第14話 姫様の呪い
しばらく、蝋燭の爆ぜる音だけが部屋を満たしていた。
ルカは俯いて考え込んでいた。祈祷師として視てきたもの。触れてきた鎖の手応え。それらが頭の中で、一本の線に繋がっていく。
やがて、顔を上げた。
「イリア様……ひとつだけ、はっきりさせておくね」
声に迷いはなかった。
「あなたは、呪われたんじゃないよ。──狙われたんだ」
イリアが目を見開く。
「狙われた……? 私が、ですか?」
「うん。理由は、三つある」
ルカは、指を一本ずつ立てていった。
「ひとつ。その鎖は、精緻すぎるんだ。自然に湧いた呪いや魔物の穢れなんかでは、こんなに〝編まれた〟形にはならない。これは、誰かが……あなたの魔力の流れを隅々まで知り尽くした上で、わざと編み上げたものだよ」
二本目の指を、続けて立てる。
「ふたつ。時期だよ。よりにもよって、継承の儀の直前。神剣と姫様を結びつける儀式のぎりぎり手前に、そんなことが起こる?
さすがに、偶然にしては出来すぎてる。姫様の質からできたものだとするなら、有り得ないと言っていい。姫様が継承から外れて得をした人間が、きっとどこかにいるんだと思う」
名指しはしなかった。だが、その沈黙の中で、ルカの脳裏にもひとりの男の顔が浮かんでいた。あの嗜虐的な笑みを口の端に貼りつけた、男の顔が。
「そして、みっつ。この砦の結界石だよ。芯にあったあの黒い染みとあなたの鎖は、同じ質感の黒なんだ。同じ手のものだと思う」
イリアの表情が強張った。
「それって……」
「うん。つまり、呪いは三年前の一度きりで終わってない。姫様がこの辺境に来た今も。同じ誰かの手が、あなたの周りでまだ動き続けてるんだ」
言葉を、そこで一度切る。
「これは、災難なんかじゃない。ずっと続いている、はっきりとした悪意。僕は、そう思う」
三年間「原因不明」と言われ、「姫の資質」と切り捨てられ続けたもの。それに初めて、輪郭が与えられた。仕組まれたものだ、と。
それは、恐ろしい報せのはずだった。見えない敵が、まだ自分を狙っているのだから。
なのに、イリアの顔に浮かんだのは、怯えではなかった。
「私のせいじゃ……ないんですか?」
掠れた声で、彼女はそう零す。
その一言の中に、三年分の重さが、そっくり詰まっていた。
「うん。姫様のせいじゃないよ。神に誓って、断言できる」
ルカは、はっきりと頷いた。
その途端、張り詰めていた糸がふつりと切れたように。いつも真っ直ぐな彼女の背が、ほんの少し傾ぐ。仮面の笑みが剥がれ落ちて。その下から現れたのは、ルカがまだ知らない、頼りない素顔だった。
ぽつり、とこれまで決して口にしなかった言葉が、彼女の口から零れ始める。
「……怖かったんです。ずっと」
イリアの声は、次第に涙で滲んでいく。
「発作が起こるたびに、思っていました。次はもう剣を握れないかもしれない、皆を守れないかもしれないって」
膝の上の拳が、震えていた。
「でも……誰にも言えなくて。だって、私が弱音を吐いたら、また嗤われるじゃないですか。それに、隊長が怯えていたら皆も不安になってしまいます。だから……」
姫として。隊長として。
弱音を吐ける場所が、この三年、彼女にはどこにもなかったのだ。
そこまで言って、イリアは、ふっと力なく笑った。
「……おかしいですね。ルカの前だと、つい弱音を吐いてしまいます」
その碧い瞳の縁に、光るものが盛り上がる。堪えて、堪えて。それでも、ひとすじだけ、頬を伝って落ちた。
彼女は慌てて、それを指で拭おうとする。
ルカは、何も言わなかった。
気の利いた慰めも、解決の助言も、簡単に口にできるわけがない。それは、言葉でどうにかできる重さではないと、わかってしまったから。ただ黙って、聞いていた。彼女の弱さを、零れた涙を、そのまま受け止めるように。
(……三年、か)
ルカが聖杯の前で、無能と嗤われ続けたのも三年だった。
嗤われる痛みなら、ルカも知っている。けれど、光の真ん中で独り抱える痛みは、また別の冷たさをしているのだろう。
しばらくの沈黙のあと、ルカは静かに口を開いた。
「イリア様。……僕、前に、心の中で決めたことがあるんだ」
初めて鎖を砕いた、雪の村で。誰にも言わず、胸の内だけで立てた誓い。それを今、初めて本人に向けて、声にする。
「この鎖は、全部僕が断ち切るよ。時間はかかるかもしれないけど……でも、必ず」
根拠のない気休めではない。既に一本を砕いた、その自負から出てくる言葉だった。
「一本は砕けたんだ。だったら、残りが砕けない道理はないよ」
それから、ルカは少し口ごもった。柄にもないことを言う、という自覚が頬を熱くする。それでも、しっかりと口にした。
「それから……その。僕の前では、強くなくてもいいよ」
「えっ?」
イリアが顔を上げた。
「弱いところは、全部僕の前で出して。僕は戦えないからさ。せめて、そこぐらいは引き受けさせてよ」
剣を持てない自分が、代わりに差し出せるもの。それは、彼女が弱さを吐き出せる場所だった。
「ルカ……」
イリアはしばらくルカを見つめていた。涙の名残を、目尻に光らせたまま。
それから、くしゃりと笑う。あの、花の綻ぶような笑顔で。今夜のそれは、これまでのどれよりも幼くて、無防備だった。
「……ずるい人ですね、あなたは」
涙声のまま、そう言って。
「そんなふうに言われたら……もう、あなたの前でしか泣けないじゃないですか」
「あ! い、いや、その……そういうつもりじゃッ」
ルカは、どぎまぎして目を逸らす。
「ふふっ」
イリアは涙を指で拭い、それからまっすぐルカと向き合った。
「わかってますよっ。これからも、よろしくお願いしますね。私の……」
そこで、彼女はほんの少しだけ、言葉を足した。
「……私だけの、祈祷師様」
その一言に、ルカの心臓が、とくんと大きく跳ねた。
私だけの、なんて。そんな言い方をされたら、変な意味に聞こえてしまうではないか。
ルカは、赤くなった顔を蝋燭の炎から背けた。イリアがその様子に、今度はいつもの調子でくすくすと笑っている。
泣いていた人が、もう笑っている。その切り替えの早さがこの人らしくて、ルカは少しだけ、救われた心地がした。
禊祷を終えると、イリアに休むよう告げて、ルカは執務室を辞す。
冷えた廊下を歩きながら、窓の外の北の空へ顔を向けた。
結界を毎晩〝視て〟いるルカには、わかることがある。ここ数日、結界の外縁に触れる魔物の気配が、少しずつ増えていた。夜ごとの遠吠えの数。壁の向こうで蠢く、影の密度。それらが明らかに濃くなっている。
そして、北の空には、またあの黒い鳥の群れが、散らずに渦を巻いていた。追放されたあの日、王都から見上げたのと同じ影だ。
ふと、さきほどの自分の言葉が甦った。
これは、ずっと続いている悪意だ、と。
結界石に黒い染みを植えた手は、まだこの辺境のどこかで動いている。ならば、次に来るものは、夜襲のような小さなもので済むだろうか。
背筋を、冷たいものが撫でた。
それでも、とルカは思う。
あの人の弱さを預かったのだ。誰にも見せなかった涙を、この手に受けた。ならば、もう退く理由はどこにもない。
ルカは北の空に背を向けて、自分の部屋へと歩き出した。廊下の窓の外では、淡い光の網が、今夜も静かに砦を包んでいる。二人で取り戻した、あの灯りが。




