第7話 無能祈祷師の働き
陽が落ちると、辺境の寒さはいっそう深く牙を剥いた。
凍てた風に松明の炎が煽られ、砦は早々と寝静まっていく。それでもルカは、繕ったばかりの結界石のそばを離れられずにいた。
繕いは完全ではない。気になって眠れそうになかった。冷えた石に手をかざし、祈りを通して結界の張り具合をそっと視る。
そこで、感触があった。
北東の一角。繕った箇所が外からじわりと押されている。人の手ではなかった。これは、獣だ。それも一つや二つではない。
(来る……!)
ルカは弾かれたように立ち上がり、凍てついた中庭を転げるように駆ける。
篝火のそばで寝ずの番をしていた兵に、言葉を吐き出した。
「北東です! 繕った結界が、押されてます! 数は多くありませんが……魔物が、侵入して来るかもしれません!」
見張り兵が怪訝そうに眉を寄せた。
「何を──」
ちょうど、彼が言葉を発しようとした時だ。その言葉が終わるより早く、北東の壁の向こうで獣の咆哮が夜気を裂いた。
狙われたのは、繕った結界のいちばん弱い一点。そこを食い破って、黒い影が数体、砦の内へ雪崩れ込もうとしていた。
「本当に、来やがった!」
「出合え出合え!」
だが、兵たちは寝込みを襲われてはいなかった。ルカの警告のおかげで、すでに各々が武器を手にしていたのだ。
「迎撃! 隊長の合図を待て!」
叫びとともに、イリアが白銀の刃を鞘から半ばまで抜く。刃が松明の火を弾いて鈍く光った。
もっとも、彼女が斬るまでもなかった。侵入口は狭く、押し寄せる数も少ない。整った迎撃の前では、烏合の群れでしかなかった。
「ルカ、お願いします!」
「わかりました!」
名を呼ばれて、ルカは破れた結界の一点へ駆け寄った。
剣は振れないし、魔物も倒せない。それでも、この穴を塞ぐことならできる。
破れ目の前に膝をつき、手をかざす。今回は血の祈祷陣のような劇的な儀式は不要だ。ただ静かに、的確に。ほつれた結界の糸を指先で手繰り寄せ、侵入口を内側から縫い閉じていく。
「〈結界祈祷〉。……閉じよ」
淡い光の膜が破れ目を覆った。外に取り残された魔物が行き場を失い、壁の向こうで悔しげに唸る。
内へ入り込んだ数体は、イリアと兵たちが危なげなく片づけていった。神剣の白銀の一閃が、闇に一つ、二つ。魔物はすぐに息絶えた。
やがて咆哮は遠ざかり、夜はもとの静けさを取り戻していく。
被害はなかった。崩された壁も、傷ついた兵も、ただの一人も。
東の空が鈍色から薄青へ移ろう頃、長い夜はひとりの死傷者も出さぬまま明けていった。
中庭に集まった兵たちの間には、昨夜とは少し違う空気が流れている。あからさまな敵意は様子見へと変わり、ルカへ向く警戒の棘も、いくらか抜け落ちていた。
「……もし、あの祈祷師の警告がなけりゃ」
誰かが白い息とともにぽつりと言った。
「俺たちは、寝てるところを襲われていたことになる。北東の壁は手薄だ。……何人かはやられてたかもしれん」
その呟きに、幾人かが無言で頷く。
ガングが腕を組んだまま、ルカの前にのっそりと立った。値踏みするような間をしばらく挟んでから、ぶっきらぼうに口を開く。
「王都の祈祷師をすぐに信じるほど、俺たちは甘い環境に生きてねえ」
「……はい」
「まだ、認めたわけじゃない。王都の人間を信じるには、材料が少なすぎる」
それから、ふん、と鼻を鳴らして、目元をわずかに和らげた。
「……だが。今夜の働きは間違いない。口だけじゃないってのは、認めてやる」
無骨で、けれど確かな、辺境の男の承認だった。
ルカは肩の力が少しだけ抜けるのを感じて、控えめに笑った。
「……ありがとうございます。今は、それで十分ですよ」
それからすぐに、イリアの命令で中庭に砦じゅうの兵が集められた。
何事かと窺う目が並ぶなか、イリアがルカを傍らに伴って皆の前に立つ。凍った空気が、彼女のひと呼吸でしんと静まった。
「皆に、紹介します」
凛とした声がよく通った。
「ルカ=エルネスト。彼は今日から、この砦の──いいえ」
イリアはそこで少しだけ言葉を切ると、悪戯を含んだようにやわらかく微笑んだ。
「私の、専属祈祷師です」
どよめきが中庭をざっと駆け抜けた。
(……ちょ、ちょっと待って!? その言い方だと、なんか、語弊があるって!)
ルカは表向き神妙な顔を保ちながら、内心で盛大に慌てていた。私の、ときた。そんな言い方をされては、別の意味に聞こえてしまう気がするのだ。
けれどイリアは、そんなルカの動揺など意に介さない様子で続けた。
「ルカ。あなたを、私の専属祈祷師に任じます」
馬車の中で交わした私的な口約束ではない。砦の長としての公的な任命であり、兵たちの見ている前での正式な言葉だった。
「どうか──私と、この地のために。これからは、祈ってください」
まっすぐな碧い瞳が、ルカだけを映している。
ふいに、胸の奥が詰まった。
三年間、聖杯に映らず、無能と嗤われ、王都に「要らない」と言われ続けた自分。その自分に今、確かな役目と居場所が差し出されている。
ここが。この雪と罅だらけの最果ての砦が──自分の居場所になるのかもしれない。
「……わかりました」
震えそうになる声を抑えて、ルカは深く頭を下げた。
「微力ですが……頑張ります!」
兵たちの間から、まばらな、けれど昨夜より幾分か温かいどよめきが上がった。ガングが腕を組んだまま鼻を鳴らしたのが見える。
(てか……『私の祈祷師様』が公式の肩書きになっちゃってない?)
ルカはこっそりと、耳の裏が熱くなるのを感じていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
このあと、ルカがどうなるのか。
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