたびに、囁かれるんです。あれが、剣を錆びさせた姫だと」
継承の儀は無期延期。彼女は社交の場からも、遠ざけられていった。
「父は……だんだん、私と目を合わせなくなりました」
その一言に、責める色はない。ただ静かに、事実だけを置くような言い方だった。恨み言ではない、むしろ弱い人だったのだと、庇うような響きさえある。
そうして、彼女の辺境行きが決まった。名目は守備隊長への任命。実態は、体のいい厄介払いだった。
「でも、私はそれを受け入れました」
イリアの瞳に、ふっとあの強い光が戻る。
「どうせ追いやられるのなら、民を守れる場所へ。そう、自分から願い出たんです。……誇りだけは、渡したくなかったので」
そして、彼女は錆びた神剣を佩き続ける。周囲は嗤った。錆姫が、錆びた剣を下げている、と。それでも彼女は、錆びた剣を手放さなかった。
「たとえ錆びても、これは神剣です。……これを捨てたら、『民を守る剣であれ』と誓ったあの日の私まで、捨ててしまう気がして」
だから、と彼女は続けて、それから小さく首を振った。
「いえ……本当はただ、神剣に縋っていただけかもしれませんね。私を認めてくれたのは、この剣だけでしたから」
「姫様……」
ルカは、言葉を失っていた。
あの雪原の光景が、今、別の意味を帯びて甦る。
村で〈誓約祈祷〉を捧げたとき、錆が光の粒となって剥がれ落ちた、あの景色。あれは──錆が剥がれ落ちたのではなかった。三年ものあいだ封じられ、偽られ続けた彼女の誓いがようやく剥き出しになった、その音だったのだ。




