第8話 姫様にタメ口
姫様専用の祈祷師宣言から、慌ただしく一日が暮れていき。砦にはしんとした夜が下りてきた。
ルカにあてがわれたのは、砦の片隅の質素な一室。寝台と小さな机がひとつきりで、狭く飾り気もなかった。それでも、隙間風のない壁と暖を取れる火があるだけで、雪原をさまよったあの夜を思えば十分すぎるほどだ。
(終わったぁ……)
長い、長い一日だった。追放され、雪原で死にかけ、姫騎士に拾われ、神剣を目覚めさせ、そして居場所を得た。それがたった数日のうちの出来事だとは、自分でもうまく信じられない。
湯に浸かってひと息ついた頃、食堂へ呼ばれた。行ってみれば、粗末な木の机の上に、湯気の立つ料理が所狭しと並んでいた。
「砦の食事は、質素ですが……温かいものを、用意させました。たくさん食べてくださいね」
イリアがにこにこと、向かいの椅子を勧めてくる。
「い、いや、あの、イリア様。さすがに、量が多すぎませんか?
僕ひとりでは、とても食べられる量じゃ……」
並んだ皿の数を前に、ルカはたじろいだ。明らかに二人前以上ある。
「もちろんです」
イリアは当然のように頷き、言葉を紡いだ。
「だって、私も、食べるんですから」
「姫様も!?」
「はい。よかったら、一緒に食べませんか?」
小首を傾げて、そう言う。その屈託のなさに、ルカは返す言葉を失ってしまった。
(……また、そうやって)
雪原で外套をかけてくれた時のように。村でまっすぐ微笑んでくれた時のように。この人はどうして、こう。何気ない仕草の一つ一つで、人の心を溶かしてしまうのだろう。無意識なのだから、なおたちが悪い。
(はあ……さっきの専属祈祷師発言と言い、ちょっとこの姫様無防備過ぎないか)
照れ隠しに、ルカは木の椀を手に取った。啜ったスープは素朴な塩の味で、冷えきっていた身体の芯にじんわりと沁みていく。
向かいでは、イリアが湯気の向こうで幸せそうに同じスープを口に運んでいた。
温かいものが腹に落ちると、張り詰めていた気が少しずつ解けていく。
彼女はルカの椀が空きかけるたびに、すかさずおかわりをよそい、パンを勧め、干し肉を皿に足した。痩せた小動物にせっせと餌をやる子供さながらの甲斐甲斐しさだ。
「ぼ、僕はいいから、姫様がお食べください」
「遠慮しないでください。ここ何日も、ろくに食べていないのでしょう?」
「う……。それは、はい。その通りです」
図星だった。追放されてからというもの、口にしたのはあの老婆にもらった硬いパンの欠片くらい。言われて初めて、自分がひどく空腹だったことに気づいたほどだ。
湯気と灯りと、向かいで笑う人。ほんの数日前まで雪の中で震えて死にかけていた自分が、今はこうして温かい食卓に着いている。
その落差が、まだうまく飲み込めなかった。覚めない夢の続きでも見ているような、ふわふわとした心地がする。
しばらく二人は黙って匙を動かした。
やがてスープを飲み終えたイリアが、木の椀をそっと置きふと口を開く。
「ところで、ルカ。ひとつ、お願いがあるのですが」
「はい、なんでしょう」
「私に敬語を使うのは……やめていただけないでしょうか?」
ルカは、匙を口へ運びかけた手を止めた。
「……え。そ、そんな……それは、無理です」
「どうして?」
「どうしてって……だって、イリア様は王女様ですよ? そんな、敬語も使わずに話すなんて、不敬にも程があるじゃないですか」
慌てて首を振るルカに、イリアは少しだけ唇を尖らせた。
「ルカには……そういう肩書きで、区別されたくないんです」
まっすぐな碧い瞳が、じっとルカを捉えている。冗談で言っているわけではなさそうだ。
「そ、そんなこと言われましても……」
たじたじになりながら、ルカはなんとか反撃を試みる。
「それなら、姫様の方こそ敬語をやめてくださいよ。もっとこう……王女様らしく、偉そうにしてください」
「ふふっ。それは、無理な相談です」
イリアは悪びれもせずに微笑んだ。
「この話し方は、昔からの癖みたいなものですから。今さら直りません。……だから、直すのはルカの方ですね」
「な、なんですか、その理屈は!」
「ほら。とりあえず、私にため口を利いてみてください」
「む、無理ですって! そんなことしたら……ガングさんに、殺されちゃいますよ!」
昼間のあの古参兵の鋭い眼光を思い出して、ルカは本気で青ざめた。だが、イリアはいっこうに取り合わない。
「だーめ」
人差し指を、ぴん、と立てる。
「これは、王女命令です」
「そ、そんな。こんなことに、王女の権限を使わないでくださいよ……」
「何に使うのかは、私の自由です」
悪戯が成功した子供のような顔で、イリアは笑ってみせて。その笑顔の前では、どんな言い訳も雪のように溶けて消えてしまいそうだった。
ルカは、とうとう観念して息を吐いた。
「わ、わかりました。……えっと」
ごくり、と唾を飲み込む。たった一言、口調を崩すだけのことが、これほど難しいとは思ってもみなかった。三年間、身を縮めて生きてきたルカにとって、誰かに気安く話しかけることは、もう遠い昔に忘れた作法だ。
「よ、よろしく、ね。イリア……様」
やっとの思いで絞り出した第一声は、情けないほどたどたどしい。結局、「様」だけはどうしても取れなかった。
でも、それを聞いた途端、イリアの顔がぱっと花の綻ぶように明るくなった。
「はいっ。こちらこそ、よろしくお願いしますね、ルカ!」
心の底から嬉しそうな、その笑顔。ルカの胸が、また、とくんと跳ねる。
(……なんだ、これ)
たった、それだけのことだ。呼び方を少し崩しただけ。それなのに、この人はこんなにも嬉しそうに笑ってくれる。
王都にいた頃には考えられなかった。無能と嗤われ、誰にも必要とされず、名前すら覚えてもらえなかった自分に。──今は、こんなふうに笑いかけてくれる人がいるだなんて。
追放された、あの日。何もかも終わってしまったと思った。
なのに、どういうわけか、今は悪くない気分だ。それどころか、ほんの少しだけ、幸せだと思ってしまっている。
(全部、姫様のお陰だなぁ)
湯気の向こうで、その姫様は幸せそうにパンを頬張っていた。
この、ささやかで温かい時間を。できることなら、ずっと守っていきたい。
ルカは椀を両手で包んだまま、そっとそう願った。




