第35話 ささめく仮面
先に引いたのは、向こうだった。
谷の奥に開いていた気配が、ふ、と薄れて暗がりの底へ沈んでいく。うなじの粟立ちが消えて、音のない村に音のない平常が戻ってきた。
それでも、誰もすぐには構えを解かなかった。ガングが低く唸る。
「……消えたのか」
「ううん。引っ込んだだけ。……たぶん、どうぞって意味だと思う」
我ながら嫌な言い方だった。けれど、他に言いようがない。あの平たい目はこちらを検分し終えて、それから戸を開けたのだ。入ってこい、と。
罠だ、ということは全員が分かっていた。
それでも、と口を開いたのはイリアだった。足跡の列に目を落とし、それから隊を見渡す。
「村の方々の安否だけでも、確かめましょう。谷の奥までは行きません。姿が確認でき次第、引き返す。……罠と承知で申し上げています。異存のある方は」
「いるかよ、そんなもん」
ガングが槍を担ぎ直した。兵たちも頷いている。ヴァルターは、と思えば、すでに谷の口の地形を検めていた。
「谷の口に二名を残す。合図は角笛、長くひとつで撤収。……よろしいか、祈祷師殿」
「お願いします」
短いやり取りだけで備えが組み上がっていく。六人になった隊は、足跡の列に沿って谷へ足を踏み入れた。
谷は、喉のようだった。
両岸の岩が頭上で迫り合って、昼の光は細い帯になり、底までは届かない。踏み込んだだけで空気が一段冷え、吐く息がうっすら白んだ。初夏の入り口だというのに、この谷底だけは季節から取り残されているらしい。音は自分たちの足音だけ。それすら岩に吸われて返りが鈍い。話し声を出す者はひとりもいなかった。声を出せば、この静けさに聞き咎められる。誰もがそう思っている足取りだった。
そして──視える。
谷の壁に沿って、あの裏返った編み糸が幾筋も奥へ奥へと延びていた。ぴんと張ったまま、弛みもせず。誰かを繋いで手元へ手繰るような。そんな、糸の張り方だ。
岩の間を幾度か折れたところで、谷がふいに開けた。
岩壁に囲まれた、袋小路のような広場だった。正面の岩肌に古い祠が穿たれている。人の背丈の倍ほどの、石を刳り抜いた龕。彫りは風化しきっているのに、縁に刻まれた結びの紋様だけが妙に生々しい。目を凝らすまでもなかった。その結びも、裏返っている。
そして、その祠の前に。
ノルドの村人たちが、いた。
整然と、座っていた。祠へ向かって、幾列にも。老人も、女も、子どもも。膝を揃え、手を腿に置き、目を閉じて。まばたきひとつない静けさの中で、胸だけが規則正しく上下している。
列の端に、小さな女の子がいた。五つか、六つか。砦の市で見かけたら飴のひとつも買ってやりたくなる年頃の子が、皺ひとつない姿勢で座って、老人たちと同じ深さで眠っている。その行儀のよさが、この場ではいちばんむごかった。
ルカは目を閉じて、視た。ひとりぶんずつ確かめていく。命の灯は細い。細いけれど、消えてはいなかった。まだ、大丈夫だ。
「生きてる。よかった……本当に」
声が震えた。安堵で膝の力が抜けかける。
ヴァルターが最前列の老人の傍らに膝をつき、肩を慎重に揺すった。反応は、案の定なさそうだ。頬を軽く叩いても、瞼は動かなかった。
「起きんな。これは眠りというより……」
言葉の続きを、団長は呑み込んだ。代わりに、ルカの頭の中で嫌な言葉が形になっていく。
保管だ。
この人たちは眠らされているのではなく、しまわれている。使うときまで、傷まないように。現に、視えるのだ。一人ひとりの首筋から細い糸が伸びて、祠の暗がりへ吸い込まれている。
「ようこそ」
その声は囁きだった。
囁きなのに谷いっぱいに通る。紙と紙が擦れるような、乾いてやわらかい声だった。
祠の陰から、するりと人影が出てくる。
黒衣。裾の長い、司祭の装いだった。顔には白い仮面。目の位置に細い切れ込みがふたつあるだけの、のっぺりとした白。男はゆったりと、まったく武張らない足取りで、眠る村人たちの列の間を歩いてきた。
耳の奥で、咄嗟ににあの笑い声を探す。
(……違うな)
この声は、あれではない。裾に同じ闇の匂いを引いているのに、あの声より、ずっと手前にいる。
兵たちが色めき立ち、ガングも武器を構えた。それをヴァルターが手だけで制す。間合いの外。まだ敵対の形すら見せない相手だ。
仮面は列の先頭あたりで足を止めた。胸に手を当てて、優雅とすら言える一礼をする。
「よく視える目です。……あの雪原の膜も、あなたの仕事でしょう? 祈祷師・ルカ」
背中が冷えた。
こちらがこの男を視たのは今日が初めてだ。なのに向こうは、こちらを知っている。名も、目のことも、封じの膜のことまで。
「……あなたが、この村の人たちを?」
「呼んだだけですよ。皆さん、ご自分の足でいらした」
なんでもないことのように、仮面は首を傾げた。
「よい村でした。よく祈り、よく蓄える。……ですから、丁寧に扱っています。ご覧の通り、傷ひとつ付けておりません」
丁寧に。
それは、人への言い方ではない。倉の品を自慢する、物への言い方だ。
ヴァルターが半歩、前へ出た。
「貴様、何者だ?」
「名乗るほどの者では。……ただの、祈る者ですよ」
祈る者。その言葉を、この男が使うのか。指の先まで冷たいものが差した。ノルドを空にした式を編んだのは、まず間違いなくこの手だ。祈りを深く修めて、正気のまま、すべてを裏返した手。
仮面の切れ込みが、ゆっくりとこちらの列を渡っていく。ルカを過ぎ、ガングを過ぎ。そして、イリアの上で止まった。
「ああ、それより。……姫を、こちらへ」
届け物を検めるような、軽い声だった。
イリアの手が剣の柄に掛かる。鯉口が鳴り、白刃が半ばまで走りかけて──その手が、止まった。
仮面が指を軽くひとつ鳴らす。それだけだ。
それだけなのに、イリアの左腕に眠っていた残りの鎖が黒々と浮かび上がって、軋みを上げて締まっていく。腕から肩へ、肩から膝へ。見えない綱に引かれたように姫騎士の身体が傾いで、膝が地に落ちた。
「これ、は……っ、身体が……」
それでもイリアは、落ちた膝のまま柄を離さなかった。腕が震え、震えたまま、白刃をなお引き出そうとしている。三年、これに耐えてきた者の意地だろう。仮面はその抗いを咎めもせず、ただ眺めていた。
「お預けしていたものを、引いただけです。三年も大切に育てていただいて」
「育てた、だって?」
育てた……それは即ち、呪いではなかった、ということだ。いや、枷ですらなかった。
あれは、綱だ。いつでも引けるように、あらかじめ繋いでおくための。三年前の夜、この人たちがイリアに編み込んだのは、苦しめるための棘ではなく、引き寄せるための手綱。三年間彼女が独りで耐えてきたものを、この男は今、預け物と呼んだのだ。
頭の中が、白く灼けた。
「イリア様に──触るなァッ!」
気づけば叫んで、走っていた。
考えるより先に、身体が式を編んでいる。膝をつくイリアの左腕、視えている結びのいちばん手前。綱の引き手にいちばん近い、その一結びへ掌を押し当てて、浄めの祈りを叩き込んだ。悠長に詠んでいる暇はない。祈りは短くていい。届けたい先が、この腕なら。
「……汝にのみ、届け!」
ルカの祈りとともに、結び目が軋んで緩んだ。
破れなかった。祓えもしない。編み手の技は精緻で、ルカの浄めは間に合わせの楔でしかなかった。それでも、締め付けは確かに緩む。イリアが大きく息を吸い、落ちかけていた剣の柄を握り直した。
「動ける……ありがとうございます、ルカ!」
「姫様、ほんとに大丈夫!?」
「はい。やっぱり私は……あなたがいないと、ダメダメですね」
イリアは安堵したような、泣きそうな笑みをルカに向けて、立ち上がった。
表情は弱々しく、立ち上がる膝はまだ震えている。それでも次に出た声は、もう指揮官のものに戻っていた。
「総員、撤退! 谷を出るまで、止まらないでください!」
「みんな走って! この祈りは、長くは保たないんだ!」
「殿は預かる!」
ヴァルターの声が谷に響いた。兵たちが円の形を保ったまま下がり始める。ガングがイリアの右側に付き、ルカは左腕の結びに掌を当てたまま並んで走った。姫騎士は誰にも寄りかからず、自分の足で走っている。それがせめてもの救いだった。
ヴァルターは最後尾に残り、白刃を提げたまま、決して背を向けずに下がっていく。歩数を数えるような、正確な退き足だった。
岩の間を折れるたび、あの広場が視界から遠ざかる。谷の口で待っていた二人の兵が、駆けてくる隊列に気づいて槍を構え、それから顔色を変えて道を開けた。
仮面は、追ってこなかった。
一歩も動かず、胸の前で手を組んで、走り去るこちらを静かに見送っている。その囁きが、最後に岩壁を伝って追いついてきた。
「また来てください。ええ、必ず。……来たくなるように、して差し上げますから」
ルカは走りながら、一度だけ振り返った。
仮面はもう、こちらを向いていない。眠る村人たちの列を、端から端まで、ゆっくりと見回していた。品書きを検める店主のような首の動きだ。
谷の暗がりが白い面を呑んで、視えなくなっていく。




