第34話 音のない村
出立の朝は乳色の霧に沈んでいた。
ヴァルターの同行は結局認められた。ただし客としてではなく、一本の剣として。指揮はイリアの下に入るという形だ。それが姫騎士の出した答えで、団長はまた「承知した」と一言だけ返したらしい。
隊は八人。ルカとイリア、ヴァルターにガング、それに手練れの兵が四名。荷は軽く、旗は持たない。村を騒がせないよう、見送りも最小限に絞った。それでも門の坂にはあの少年がひとりだけ立っていた。素振りの手を止めて、無言で枝を掲げてみせる。行ってらっしゃい、の代わりらしい。ルカも黙って手を挙げ返した。
峠道は、はじめのうちこそ賑やかだった。
霧の中でも鳥は囀るし、梢を渡る風も鳴る。沢の水音は絶えず足元を流れていた。春の名残の音たちだ。霧が晴れ、陽が差して、道が山肌に取りつくあたりまでは、確かにそうだった。
異変は、耳から来た。
登るにつれて、音がひとつずつ減っていくのである。まず鳥の声が疎らになり、次いで、藪の奥で立つ小さな物音が絶えた。峠の中腹に差しかかる頃には、風の音と八人ぶんの足音と、自分の息だけが聞こえていた。
「……鳥が、いませんね」
イリアの声がやけに大きく響く。囁いたはずなのに、山が静かすぎて声の置き場がなかった。
先頭近くを行くヴァルターが身を屈め、道の脇を検めた。
「けものの糞も、足跡も、途中から消えている。皆、この山から逃げたのだ」
「逃げた……何を恐れて、でしょう?」
「それを確かめに行く」
短い答えだった。短いぶんだけ、誤魔化しがなかった。
ルカも歩きながら時折目を閉じてみる。地面の下では雪解けの水が変わらず走っていて、土は生きていた。なのに、その上で灯るはずの小さな脈だけが、道の先へ行くほど疎らになっていった。鳥の、鼠の、虫の、名も知らない命の淡い光。それがない。命のほうが、この山を避けているのだ。
小休止のたび、ヴァルターは静かに動いた。
高みへ歩哨を二人上げ、来た道の岐れ目には浅い刻みを入れさせる。退き足の目印だ。指図の声は低く、言葉は少ない。それでいて兵たちは迷いなく動けていた。ガングが顎髭を撫でながら、忌々しさ半分の声で唸った。
「……野戦慣れしてやがる」
「王国の剣、だからね」
「けっ。剣なら、あの冬に振ってほしかったもんだぜ」
悪態はいつも通りだったが、声はもう尖ってはいなかった。
峠を越えたのは、昼を過ぎた頃だ。
眼下に、谷あいの集落が現れた。十数戸の屋根が寄り添い、段々の畑がそれを囲んでいる。ノルドだ。
煙が一筋も上がっていない。
昼飯どきの村から、炊ぎの煙が一本も立っていなかった。それがどういうことか、考えるより先に肌が冷える。隊は無言のまま、谷への道を下りていった。
村は静止していた。
最初の家の戸口は開け放たれたままだった。声を掛けても返事はない。土間の竈には鍋が乗っていて、中身は干からびて底に貼りついていた。食卓には皿が三枚。食べかけの飯は硬く縮み、匙が椀の縁に掛かったままだ。椅子は一脚も倒れていない。
壁の棚には錫の燭台が残り、寝間の櫃には冬着が畳まれたまま。金目のものに手を付けた跡がなかった。
二人一組で家々を検めた兵たちが、順に戻ってくる。報告はどの家も同じだった。人だけがいない。それ以外は、暮らしの途中のまま。
犬小屋の前には、猟師の言っていた通り、留め具ごと外れた鎖が転がっていた。外れているのに、噛み切った痕も引き千切った痕もなく、まるきり道具のほうから犬を放したような外れ方である。
ガングが、槍の石突で軽く地面を突いた。苛立ちの置き場を探しているらしい。
「賊なら、こうはならねえ。争った跡が、どこにもねえからな」
「皆さん、自分の足で……出て行った、ということですか」
「そうとしか見えねえのが、いちばん気味わりいのさ」
イリアの声もガングの声も、低く抑えられている。大声を出してはいけない場所だと、誰に言われずとも全員が弁えていた。
ヴァルターは井戸を確かめ、それから村をゆっくり一巡りして戻ってきた。
「物盗りではないな。物盗りの偽装ですらない。……人だけが、抜き取られている」
抜き取られている──その言い方が、この村の姿にいちばん近かった。
もうひとつ、家々を回るうちに気づいたことがある。蠅の一匹も飛んでいないのだ。干からびた飯の上にも、竈の鍋にも。十日も放られた食べ物に虫のひとつも寄っていなかった。山から命が引いている。その引き潮は、この村の只中がいちばん深かった。
村の広場、集会の鐘の下で、ルカは足を止めた。
さっきから肌がずっとざわついている。産毛の先で蜘蛛の糸に触れ続けているような、細かなざわつきだ。目を閉じて、視た。
そして──それは、視えた。
村ぜんたいに、薄い膜の残滓が掛かっている。ほとんど消えかけの、けれど確かに編まれた式の名残。その編み目は、ルカのよく知る形をしていた。
祝福の式だ。
産着の裾に縫い込む護り。戸口に掛ける小さな結び。砦の結界石に幾重にも編んだ、あの守りの目と同じ体系。息が止まりそうになった。こんな山奥の、こんな仕打ちの真ん中に、どうして祈りの形が?
(いや……違う)
よく視てみると、結び目のひとつひとつが裏返っていた。
外へ向くはずの目が内へ。閉じるはずの端が開いて。守りの式というのは、内の人を包んで外を拒むものだ。これは逆である。すべての目が、内の人を外へ差し出す向きに編まれていた。
喉の奥が干上がる。
そして、消えかけた編み糸の色。その色味に、覚えがあった。主石の奥で脈打つ、あの染みと同じ色。イリアの左腕に今も残る、あの鎖と同じ色だ。
「ルカ、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ?」
「え……? あっ」
イリアの声で、我に返った。いつの間にか隊の全員が広場のこちらを向いている。ルカは一度、深く息を吸った。声が震えないように、腹に力を入れて言葉を選ぶ。
「……これ、祈祷術だ。僕らのと同じ体系の。ただ、全部が逆さに編んである」
「逆さ、とはどういう意味だ?」
「そのままの意味です。守る式を裏返すと──招く式になります。村の人たちは、呼ばれて、歩いて行った」
問うたヴァルターの眉が深く刻まれる。兵たちが顔を見合わせた。祈祷、という言葉とこの空の村とが、まだ頭の中で繋がらないのだろう。無理もないことで、ルカだって視ていなければ信じなかった。
「食事の途中でも、夜中でも、式が満ちれば関係ない。静かに立って、戸を開けて、呼ばれたほうへ歩き出す。……犬の鎖が外れてたのも、たぶんそれだ。式は村の生き物ぜんぶに掛かってた。だから山からも、命が逃げたんだ。裾に触れただけの獣でも、これの気味悪さは分かるから」
「……つまり、これを編んだ者がいる、ということですね」
イリアの声は静かだった。静かなまま、芯のところが冷えていた。ルカは頷く。
「うん。そして、そいつは祈りを知ってる。僕らと同じものを学んだうえで、丁寧に、全部裏返してるんだ」
守るための技を、攫うための技に。癒すための編み目を、呼び立てる編み目に。式の残滓は精緻で、雑な結びがひとつもなかった。憎しみに任せた仕業ではないのだ。祈りを深く修めた誰かが、正気のまま、これを編んでいる。
そこで、イリアと目が合った。
同じことを考えているようだ。だが、それを言うタイミングではない。姫騎士はごく浅く頷いて、口には出さずにしまい直した。
足跡は村外れで見つかった。
北の谷へ続く細道に、大人数の足跡が重なっている。大きいの、小さいの。老人の摺り足も、子どもの浅いのもあった。そして、どれひとつとして乱れていない。誰も走らず、誰も振り返らず、整然と一列になって谷の奥へ向かっていた。
「……行列だ。祭りの行列みてえに、揃ってやがる」
「歩幅が、揃いすぎている。眠りながら歩いたか。あるいは……歩かされたか」
膝をついて足跡を検めたヴァルターが、谷の奥へ顔を上げた。谷は狭く、両岸から岩が迫って、昼だというのに底のほうは暮れ方の色をしている。
イリアが隊を見渡した。
「追いましょう。ただし、谷の入り口まででふ。ノルドの方々の行き先を、掴めるところまでで止めます。深入りはしません。いいですね?」
異を唱える者はいなかった。攫われたのがどこの誰であれ、この辺境の民だ。ここで踵を返す選択肢は、初めから誰の中にもない。
隊列を組み直し、細道へ足を向けた。
その直後──うなじが、粟立った。
風はない。音もなかった。なのに、肌だけが知らせてくる。産毛が根元から立ち上がるような、この上なくはっきりとした報せ。谷の奥。あの暮れ方の色の底に、こちらへ向いて開いているものがある。
ルカの反応に気付いたイリアが、首を傾げた。
「ルカ?」
「……見られてるよ。谷の奥から、ずっと」
誰も動かなくなった。
ヴァルターの手が、音もなく柄へ移る。イリアが半歩、ルカの前へ出た。ガングの合図で、兵たちが背中を寄せて円になる。
谷の口は、ただ暗かった。
視ようとしても、視えない。膜の残滓の、そのさらに奥。暗がりそのものが目になって、瞬きもせずにこちら視ている。敵意とは少し違った。これは、もっと平たいものだ。棚の品を、指を伸ばす前にゆっくり眺めるときの、あの平たさ。
音のない村の外れで、八人は身じろぎもしなかった。
谷の奥の暗がりは、まだ、こちらを視ていた。




