第16話 姫様との約束
その日の夕刻、出撃の編成が告げられた。
イリアが直率する、少数精鋭。名を呼ばれた者たちが、次々と前へ出る。
ルカの名は、そこになかった。
砦に残り、結界の維持と避難してきた民の保護に当たる。それが、ルカに与えられた役目だった。
配置としては、完璧だ。結界を保てるのはルカしかいないし、民の避難はまだ続いている。砦こそが、最後の生命線だ。どこを取っても、反論の隙がなかった。合理的で、正しい。
正しすぎるがゆえに、ルカには、その下にあるものが透けて見えてしまった。
その夜。人が引けたのを見計らって、ルカはイリアの傍らに立った。
「……編成の中に、僕の名前が、なかったね」
「あなたには、砦をお願いしたいんです。結界の維持は、あなたにしかできません。それが、最も合理的で──」
「イリア様。本当に、それだけ?」
問うと、イリアの言葉が途中で止まった。
彼女は目を伏せる。しばらく、蝋燭の炎を見つめていた。それから、絞り出すように声を落とす。
「……この戦場で、あなたを守り切る自信が、ありません」
「それは、隊長としての意見?」
「それは……ッ」
イリアの声が、少しずつその形を変えていく。凛とした隊長の声から、もっと素の、頼りない声へ。
「私が……嫌なんです。ルカを、失いたくありません」
言ってしまってから、彼女ははっと口をつぐんだ。
自分の言葉に、自分で狼狽えている。頬に朱が差していた。慌てて顔を背け、けれど、逃げ場を探すように、その手が神剣の柄を握りしめる。
ルカの心臓が、またあの調子で跳ねた。
けれど、ここでルカも退くわけにはいかない。
その気持ちが嬉しいからこそ、尚更だ。
「僕も、連れて行ってほしいんだ」
「い、嫌です。理由は、今言ったじゃないですか」
「うん。でも、それは姫様個人の意見だよね。隊長としての意見なら、違うはずだ。そうだろ?」
イリアが言葉に詰まる。ルカは静かに、けれど一つずつ、理由を積んでいった。
「まず一つ。僕の祈りは、姫様の誓いが燃えてる場所でこそ、一番深く届く。あの村でもそうだった。砦から祈るのと、姫様の隣で祈るのとじゃ……鎖に届く深さが、全然違うんだ」
これは、ルカ自身、あの戦いで身に沁みたことだ。誓約の祈りは、遠くからでは痩せる。誓いの熱の、すぐ傍で燃やしてこそ、その本領が出ると思えた。
「それから、二つ目」
ルカは、北の方角へ顔を向けた。
「あの群れの真ん中に、黒く脈打つ〝何か〟がいる。あれの正体と、核が視えるのは……たぶん、僕だけだ。呪具で操られてる群れなら、その核を断てば束ねてる糸が切れて崩せる。逆に言えば、僕の目がなかったら、時間稼ぎのはずの戦いがただの消耗戦になる。姫様の兵が、無駄にすり減るだけになるんだよ」
イリアの睫毛が揺れた。
そして、ルカは最後の一つを口にする。先夜、自分が彼女に告げた言葉を、そのまま自分自身に突きつけるように。
「それに……言ったよね。あなたの弱いところは、全部、僕が引き受けるって。姫様が一番危ない場所に立つのに、僕だけ安全な壁の中でぬくぬくしてるなんて。そんなの、できるわけないよ」
ルカは、まっすぐに彼女と向き合った。剣を持たない、その両手をそっと握り込んで。
「僕は、剣を振れない。でも──あなたのために、祈れる」
「ルカ……」
イリアは何も言えずに、ルカを見つめ返していた。
その瞳が、ゆっくりと潤んでいく。反論の言葉を探して、けれど、もうどこにも見つからないというように。
やがて彼女は、深く長い息を吐いた。
「……本当に」
声が、震えていた。
「本当に、ずるい人ですね。あなたは」
それは、敗北の宣言だった。同時に、承諾でもあった。
ただし、隊長としての格は手放さない。彼女はすぐに顔を引き締めて、条件を突きつけてくる。
「いいですか。あなたは、陣の中央から、一歩も動かないこと。護衛には、ガングの班をつけます。少しでも危うくなったら、迷わず退いてください。……この三つを守れないなら、やっぱり、置いていきますからね」
「うん。約束するよ」
ルカは素直に頷いた。守られる場所から、守る場所へ。戦えない自分が、それでもあの人の隣に立つための、細い一本の道が、そこに通った気がした。
*
出撃は、明くる未明と決まった。
夜明け前、ルカは自室で静かに支度を整えた。
祈祷陣を刻むための、小ぶりの刀。刃こぼれがないか、指で確かめる。清めた水を詰めた、革の水袋。腰に括りつけると、その重みが、あの村の戦いを生々しく甦らせた。血の一滴で陣を描き、典礼文を唱えた、あの朝を。
(……また、あの場所に立つんだな)
怖くない、と言えば嘘になる。膝は、少しだけ笑っている。それでも、指はちゃんと動いた。
中庭には、出撃部隊が整列していた。白い息が、篝火の明かりの中でいくつも立ち上っている。見送る兵たち。柵の内側から祈るように手を合わせる、民の顔。
ガングが、ルカの隣を通りざま、ぶっきらぼうに言った。
「おい、祈祷師。陣から一歩も動くなよ。てめえが倒れたら、この結界ごと砦が終わる。……守ってやるから、勝手に死ぬんじゃねえぞ」
その声は相変わらず無骨だった。だが、そこに滲むものが、以前とは別のものになっている。承認と、庇護と。
「はい。ありがとう、ガングさん」
北の地平を、ふと見上げた。
夜明け前の薄闇。その果てで、地平線が黒く盛り上がって見える。山がひとつ、増えたかのように。地の底から、ずう、ずう、と遠い足音のような地鳴りが伝わってくる。
あれが、来る。
ルカの隣で、イリアが白銀の柄に手を添えた。ルカは祈りの指を静かに握り込む。
並び立つ、二人。
剣を持つ姫と、剣を持てない祈祷師。
(僕は、戦えない)
白い息を、ひとつ吐く。
(それでも、この人の隣でなら……)
東の空が、藍を、ほんの少しだけ薄めはじめていた。
夜と朝の、境目。祈りが、いちばん通る刻限が近い。
やがて号令がかかり、小さな部隊は、雪を踏んで北へと動き出した。




