第36話 鎖の正体
帰りの峠道は、来たときよりさらに静かだった。
誰も口を利かない。あの囁き声を、それぞれの耳がまだ抱えていた。振り返っても谷はもう見えないのに、隊列の足は峠を越えるまで一度も緩まなかった。
砦の灯りが見えたのは、陽がとっぷりと落ちてからだ。
誰も欠けていない。傷ひとつ負わなかった。数の上では、無事このうえない帰還のはずだ。それなのに、門をくぐる八人の足取りは、出て行った朝よりずっと重い。
門前には、報せを聞いた村人たちが集まっていた。ノルドへ偵察が出たことは、もう村中に知れ渡っている。問う顔、祈る顔。その只中で馬を降りたイリアは、背筋を伸ばして短く告げた。
「ノルドの方々は、全員生きておいでです。詳しくは、改めて必ずお伝えします。……今夜は、どうか休んでください」
全員生きている。その一言で、張り詰めていた輪がわずかに緩んだ。けれど、囚われている、の一言はまだ告げられない。告げるための言葉を、こちらが持っていないからだ。
厩に馬を戻し、装備を解く。食堂へ入ると、ヨナスが待っていた。
老従者は、何も訊かなかった。労いも、詮索もなし。ただ、卓に並んだ椀が湯気を立てている。汁は具で溢れかえるほどだった。根菜と、干し肉と、春の豆。黙って置かれた匙を取って、ルカは一口啜った。腹の底に、火がひとつ点る。生き返るというのは、こういう味なのだろう。
食事を終えて食堂を出たところで、待ち伏せに遭った。
例の少年だった。こんな刻限まで起きて、井戸端の暗がりからまっすぐ駆けてくる。
「なあ、祈祷師様。ノルドのやつら、いた?」
「……知り合い、いるの?」
「秋の市で、木剣の削り方教えてくれた兄ちゃんがいる。すげえ削るの上手いんだ」
嘘のつけない目が、こちらを見上げていた。
大人向けの、慎重な言い回しがいくつも頭に浮かんで、ぜんぶ消えた。この目に向かって言えることは、ひとつしかない。
「生きてたよ、みんな。ただ……帰ってくるのは、まだ少し時間がかかるかも」
「……どれくらい?」
「わからない。だけど……必ず、連れて帰るから」
「わかった……約束な! 指切りだかんな!」
小指が絡む。子どもの指は、驚くほど熱かった。
軽々しい約束だと、頭の隅では分かっていた。敵の正体は知れず、手立てもまだない。それでも、言い直す気にはなれなかった。指切りを解いて駆けていく背中を見送ってから、ルカは執務棟へ足を向ける。
執務室には昨日と同じ顔ぶれが集まっていた。
同じ卓に、同じ北の地図。違うのは、そこへ乗せるものの重さだけだ。
イリアが分かったことを順に並べていく。敵は祈祷術を知り、それを裏返して使うこと。村人は害されず、生かしたまま保管されていること。そして、イリアの鎖は呪いではなく、引くための綱だったということ。淡々とした声だったが、最後のひとつを口にするとき、卓に置かれた姫騎士の拳は白くなっていた。
そこでルカは、息を吸って、最後の荷物を卓に乗せた。
「まだ話していなかったことがあります。冬の決戦のあと、僕は主石の奥に、祓いきれなかった黒い染みを封じました。……あの染みと、姫様の鎖と、ノルドの逆さの式。視える色が、全部同じなんです」
「つまり、同じ手が編んでいる、ということか」
「うん。姫様の呪いも、冬の魔物も、今度の村も。……全部、同じ〝手〟だ」
ヴァルターの問いに頷きながら、我ながら嫌な絵だと思った。ばらばらに見えていた出来事が、一本の糸で裏から縫い合わされていく。
卓の空気が、ひとつ沈んだ。谷であの光景を見た者は、皆同じ顔をしている。列の端で眠っていた、あの小さな女の子。あの子の首筋にも、糸は繋がっていた。取り返しに行かなければ、あの行儀のいい寝姿のまま、使われる日を待つだけになる。
ガングが腕組みのまま、唸るように言った。
「奴らの狙いは、はじめから姫様おひとりってわけかい。村は……撒き餌ってことか」
「殿下の呪いも、この日のための仕込みだったと?」
「たぶん。……ずいぶん気の長い〝手〟だよ」
三年だ。三年前に綱を掛けて、飼い慣らすように待って、頃合いを見て餌を撒いた。急がないということは、急ぐ理由がないといことだ。あの仮面の、あの平たい落ち着きは、そういうところから来ている。
ヴァルターが地図の谷を睨んで、低く唸った。
「解せんことがある。綱があるなら、なぜ今日まで引かなかった。なぜ砦から引き抜かん」
「……分からない。ただ、あの谷まで、自分の足で来させたがってる。手元でしか出来ないことが、あるんじゃないかな。それと」
ルカは、谷で視た糸の張り方を思い出しながら続けた。祠へ吸い込まれていた、村人たちの首筋の糸。あれと同じ場所へ、イリアの綱も繋がりたがっていた。
「姫様の綱は、まだ〝満ちてない〟んだと思う。だから、揃うまでは丁寧に扱ったんじゃないかな。……あの男の言い方を借りるなら、そういうことだと思うよ」
「全く。王家の血に、何をさせる気だ」
ヴァルターの声は、ほとんど独り言だった。
誰も答えを持っていない。答えは谷の暗がりの底にしかなかった。向こうはイリアを欲しがっている。そのために、百に近い民を倉に入れた。分かっているのは、それだけだ。
軍議は、続きを翌朝に残して散会になった。
兵たちが出ていき、ガングが出ていき、ヴァルターが一礼して出ていく。燭がひとつ残った執務室で、イリアは席を立たなかった。ルカも、同じく。いや、立てなかった、が正しい。この人が今どんな顔で地図を眺めているのか、確かめるまでは動けなかった。
長い沈黙のあとで、姫騎士は静かに口を開いた。
「……あの方々は、私のせいで攫われました」
「それは違う」
「いいえ。撒き餌、とガングは言いました。釣られる魚がいなければ、餌は撒かれません。ノルドの方々は、私を呼ぶための餌として使われたんです」
声は乱れていなかった。乱れていないことが、いちばん心配だった。この人は自分を責めるとき、いつもこんなふうに静かになる。
そして、彼女は続けた。
「私が行けば、あの方々は……解放される、かもしれません」
自棄でも、芝居でもない。まっすぐに算盤を弾いた声だった。百人と、ひとり。その勘定を、この人は本気でしている。だからこそ、質が悪かった。
怒りは、ある。けれど怒鳴る代わりに、ルカは喟然として息を吐いた。
悪いのは餌を撒いた手であって、釣られる魚ではない。正論なら、いくらでも積めるはずだ。けれど正論は、この人の静かな算盤を止められない。止められる言葉を、ルカはひとつしか知らなかった。
「それ、僕に言った台詞と逆のこと、してるよね」
「それは……」
「ひとりで背負わない。誓ったのは──僕だけじゃないでしょ?」
雪解けの朝を思い出す。染みのことも、笑い声のことも、全部話した朝。今度は初めから二人だと言って、その言葉でルカの独りを解いてくれたのは、目の前のこの人だ。
イリアが白銀のまつげをゆっくりと伏せた。
「……そうでした」
長い息とともに、肩の張りがほどけていく。顔を上げた姫騎士は、泣き笑いに似た顔をしていた。
「卑怯です、ルカ。私にいちばん効く言葉を、覚えているのですから」
「覚えてるよ。……大事な誓いだから」
それから二人は、燭が短くなるまで話した。行くなら、全員で。渡すのではなく、取り返しに。明日の軍議で諮りたいことを、言葉になるまで並べて、確かめ合った。
*
翌朝の執務室には、光が差していた。
同じ卓、同じ地図。けれど空気は昨夜と違っていた。眠って、食べて、覚悟の据わった顔が並んでいる。
イリアが立ち上がり、地図の上、ノルドの谷に指を置いた。
「こちらから出向きましょう。守るために、攻めるんです」
籠って待てば、村の方々は失われる。敵はこちらを呼んでいるのだ。ならば行ってやろう。ただし、向こうの望む形では行かない。奪われた人々を、こちらの形で取り返しに行くのだ。姫騎士の声は、迷いなくそこまで通した。
ルカが、続いた。
「うん……全員、連れて帰るんだ」
「おう! そうこなくっちゃな!」
ガングが膝を打ち、兵たちの背筋が伸びる。そのとき、低い、聞き慣れない音がした。
ヴァルターが肩を揺らしていた。笑っている。この砦へ来てから、初めて見る顔だった。
「ふっ。籠城より無謀で、王都のどの軍議より、まっとうだ。全く……私が求めていたものが、ここにあったとはな」
「ヴァルターさん……」
団長は立ち上がると、卓を回り、二人の前で膝を折って騎士の礼をとった。
「イリア殿下。そして、祈祷師・ルカ。どうか、この剣を自由にお使いください。必ずや、お役に立ってみせましょう!」
顔を上げた団長の目に、迷いの色はもうなかった。ガングが口笛を吹き、執務室の空気がひとつ、確かに束ねられる。
窓の外では、朝日を受けた北の山並みが、今日も静かに連なっていた。あの静けさの底で、白い仮面が待っている。
だからなんだ。今度は、こちらから行く。待つ側は、昨日で終わりだ。
小指の先に、あの指切りの熱が、まだ残っている気がした。




