第6話 辺境の砦
馬車に揺られること、半日あまり。やがて、雪の稜線の向こうに、その砦が姿を現した。
灰色の空を背負って、ぽつんと立つ、石造りの城砦。近づくにつれて、ルカは察していく。その輪郭が、頭に描いていたものとはずいぶん違うことに。
イリアの言う通り、立派ではなかった。
外壁のあちこちに、古い傷が走っている。魔物の爪痕か、幾度もの攻めの名残か。物見櫓の木組みはいくつか朽ちかけ、風が吹き抜けるたびに頼りなく軋んでいた。門の脇に据えられた結界石は、表面に深い罅が入り、本来なら煌々と灯っているはずの光が、今にも消え入りそうに、心もとなく明滅している。
門をくぐって中へ入れば、その印象はさらに濃くなった。
すれ違う兵たちの装備は、どれも古びている。革鎧は継ぎ当てだらけで、剣の柄には、何度も巻き直した布が黒ずんだまま残っていた。ヨナスに導かれて覗いた食料倉庫は、棚の半分が、がらんと空だ。奥の医務室からは絶えず低い呻きが漏れ、寝台の数では足りず、床にまで横たわる兵がいる。その数は、思いのほか多かった。
ふと、あの大聖堂を思い出した。
天井まで届く、白亜の聖杯。惜しみなく焚かれた、甘い香。数字で人の価値を測る、あの荘厳な儀式の間。同じ王国の中に、これほど隔たった、光の当たる場所と影に沈む場所とがあるのだ。
(これが、最前線なんだ……)
王都が、「現有戦力で対処せよ」の一言で切り捨てた、最果ての防壁。あの大聖堂に満ちていた香の煙が、今はもう遠い別の世界のことのように思えた。
それでも──朽ちかけた櫓の上には、見張りの兵が、背筋を伸ばして立っていた。医務室にいた兵すら、身を起こせる者は槍を杖にして、持ち場へ戻ろうとしている。
見捨てられて、なお。この人たちは逃げずに、ここで踏ん張っている。
その事実が、ルカの胸の深いところを打った。
イリアがルカを連れて中庭へ入ると、兵たちの視線が、一斉に二人へと集まった。
薪を割る手が止まり、交わされていた軽口が途切れる。研ぎかけの剣を膝に置いたまま、誰もが見慣れぬ客人へと目を向けた。そして、低く、ざわつく。
「隊長が、誰かを連れてきたぞ……?」
「兵士や傭兵の類じゃねぇな。何者だ?」
「なんか弱そうだぞ。王都絡みか?」
「ここらの者の顔つきじゃないよな」
空気が、はっきりと硬くなった。凍てついた中庭の温度が、そこからさらに一段、下がった気がした。
その中から、一人の男が、雪を踏んで進み出る。年嵩の、武骨な古参兵だった。肩幅が広く、日に灼けた顔には、古い刀傷が一本、頬を斜めに走っている。副隊長格の男で、ガングというそうだ。
「隊長。失礼ながら、その男は?」
ガングは値踏みするように、ルカを頭から爪先まで眺めた。剥き出しの敵意、というのではない。信用に足る相手かどうかを、慎重に測っていた。
「……王都の祈祷師でしょうか?」
そして、鋭く言い当てる。
「正解です。よくわかりましたね」
イリアが意外そうに目を丸くした。
確かに、今のルカは祈祷師たる風貌ではない。見抜かれるとは、思ってもみなかった。
「はっ。先程、王都より通達がありました。辺境のほうにひとり、祈祷師を追放した、と。まさか、王都が不要と切り捨てた者を、この砦に入れると申すのですか?」
「ガングさん、それは……」
若い兵が、宥めるように言いかけた。けれど、その言葉は継がれなかった。
(くそっ……王都から通達が来てるのか)
苦い思いで、その話を聞いていた。
ルカが何者かわからなければ、旅の祈祷師としてイリアに付くことは難しくなかった。
しかし、追放の通達があったとなれば、話は別だ。
彼らにしてみれば、厄介者を抱え込むことになるのだから。
「王都は」
別の兵が、低く言った。腹の底に澱を溜めたような、疲れた声だった。
「王都は、俺たちに何もしてくれなかったじゃないスか。支援を寄越すと言って、寄越したためしもねーっす。援軍を送ると言って、送られたこともなかったっス」
「王都から来た人間は、皆そうだ」
「口だけですよ。……信じて、裏切られてきた。もう、うんざりなんです」
「そんな王都からの追放者を匿う? それはあまりに危険ではないでしょうか」
ひとつ、またひとつと、恨み言が重なっていった。それはルカ個人へ向けられたものではない。長い年月をかけて、王都という遠い存在に積もり続けたものだ。
(皆……王都が憎いんだ)
その圧に晒されて、ルカは思わず肩を縮めた。
彼らが警戒するのは、正しい。王都に裏切られ続けてきた人たちが、王都から来た人間を疑うのは、あまりに真っ当なことだ。ルカ自身、その王都に無能と切り捨てられた側なのだから。
『僕も、王都に捨てられた側なんです』
そう言い訳することもできる。だが、敢えて言わなかった。ここで身の上を並べたところで、きっと、ただの命乞いにしか聞こえない。弁明は、弱く見えるだけだ。
(言葉じゃなくて……行動で示すしかないか)
黙って、彼らの警戒を正面から受け止めた。
張り詰めた沈黙を割って、イリアが一歩、前へ出る。兵たちの視線が、ふっと隊長へと移った。
「彼は私の客人であり、恩人です」
凛とした声が、冷えた中庭によく響いた。
そして、鞘から神剣を引き抜く。刃が、神々しく輝いていた。
「これが、その証明です。皆も知っている通り、私の神剣は、錆びついていました。でも、彼の祈りのお陰で、真の姿を取り戻したのです」
その刃を前に、兵たちがざわめく。
これまで錆びた剣しか知らなかったのなら、無理もない。これが神剣だと言われても、いきなり信じることなどできないだろう。
「ルカを侮辱することは、私の判断を侮辱するのと、同じこと。……それでも、と言うのなら、まず、私を通してください」
姫騎士の、そして隊長の言葉に、兵たちが気圧されて口を噤む。そばの者と、目を見交わしていた。
神剣を見せつければ、兵たちは信じざるを得ない。イリアはきっとそう考えたのだろう。
だが──。
(それじゃ、ダメなんだ)
このままでは、自分は「隊長が庇っているから、ここに置いてもらえる存在」で終わってしまう。庇われるばかりの人間に、この誇り高い辺境の男たちが心を開くはずがなかった。
ルカは少し迷った末に口を開いた。
「……信じていただけないのは、当然だと思います」
声が、少し震えた。
ガングを始め、兵たちの顔がこちらへ向く。
正直、怖かった。それでも、一語ずつ言葉を継いだ。
「僕は、王都に『要らない』と言われた人間ですから。皆さんが警戒するのは、もっともです」
ガングの片眉が、わずかに上がった。予想と違う出方だったのか、値踏みの目に微かな戸惑いが差す。
イリアもルカの名を呟き、困ったように眉尻を下げた。
「でも。一晩だけ、時間をください」
まっすぐ、ガングを見返す。
「一晩だと? 一晩で何ができる?」
「この砦の結界を見せてもらえませんか? ……何か、お役に立てるかもしれません」
信じてくれ、とは言わない。ただ、証明する機会だけを、くれと。それが、追放された無能に残された、たった一つの手札だった。
結界を例に挙げたのは、なかば確信があったからだ。
ここの結界は、万全ではない。祈祷師としての勘というより、肌で感じる気配に近かった。
兵たちは、互いに顔を見合わせた。半信半疑。判断を仰ぐように、皆がガングを、次いでイリアを窺う。やがてガングは、隊長の顔を立てたのか、ぶっきらぼうに顎をしゃくった。
「……好きにしろ。ただし、妙な真似をすれば、その場で叩き出すぞ」
「はい。ありがとうございます」
ガングに、頭を下げる。
それから、その場はいったん解散となり、兵たちは散り散りになった。
残ったのは、イリアとガングだけだ。
「姫様、結界石はどちらに?」
「結界石なら、あそこですけど」
イリアが、門の脇を指差した。
三人で結界石まで行くと、ルカはその前に膝をついた。
罅の入った、灰色の石。冷たく湿ったその表面には、結界を織り上げるための祈祷式が、蜘蛛の巣のように細かく刻まれている。掌をかざすと、弱々しい魔力の脈動が指先に伝わってきた。
「この結界石、もう結構古いそうなんです。効き目が最近落ちてきているとは、何となくわかっているのですが……」
イリアの声が、そこで小さくなる。買い換える資金がなかったのだろう。
確かに、彼女の言う通りだ。石は古く、魔力も足りていない。替えるか、注ぎ足すかはしなければならないだろう。だが、ルカの目には、それ以外にも気になるものが映っていた。
(……なんだ、これ?)
石の、芯のあたり。罅割れの奥の暗がりに、黒い染みめいたものが、じわりと入り込んでいる。
その、黒。濡れたように粘つく、あの質感。
覚えがあった。イリアの身体に幾重にも巻きついていた、あの鎖だ。そして、聖杯の前で視た、脈打つ黒い杭。あれらと、根を同じくするような気配がある。
言葉にはならない。でも、無視はできなかった。
「これは……古いだけじゃ、ありません」
「む?」
「ルカ、どういうことですか?」
ふたりが、怪訝そうにこちらを向いた。
ルカは石の芯を指す。
「ここ。この石の、芯のあたりに、黒い染みが入り込んでる。……そして、結界の式が、ほんの少しだけ、歪められています」
「歪められている……?」
イリアの表情が、鋭いものに変わった。
「はい。自然に劣化したものなら、こんな歪み方は、しません。もっと……外から意図的に、書き換えられたような。偶然じゃ、こうはならないんです」
「馬鹿な」
ガングが、眉をひそめた。
「結界石が古いのは、今に始まったことじゃない。それを見て、意図的だと? 何を根拠に」
ガングはまだ信じてはいなかった。疑うのが道理だ。証拠など、ルカにも示せはしない。ただ、視えるだけなのだから。理屈で説けるものではなかった。だが──。
「……ルカ。続けてください」
イリアだけは、真剣な眼差しでルカを見つめていた。
彼女は、知っているのだ。「意図的に仕組まれる」ということが、この世に確かにあるのだと。──ほかならぬ、その身に巻きついた呪いという形で。
「完全に直すことは、一晩ではできません」
正直に言った。無理に取り繕えば、かえって式を壊しかねない。
「でも、破れかけた箇所を、一晩だけ凌げるように、繕うことならできます」
両手をかざし、目を閉じて、静かに祈る。
「〈結界祈祷〉──」
罅の走った結界石に、淡い光の糸が幾筋も絡んだ。ほつれかけた場所を指先で拾い、一針ずつ応急に縫い留めていくように。
完全な修復ではない。あくまで、今夜を凌ぐための仮の繕いだ。それでも、消え入りかけていた石の光がひとつ息を吹き返し、少しだけ安定して灯った。
「……ルカ。さすがです。やっぱり、あなたは凄い祈祷師だったんですね」
イリアが安堵したような、信頼しきった様子で言った。
「べ、別に……僕は、そんなんじゃないです」
ガングの睨みつけるような目つきも相まって、居心地が悪くなってしまうルカであった。




