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第15話 異変

 その朝、ルカは日課の〝視〟で、思わず息を呑んだ。

 結界の外縁に触れる魔物の気配。数日前まで、それは点だった。ぽつりぽつりと壁の外を彷徨う影。数えられる程度のものだ。

 だが、今朝は違っていた。点が繋がっている。とはや面になっていた。北の地平の裾を、黒いものが帯のように埋めているのだ。


(……冗談、だろ?)


 背筋を、冷たいものが這い上がる。昨夜の遠吠えの多さも、これでようやく腑に落ちた。

 そのとき、砦の門が慌ただしく開いた。

 北へ出ていた斥候が、転がり込むように駆け戻ってくる。満身創痍だった。頬が裂け、肩当てが割れ、馬の脇腹からは湯気の立つ血が滴っている。ここ数日、ガングが偵察の数を増やしていた。その一人だ。


「隊長はッ! 隊長は、どこだッ……!?」


 叫びながら、斥候は鞍から崩れ落ちた。

 駆け寄ったガングが、その身体を抱き留める。


「落ち着け。まずは水を飲め。……話は、それからだ」


 差し出された革袋の水を、斥候は貪るように呷った。喉を鳴らし、幾度も咳き込み、それから震える声を絞り出す。


「北の谷が……真っ黒でした」

「黒い?」

「魔物です。魔物で、埋まってて……数は、途中で数えるのを、やめました。数えきれる数じゃ、なかったんで」


 その場の空気が、ずしりと重くなった。

 だが、斥候が本当に言いたかったのは、そこではないらしい。彼は青ざめた顔で言葉を継いだ。


「おかしいんです。あの群れ……群れとして、動いてない」

「どういうことだ」

「まず、種類がばらばらでした。狼もいる、鬼もいる、地を這うのもいる。……普段なら、あいつら互いに食い合うはずでしょう? なのに、争いもせず、同じ方向へ、同じ速さで、静かに進んでいたんです!」


 ガングの眉が寄った。

 斥候は、喉の奥から掠れた声を押し出す。


「あれは、ただの移動じゃありません。獣の群れじゃない。……進軍です。軍隊の、進軍でした」


 その一言が、ルカの胸の奥で嫌な形に響いた。

 昨夜、自分が口にした言葉が、そっくり跳ね返ってくる。ずっと続いている、はっきりとした悪意だ、と。その手が、今度は搦め手ではなく、正面から真っ直ぐにやって来る。

 ルカは壁際に寄り、目を閉じて、北を〝視た〟。

 黒い帯の、その中心。魔物たちの奥に、ひときわ濃い気配がひとつ蟠っている。どくどくと脈打つ、黒いもの。あの鎖と、結界石の染みと、同じ質感の。


(……やっぱり。核がいるんだ)


 ぞくり、と項が粟立った。

 あれが、この群れを一つに束ねている。獣を獣でなくしている、その大本だ。

 軍議は、それから間もなく開かれた。

 イリアの執務室に、ガングと主だった兵、そしてルカが集まる。広げた地図の上に、北の谷が黒く塗り潰されていた。

 ガングが、砦の可動兵力を告げる。負傷から復帰した者を掻き集めても、せいぜい数十。対する大群は、斥候の見立てを控えめに取っても、その十倍を優に超える。


「まともにぶつかれば、勝負になりやせん」


 ガングはそう言い切ってから、地図の上に指を置いた。


「ここは、籠城しかありますまい。祈祷師さんが直してくれた、結界もあるしな。あれがあれば、この砦は保つ。下手に打って出るのは、愚策かと」


 正論だった。取り戻したばかりのあの結界が、ここで、戦略そのものになっている。ルカは少しだけ、誇らしいような、面映ゆいような心地になった。

 だが、イリアは静かに首を振り、地図の一点を指した。大群の進路。その線の上に、いくつもの小さな印が並んでいる。


「では、ガング。ここは、どうします?」


 彼女の指先が、印を辿った。


「グラッテの村。ノルンの村。……この進路の上にある村々を、全部見捨てるというのですか?」


 ガングが息を詰めた。


「……ッ」

「砦に籠れば、砦は守れるかもしれません。ですが、村は呑まれます。民には、逃げる時間すらないでしょう」

「ですが、隊長。避難させるにしても、間に合いませんぜ! あの足の速さでは……」


 姫騎士はまっすぐにガングと向き合った。その瞳に、迷いはない。


「それなら、私たちが時間を作ればいいのでは?」

「作る、と言いますと……」

「民には、この砦まで来てもらいます。この結界の中にさえ入れば、皆助かりますから……そのための時間を、私たちが稼ぐんです」


 勝つための戦ではない。時間を買うための戦だ。

 少数で野戦に出て、大群の足を止め、遅らせる。その隙に、民を光の網の内側へ逃がす。

 無謀な作戦だ。だが、村を見捨てないという一点を守るなら、それしか道はなかった。

 ガングはしばらく唸っていた。反論の言葉を探して、けれど見つけられずに。彼もまた、辺境の男だ。あの村々の、一軒一軒の顔を知っているのだ。


「……仰せの通りに」


 やがて、彼は深く頭を垂れた。

 方針が固まりかけたところで、若い文官が遠慮がちに口を挟んだ。


「畏れながら……王都へ、救援の早馬は、いかがいたしますか」


 部屋が、しんと静まった。

 誰も、何も言わない。皆の頭に、あの返書が浮かんでいるのだ。数か月遅れで届いた、あの冷たい一文が。


『現有戦力をもって、対処せよ』


 救援は、来ない。この場の全員が、それを骨身で知っていた。

 それでも、イリアは言った。


「出してください」


 凛とした声だった。


「……返事は、来ないでしょうけれど」

「し、しかし、それでは……無意味では?」


 文官が、戸惑ったように問い返す。姫騎士は静かに首を横に振った。


「いいえ。無意味ではありません。記録は残りますから」

「記録、ですか」

「ええ。辺境が正しく危機を報せ、正しく救援を求めた。それでも王都は、応えなかった。……その事実が、書き残る。今は、それで十分です」


 期待ではなく、記録として。

 求めたという証を、歴史の側に残しておく。それが通らなかったとき、誰が責めを負うべきだったのかを、後から誰にでも指させるように。

 ルカは、その横顔の傍らで、先夜とは別の場面を思い出していた。あの冷たい通達を前に、自分が口走った言葉を。


(僕たちだけで守る……なんて、偉そうに言ったけど)


 あの言葉の重さが、今から本当の意味で試される。口先だけだったのかどうか、これから、この北の雪原が答え合わせをするのだ。

 軍議が終わると、砦は一気に動き出した。

 村々へ、伝令が飛ぶ。ほどなくして、街道の向こうから民の列が続いてやって来た。荷を背負った女、泣きじゃくる子を抱えた母、痩せた牛を引く老人。雪を踏み、白い息を吐き、それでも懸命に、この砦を目指してくる。

 その中に、見覚えのある顔があった。

 グラッテ村の、老人だ。あの日、村を襲ったオーガをイリアが斬り伏せたあと、ルカに向かって、皺だらけの手を合わせてくれた人。老人はルカを見つけると、涙で顔をくしゃくしゃにして、また同じように両手を合わせた。


「祈祷師様……あんたが、砦を直してくれたって聞いた。おかげで、逃げ込む先がある。……ありがてえ。ありがてえことだ」

「いえ、そんな。頭を上げてください」


 ルカは慌てて手を振った。どう応えていいのか、わからなかった。

 砦の中は、みるみる民で溢れていく。食料はもとより乏しい。備えも足りない。それでも、淡い光の網に包まれたこの砦は、凍てついた雪原の中で、ただ一つの灯りだった。逃げ込める場所。生き延びられる場所。

 その様子を、イリアが隣で眺めていた。そして、ぽつりと漏らす。


「見てください、ルカ。あなたが結界を直してくれたおかげで、皆に道を示せました」

「僕は、石を撫でただけだよ。逃げてこられたのは、みんなの足が速かったからさ」

「ふふっ。また、手柄を譲るんですね?」

「事実を言っただけだって」


 軽口を返しながら、ルカの胸の奥には確かな手応えがあった。


(僕の祈りが……この人たちの、背中を守る壁になってるんだ)


 剣は振れない。魔物の一匹も斬れない。それでも、自分が三週間かけて撫で続けた石が、今、何百という命を抱く器になっている。そのことだけは素直に、じんと胸に沁みた。


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