第17話 血戦
夜明け前の雪原に、少数の部隊が布陣していた。
場所は谷の口。切り立った岩壁が左右から迫り、街道がぐっと細くなる、その一点だ。まともにぶつかれば数の暴力に呑まれる。だが、この隘路でなら、大群も横に広がれない。狭い口へ、一度に来られる数を絞る。少数で足を止めるための、たった一つの理屈が、この地形だった。
ルカは、陣の中央にいた。
膝をつき、雪を払い、清めた水で描いた祈祷陣の上に座している。周囲をガングの班が固めていた。彼らの背が、ルカと、北から来るものとの間に、壁のように連なっている。
やがて、それは来た。
地平の裾が、黒く盛り上がる。昨日〝視た〟あの黒い山が、今、確かに動いていた。狼の群れ。鬼の巨躯。地を這う、名も知れぬもの。種の違うものたちが、争いもせず、怯えもせず、一糸乱れぬ列をなして、真っ直ぐにこちらへ寄せてくる。
獣であれば、あるはずのもの。餌を巡る諍い、格上への怯え、そのすべてが、その群れには無い。無いということ自体が、ぞっとするほど不気味だった。
地鳴りが、腹の底を揺らす。雪が、細かく跳ねていた。
「……これが、噂の大群か」
ガングが、剣を抜きながら喉の奥で笑った。
「ハッ。笑えねえな」
その前に、イリアが進み出る。白銀の神剣を抜き、雪原に立った。彼女の声が、凍てついた空気をまっすぐに貫く。
「皆さん、聞いてください」
振り向いた横顔に、怯えはなかった。
「私たちは、勝つ必要はありません。……ただ、民が逃げ切るまで、時間を稼げばいい。それだけです」
剣の切っ先が、静かに北を指す。
「ここは、私たちの場所です。……一歩も、通しません」
ルカは目を閉じ、もう一度〝視た〟。
黒い群れの、その奥。ひときわ濃い気配が、どくどくと脈を打っている。あの鎖と、結界石の染みと、同じ黒。だが、今日のそれには、はっきりと〝意思〟があった。
こちらを、見ている。
あれが、この群れの心臓だ。
(……来る)
ルカは、震えかける指を握り込んだ。それでも、指は動く。
激突は、地響きとともに始まった。
真っ先に前へ出たのはイリアだった。白銀の刃が唸り、寄せてきた狼の群れを横一文字に薙ぐ。あの村で、砦の夜襲で見せた強さは、少しも衰えていない。一体、また一体と、彼女の剣が黒を裂いていく。
だが、いかんせん、数が桁違いだった。
一体を斬り伏せる間に、その隙間へ三体が湧く。斬っても、斬っても、黒は減らない。潮のように、際限なく押し寄せてくる。
少数精鋭は、隘路の狭さを頼りに粘った。岩壁を背にし、横へ回られぬよう身を寄せ、押し寄せる列を正面で受け止める。ガングの班は、陣を、その中央のルカを庇いながら、迫る牙を撥ね返していた。
ルカも、ただ座してはいなかった。
崩れかけた右翼に向けて、短い祈りを放つ。清めた水の膜が、味方と魔物の間に、薄い光の壁となって走った。攻撃ではない。守りだ。魔物の突進をわずかに逸らし、味方が退く一歩を稼ぐ。剣を持たぬ者にできる戦い方を、ルカは必死に手繰り寄せていた。
「隊長っ、右翼がッ……! 数が、多すぎますッ」
兵の悲鳴が飛ぶ。
「陣を下げるな!」
ガングが怒号で返した。
「祈祷師を死なせたら、そこで終わりだぞ! 踏ん張れ!」
時が経つほど、天秤は傾いていく。
そして、最悪の頃合いで、それは起きた。イリアの動きが、鈍る。
彼女の剣が空を斬った。一歩、踏み込みが遅れる。その白い頬に、脂汗が滲んでいた。
(鎖か……! 戦いが長引いているせいで、また食い込んできたんだ)
ルカの背が、ひやりと冷える。
戦えば戦うほど、彼女自身を苛む呪い。その残酷さが、最も守られてほしいこの場面で牙を剥いた。
「くっ……! こんな時くらい、しっかりしなさい!」
イリアが歯を食いしばって、自身に叱咤をする。動きの鈍った彼女へ、黒が殺到した。
じり貧だ。兵に、次々と負傷者が出る。このままでは、民が逃げ切る前に、この陣が保たない。
(まだだ。まだ、祈りの時じゃない)
ルカは、はやる心を抑え込む。血の祈祷は、一度きりの切り札だ。撃つなら、最も効く一点で。
(……でも、もう)
もう、そう長くは保たない。
天秤が決定的に傾きかけた、その頃合いだった。
群れの奥の、あの核が〝反応〟した。
どくん、と一際大きく脈打つと、黒い糸が、群れの中を稲妻のように走る。すると、操られた魔物の一部が、ぐるりと向きを変えた。イリアでも、兵でもない。まっすぐに、ルカの……祈祷陣の方へ。
(気付かれた!)
背筋が凍った。
核は認識しているのだ。自分を脅かしうる、ただ一人の祈祷師を。
黒い杭を首に打ち込まれた大型の個体が、地を蹴った。その杭は、先日この砦を襲った夜襲の魔物のものと同じ呪具だ。牙を剥いたそれが、まっすぐにルカへ突進してくる。
「ぬぅんっ!」
割って入ったのは、ガングだった。
全身で受け止め、押し返す。だが、大型個体の膂力は凄まじく、ガングの肩当てを爪が抉った。血飛沫が、雪に散る。それでも、彼は退かなかった。
「……ッ! この程度で、退けるかよ!」
血を流しながら、ガングが吼えた。
「おい祈祷師! 余所見すんな。てめえは、てめえの仕事をしろッ!!」
その怒鳴り声が、ルカの背をどんと押した。
恐怖で、心の臓が縮み上がる。だが、その極限で、ルカの〝視〟がかえって冴えた。
視える。黒い糸の、走り方。群れを一つに束ねる、その編み目。そして、その全部が集まる、たった一つの結び目。
核だ。
(あそこを断てば……全部、崩せる)
確信が、腹の底に灯った。
だが、核は群れの最も奥。並の一撃では届かない。あそこまで斬り拓くには、点の一刀では足りない。横へ、扇のように広がる、翼のごとき一閃でもなければ。
ルカは悟った。
今こそ、あの村の朝を超える祈りを捧げる時だと。〝隣に立つ〟と決めて、ここまで来た。その意味が、今、この一点で火を噴くのだ。
「……見えた! あの群れの、心臓だ! あそこを断てば──全部、崩せる!」
ルカは叫んだ。
弾かれたように、イリアが振り返って声を張り上げた。
「ルカ、どれですか!?」
「群れの、一番奥だ! 黒く脈打つ核が、こいつらを操ってる! あれを断てば、僕らの勝ちだよ!!」
「……承知しました!」
イリアは奥を睨みつけ、頷いた。
それと同時に、ルカは腰の小刀を抜く。
迷いなく、己の指の腹をつっと裂いた。血の一滴が、清められた陣の上へ、ぽたりと落ちる。
あの村の朝と同じ手順。同じ祈りの、始まりだった。
落ちた血が、陣の溝を朱く走る。祈祷陣が、脈を得たかのように淡く輝きはじめた。光の祝詞が文字となって、ルカの周りの宙へ、ゆらりと立ち昇っていく。
今日の祈りには、あの日には無かったものがある。
ルカは、陣から動けない。動かないと約束した。だが、核へ斬り込むために駆けるイリアの道筋が、ちょうど、この陣のすぐ傍を掠める。
祈る者と、誓う者。その二人が最も近づく、ただ一拍。
あの村では、たまたま同じ戦場に居合わせただけだった。だが今日は違う。互いを信じて、背中を預け合い、隣に立つと決めて、ここにいる。その差が、鎖への祈りの届きを、決定的に深くする。
ルカは目を閉じ、声を張り上げた。
「──聞き届けよ。名も知らぬ神々よ。
ここに、一振りの剣がある。
民のために抜かれ、凍える者に衣を掛け、名もなき命の一つとて、見捨てはしなかった剣が。
その担い手の誓いに、いっぺんの偽りもなし。
我、祈祷師・ルカ=エルネストが──これを、保証する」
光の祝詞が、いっそう輝きを増す。イリアの胸元で、黒い鎖が、ぎ、ぎ、と軋みはじめた。
「今ひとたび、砕けよ──魂を縛める、黒き鎖。
たかが一片の呪いごときに、この誓いは、屈しない!」
鎖の一本に、亀裂が奔る。
「翼を、与えたまえ──守るために振るわれる、その刃に!!」
ぱきん、と澄んだ音を立てて、鎖の二本目が砕け散った。
あの村で一本目が砕けた、あの音の、まぎれもない続きだった。
「天へ、届け。地を、薙げ。
この人の行く手を阻むもの、その悉くを──〈誓約祈祷〉!!」
神剣が、応えるように鋭く唸った。
(この人の隣でなら)
祈りを通しながら、ルカは思う。
(僕の祈りは……どこまでも遠く、届く)




